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AIが人間の良きパートナーとなるためには「哲学」が必須

<情報工場 「読学」のススメ#14>『人工知能のための哲学塾』(三宅 陽一郎 著)>

デカルトの「考える」からフッサールの「判断停止」へ


 17世紀に活躍したフランスの哲学者、ルネ・デカルトは、著書『方法論序説』の中で、「我思う、ゆえに我あり」という名言を残した。これは、あらゆる物事を疑っていくと、疑えないものが一つだけ残る、それは「考える“我”」である、ということを意味している。その疑い得ない“我”が「考えること」がその後の哲学、近代科学の出発点になり、大前提となった。

 ところが20世紀初頭に、この大前提に疑問を投げかける者たちが現れる。その一人が、現象学を初めて提唱したエトムント・フッサールだ。フッサールはデカルトの「考えること」をいったんやめることを提案した。私たちは目の前にある物事を認識するとともに、それについて考え、判断する。その思考と判断をいちど停止する(エポケー)。すると“判断されない”生のままの対象が浮かび上がってくる。

 そのようにして、いちど思考と判断をリセットした対象に対し、再び意識を向ける。そこでは「考える」だけでなく、どう感じるか、どんな記憶が呼び覚まされるか、などさまざまな意識の流れが生じる。そのことで、世界をより幅広く、立体的に捉え直すことができるのだ(志向的表現)。

 三宅さんは、これまでの人工知能開発は、もっぱら「考えること」が重視されるデカルト的世界にあったと指摘。それにフッサール的な世界の見方を加えることで、より人間らしい反応ができるようになるとしている。

 たとえば人工知能がグラスに入ったカクテルを認識するとしよう。「考える」だけの人工知能は知識表現(知能が論理的に思考するのに必要な情報)しか反応できない。「グラス20センチメートル」「杏酒がグラスに入っている」「レモンがグラスに入っている」「マイナス5度」「グラスを持つことができる」「飲むことができる」といった具合だ。

 もし、現象学的な認識ができる人工知能であれば、これに志向的表現を加えることができる。すなわち「この輝きは黄金に似ている」「去年シカゴで飲んだリキュールと同じ味だ」「レモンはシチリア産か」「グラスの表面はつるつるで亀の甲羅と似ている」など。いずれも、感情が入っていたり、過去の経験に照らして判断したりしている。より人間らしさが出てくるのは間違いない。

ゲームのキャラクターやロボットに自らの身体を生きさせる


 また、1945年に『知覚の現象学』を著した哲学者モーリス・メルロ=ポンティは、身体と意識の関係について考察している。身体はモノとして他者からは客観的に認識することができる。しかし自分の身体は、それと同時に生きる主体である。自分自身が自分の身体を認識するためには、外から見ただけではわからず、身体を「生きる」しかない。メルロ=ポンティは、そんな身体の両義性を論じている。

 この論議は、ゲームのキャラクターや、ヒト型や動物型のロボットに人工知能を搭載する時に、避けては通れないものだろう。三宅さんによれば、まだ決定的な実装方法は見つかっていないそうだが、実装されれば、人間と同じようなスムーズな動きや、身体全体を使って自然に感情を表せることが期待できる。

 もしこれから私たちが人工知能やロボットを、単に「使う」だけなのであれば、この『人工知能のための哲学塾』の議論はさほど重要ではないのだろう。デカルト的に「考える」だけでよいからだ。しかし、冒頭のアンケート結果のように、「コミュニケーションの相手になってくれる」「ロボットとの生活が実現する」ことが求められる、すなわちパートナーとして協働していこうとするのであれば、開発者に哲学の知識が必須になる、ということだ。

(文=情報工場「SERENDIP」編集部)

『人工知能のための哲学塾』
三宅 陽一郎 著
ビー・エヌ・エヌ新社
320p 2,400円(税別)
ニュースイッチオリジナル
冨岡 桂子
冨岡 桂子 Tomioka Keiko 情報工場
本書の著者、三宅陽一郎氏は、ゲーム会社の(株)スクウェア・エニックスのゲームAI開発者です。AIというと、例えば、IBMのワトソンが医療で診断のために使われるなど、人間には到底できない膨大な学習の中から答えを見つけ出すというイメージがありました。人間の考えること=論理的なことだけではなく、「どう感じるか、どんな記憶が呼び覚まされるか、などさまざまな意識の流れ」もAIが学習していくというのは、バーチャルな人が生きる空間=バーチャルリアリティであるゲームを開発しているエンジニアならではの視点なのかもしれないと感じました。

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