【追悼2017】経営者たちは後世に何を残したか
2017年は、日本経済が「いざなぎ景気」を超える景気拡大を記録する一方、朝鮮半島情勢の不安定化リスクがくすぶる1年となった。混迷を続ける東芝は、上場維持にめどをつけた。また、天皇陛下が19年に退位し、改元することも決まった。こうした中、幾多の苦境を乗り越え、日本経済の発展に尽力されてきた経済・産業界の著名人たちが逝去された。ご冥福をお祈りします(肩書は当時の各社・各団体による)。
専務時代にDVD規格競争に勝利し、東芝社長に抜てき。「西室改革」と呼ばれたリストラに着手した。財界では経団連副会長や評議員会議長、政府の財政制度等審議会会長など多くのポストで活躍。さらに東京証券取引所と日本郵政のトップを務める異例の経歴を歩んだ。東芝への影響力を長く残したことで、最晩年に経営混乱への関与が批判された。
(10月14日死去、81歳)
大学卒業後、父らが創業した従業員55人の燃焼機器製造の町工場に入社した。同社製品の基礎となるドイツ社特許技術の使用権を取得。1966年に社長、01年に会長となり海外展開を推進した。「品質こそ我らが命」を唱え、同社を世界有数のガス機器メーカーに育てた。中部財界を代表する論客で、84―16年に名古屋産業人クラブの会長も務めた。
(3月20日死去、90歳)
旧NKK(現JFEスチール)社長時代に旧川崎製鉄(同)との経営統合を主導し、2002年に発足したJFEホールディングスの初代社長に就任。新体制の経営基盤を築いた。「NKKを強い会社にする」との固い信念を胸に、統合に向けて強い指導力を発揮した一方で、人と接する際には常に明るく自然体で振る舞う「外柔内剛」の人柄だった。
(10月25日死去、83歳)
住友金属工業(現新日鉄住金)副社長、会長をつとめた後、1992年に大阪チタニウム製造(現大阪チタニウムテクノロジーズ)社長に転じた。就任早々、社名を住友シチックスに変更。三菱マテリアルとの事業統合にも尽力した。三菱住友シリコン(現SUMCO)の初代社長に就任した。よく通る声でインタビューに応じていた姿が印象的だった。
(4月11日死去、88歳)
ノートパソコン事業を世界首位に押し上げた功績で、早くからトップ候補と目された。社長就任後は米原子力大手ウエスチングハウス買収や半導体の巨額投資など大胆な決断に定評があった。一方で自ら後継に選んだ佐々木則夫社長と対立。さらに東芝の不正会計が明らかになると、元トップとして経営の混乱と投資失敗の責任を問われた。
(12月8日死去、73歳)
1978年に豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)社長、93年に会長に就任。トヨタ自動車グループ創始者で豊田自動織機創業者の豊田佐吉氏の甥(おい)に当たり、事業の多角化や海外展開を指揮した。04年から07年までは中部経済連合会の会長を務め、地域の発展にも尽力した。名前を音読みして「ほうねんさん」と周囲に親しまれた温情の人だった。
(1月8日死去、91歳)
バブル崩壊に伴い業績が低迷するなか、メカトロニクスに経営資源を集中させ、サーボモーターやロボットといった現在の安川電機の基礎を築いた。またデミング賞受賞に貢献するなど品質管理強化に努めた。財界活動にも熱心で、北九州活性化協議会会長や北九州商工会議所副会頭を歴任。厳しくも誠実な人柄が経済界だけでなく地域にも愛された。
(7月21日死去、80歳)
長身で気さくなバンカーとして財界の人気者だった。当時、戦後最大とされた三光汽船の倒産処理では腐心した。1987年には大阪商工会議所副会頭に就き、関西国際空港開港に尽力した。洋蘭を愛し、90年の国際花と緑の博覧会では、大和銀行(現りそな銀行)を主力取引先とする企業を「大輪会」としてまとめたのも人望ある故だった。
(8月30日死去、94歳)
“機械商社・山善”を家電事業などとのダブルウイング体制にする礎を築いた。1963年、創業者の故山本猛夫氏に魅せられ山善に入社。有言実行を座右の銘とし、社員にもビジョンの共有と目標達成意識を根付かせ、海外市場を開拓するなど攻めの姿勢で成長をけん引した。
(1月13日死去 77歳)
独創的な楽器を次々と世に送り出した“電子楽器の父”。電子楽器の世界共通規格「MIDI」の制定により、米グラミー賞の技術賞を日本人の個人として初めて受賞した。「新しいものをつくらないとあかん」が口癖。83歳で有志と新会社「ATV」を設立、生涯を音楽に捧(ささ)げた。
(4月1日死去、87歳)
孫正義氏(現ソフトバンクグループ会長兼社長)と共に1996年にヤフーを創業。同年に孫氏の後を継ぎ、社長に就任。日本のインターネット黎明(れいめい)期にポータルサイト「ヤフージャパン」を立ち上げ、国内最大級のサイトに育てた。12年の退任まで16期連続の増収増益を達成した。
(4月26日死去、60歳)
電機産業の発展を見越し、1961年に船井電機を創業。00年代は中国生産によるコスト競争力を武器に、米流通大手のウォルマート・ストアーズにAV機器を大量供給する仕組みを確立、会社を成長させた。亡くなる直前も病院から経営会議に参加するなど生涯現役を貫いた。
(7月4日死去 90歳)
1980年に長州産業を設立。半導体製造装置や太陽光発電システムなどを相次いで事業化し、一代で山口県を代表するモノづくり企業に育て上げた。晩年は国産キャビアを夢見てチョウザメの養殖を始めるなど、持ち前の情熱が衰えることはなかった。
(6月7日死去 80歳)
実兄で日進工具創業者の進二氏が急逝し、1991年に社長に就いた。苦境の中で覚悟を決め、4工場を仙台市近郊に集約。大手が手薄だった超硬小径エンドミルに特化。04年無借金経営とし、ジャスダック上場を果たした。59歳で工学博士号を取得する努力家でもあった。
(6月20日死去 69歳)
1962年に福山パール紙工(現エフピコ)を創業し、同社を食品容器の業界最大手に押し上げた。カラートレーや耐熱容器などをいち早く投入し、回収容器をリサイクルする体制を確立した。決算会見では、ずらりと並べた自社トレーを前に説明する姿がおなじみだった。
(5月23日死去 79歳)
早稲田大学文学部卒業後、1956年に三豊製作所(現ミツトヨ)入社。71年から社長、85年からは会長を務めた。海外拠点を北米・西欧からアジアや東欧などに広げて同社のグローバル展開を加速させたほか、生産管理の合理化も進めた。85年からは仏教伝道協会会長も務めた。
(2月16日死去 84歳)
1960年に発売した同社初の乗用車「R360クーペ」の開発責任者を務めた後、ドイツメーカーと提携し技術導入したロータリーエンジンの開発を率いた。マツダの戦後の成長を支えた象徴的な技術者。山本氏の残した「飽くなき挑戦」という言葉は、今日も同社の精神的な支柱となっている。
(12月20日死去、95歳)
西室泰三さん(元東芝会長・社長)
専務時代にDVD規格競争に勝利し、東芝社長に抜てき。「西室改革」と呼ばれたリストラに着手した。財界では経団連副会長や評議員会議長、政府の財政制度等審議会会長など多くのポストで活躍。さらに東京証券取引所と日本郵政のトップを務める異例の経歴を歩んだ。東芝への影響力を長く残したことで、最晩年に経営混乱への関与が批判された。
(10月14日死去、81歳)
内藤明人さん(元リンナイ会長・社長)
大学卒業後、父らが創業した従業員55人の燃焼機器製造の町工場に入社した。同社製品の基礎となるドイツ社特許技術の使用権を取得。1966年に社長、01年に会長となり海外展開を推進した。「品質こそ我らが命」を唱え、同社を世界有数のガス機器メーカーに育てた。中部財界を代表する論客で、84―16年に名古屋産業人クラブの会長も務めた。
(3月20日死去、90歳)
下垣内洋一さん(元JFEホールディングス社長)
旧NKK(現JFEスチール)社長時代に旧川崎製鉄(同)との経営統合を主導し、2002年に発足したJFEホールディングスの初代社長に就任。新体制の経営基盤を築いた。「NKKを強い会社にする」との固い信念を胸に、統合に向けて強い指導力を発揮した一方で、人と接する際には常に明るく自然体で振る舞う「外柔内剛」の人柄だった。
(10月25日死去、83歳)
森禮次郎さん(元SUMCO社長)
住友金属工業(現新日鉄住金)副社長、会長をつとめた後、1992年に大阪チタニウム製造(現大阪チタニウムテクノロジーズ)社長に転じた。就任早々、社名を住友シチックスに変更。三菱マテリアルとの事業統合にも尽力した。三菱住友シリコン(現SUMCO)の初代社長に就任した。よく通る声でインタビューに応じていた姿が印象的だった。
(4月11日死去、88歳)
西田厚聡さん(元東芝会長・社長)
ノートパソコン事業を世界首位に押し上げた功績で、早くからトップ候補と目された。社長就任後は米原子力大手ウエスチングハウス買収や半導体の巨額投資など大胆な決断に定評があった。一方で自ら後継に選んだ佐々木則夫社長と対立。さらに東芝の不正会計が明らかになると、元トップとして経営の混乱と投資失敗の責任を問われた。
(12月8日死去、73歳)
豊田芳年さん(元豊田自動織機会長・社長)
1978年に豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)社長、93年に会長に就任。トヨタ自動車グループ創始者で豊田自動織機創業者の豊田佐吉氏の甥(おい)に当たり、事業の多角化や海外展開を指揮した。04年から07年までは中部経済連合会の会長を務め、地域の発展にも尽力した。名前を音読みして「ほうねんさん」と周囲に親しまれた温情の人だった。
(1月8日死去、91歳)
永次廣さん(元安川電機会長)
バブル崩壊に伴い業績が低迷するなか、メカトロニクスに経営資源を集中させ、サーボモーターやロボットといった現在の安川電機の基礎を築いた。またデミング賞受賞に貢献するなど品質管理強化に努めた。財界活動にも熱心で、北九州活性化協議会会長や北九州商工会議所副会頭を歴任。厳しくも誠実な人柄が経済界だけでなく地域にも愛された。
(7月21日死去、80歳)
安部川澄夫さん(元大和銀行<現りそな銀行>頭取)
長身で気さくなバンカーとして財界の人気者だった。当時、戦後最大とされた三光汽船の倒産処理では腐心した。1987年には大阪商工会議所副会頭に就き、関西国際空港開港に尽力した。洋蘭を愛し、90年の国際花と緑の博覧会では、大和銀行(現りそな銀行)を主力取引先とする企業を「大輪会」としてまとめたのも人望ある故だった。
(8月30日死去、94歳)
吉井亨さん(元山善会長・社長)
“機械商社・山善”を家電事業などとのダブルウイング体制にする礎を築いた。1963年、創業者の故山本猛夫氏に魅せられ山善に入社。有言実行を座右の銘とし、社員にもビジョンの共有と目標達成意識を根付かせ、海外市場を開拓するなど攻めの姿勢で成長をけん引した。
(1月13日死去 77歳)
梯郁太郎さん(ローランド創業者)
独創的な楽器を次々と世に送り出した“電子楽器の父”。電子楽器の世界共通規格「MIDI」の制定により、米グラミー賞の技術賞を日本人の個人として初めて受賞した。「新しいものをつくらないとあかん」が口癖。83歳で有志と新会社「ATV」を設立、生涯を音楽に捧(ささ)げた。
(4月1日死去、87歳)
井上雅博さん(元ヤフー社長)
孫正義氏(現ソフトバンクグループ会長兼社長)と共に1996年にヤフーを創業。同年に孫氏の後を継ぎ、社長に就任。日本のインターネット黎明(れいめい)期にポータルサイト「ヤフージャパン」を立ち上げ、国内最大級のサイトに育てた。12年の退任まで16期連続の増収増益を達成した。
(4月26日死去、60歳)
船井哲良さん(船井電機創業者)
電機産業の発展を見越し、1961年に船井電機を創業。00年代は中国生産によるコスト競争力を武器に、米流通大手のウォルマート・ストアーズにAV機器を大量供給する仕組みを確立、会社を成長させた。亡くなる直前も病院から経営会議に参加するなど生涯現役を貫いた。
(7月4日死去 90歳)
岡本要さん(元長州産業会長・社長)
1980年に長州産業を設立。半導体製造装置や太陽光発電システムなどを相次いで事業化し、一代で山口県を代表するモノづくり企業に育て上げた。晩年は国産キャビアを夢見てチョウザメの養殖を始めるなど、持ち前の情熱が衰えることはなかった。
(6月7日死去 80歳)
後藤勇さん(日進工具会長)
実兄で日進工具創業者の進二氏が急逝し、1991年に社長に就いた。苦境の中で覚悟を決め、4工場を仙台市近郊に集約。大手が手薄だった超硬小径エンドミルに特化。04年無借金経営とし、ジャスダック上場を果たした。59歳で工学博士号を取得する努力家でもあった。
(6月20日死去 69歳)
小松安弘さん(エフピコ会長・創業者)
1962年に福山パール紙工(現エフピコ)を創業し、同社を食品容器の業界最大手に押し上げた。カラートレーや耐熱容器などをいち早く投入し、回収容器をリサイクルする体制を確立した。決算会見では、ずらりと並べた自社トレーを前に説明する姿がおなじみだった。
(5月23日死去 79歳)
沼田智秀さん(ミツトヨ元会長・社長)
早稲田大学文学部卒業後、1956年に三豊製作所(現ミツトヨ)入社。71年から社長、85年からは会長を務めた。海外拠点を北米・西欧からアジアや東欧などに広げて同社のグローバル展開を加速させたほか、生産管理の合理化も進めた。85年からは仏教伝道協会会長も務めた。
(2月16日死去 84歳)
山本健一さん(元マツダ会長・社長)
1960年に発売した同社初の乗用車「R360クーペ」の開発責任者を務めた後、ドイツメーカーと提携し技術導入したロータリーエンジンの開発を率いた。マツダの戦後の成長を支えた象徴的な技術者。山本氏の残した「飽くなき挑戦」という言葉は、今日も同社の精神的な支柱となっている。
(12月20日死去、95歳)
日刊工業新聞2017年12月27日