「嫌なこと、大変なことは、みんな盛田さんが引き受けてくれた」(井深大)

文=原直史(元ソニー役員) ソニー広報マンが見た2人の創業者、唯一無二の関係

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井深さんと以心伝心の関係だった盛田昭夫さん
 ウォークマンは、井深大さんのリクエストでエンジニアが試作品を作り上げ、盛田昭夫さんがそれを見て「これは若者に喜ばれる。」と、その価値を見抜いて売り出した商品だ。当時、ソニー内部でも、録音機能のないカセット機器を販売するという発想はなかった。それを盛田さんは決断し、自らプロモートされた。1979年、私は入社2年目、今から37年も前の話だ。ちなみに、この時、井深さんは71歳、盛田さんは58歳だった。

「ウォークマン」にこだわった盛田さんの鋭敏な感覚


 この商品を、ウォークマンブランドで、全世界に売り出そうとすると、米国と英国の2か国から反対があった。英語としておかしい、この商品名は使いたくないという。マーケティングチームは、英語ネイティブの人達がいうのだからと彼らの意見を受け入れ、この両国では当初、別の名前で売り出された。

 盛田さんは、すぐにその中止を命じた。この商品は全世界共通のウォークマンブランドで販売する、この名前を世界に広げようと決断されたのだ。そして盛田さんは、米英を含む全ソニーにウォークマンの使用を指示されたのである。

 後に、ウォークマンという名前は、ヘッドホンステレオの代名詞として、世界で認められ、オックスフォード辞典にも記載された。それを聞いて、盛田さんは大変喜ばれた。この逸話は、ソニーの社史にも書かれている。

 当時、世の中にはなかった録音機能のない「カセットプレーヤー」を売れると判断する発想の柔軟性、ブランドや言葉に対する鋭敏な感覚は、今考えても、卓越している。

日本企業の指針、グローバル・ローカライゼーション 


 記事「20世紀の20人」に選ばれた唯一の日本人、もうひとりのソニー創業者にも触れられているが、盛田さんは、日本企業の指針としてグローバル・ローカライゼーションというメッセージを発信された。そして行動の指針として、社内では「Think globally, Act locally」を盛んに説かれていた。グローバル経営の本質を端的に表した言葉だと思う。

 1990年代になって、グローバリゼーションという言葉が多用され、その後グローカリゼーションという造語が生まれたが、そのはるか前のことだ。盛田さんの言葉を耳にしていた私は、後にグローカリゼーションという造語を聞いても、新規性を感じなかった。おそらく私の同僚も同じ気持ちだっただろう。

 私個人は、それほど盛田さんとの接触が多かったわけではないが、1992年、井深さんが文化勲章を受章された際、思い出深い出来事があった。当時、井深さんはご病気で、車椅子での移動は問題がないが、言葉が少しご不自由で、発言が相手には聞き取りにくい状態だった。

広報という仕事に就いた幸運


 文化勲章を受章されると、記者会見がある。それをどのように執り行うか、広報は苦慮し、盛田さんに相談に行った。盛田さんは即座に、「いいよ。私が介添え役になり、解釈して伝えるから。私は井深さんが言われることがわかるんだよ」とおっしゃったのである。

 こうして記者会見は、井深さんを中心に、盛田さん、井深さんの秘書を長く勤められた倉田裕子さんが会見席に座られた。その会見のプレスとのやり取りの中で、井深さんがこのようなことをおっしゃった。

 「自分は製品の開発など好きなことだけ、やってきた。嫌なこと、大変なことは、みんな、盛田さんが引き受けてくれた」。隣でそれを聞かれていた盛田さんの目がたちまち赤くなった。唯一無二の関係であったであろう、創業者お二人の絆の深さを、目の当たりにした瞬間だった。

 私は、20年以上経った今でもこの時のことを思い出すと、胸が熱くなる。企業人として長く広報に携わってきたが、この時ほど、広報という仕事に就いていた自らの幸運を感じたことはほかにない。

「20世紀の20人」に選ばれた唯一の日本人、もうひとりのソニー創業者


日刊工業新聞2016年3月25日


 1998年12月。米タイム誌が選んだ「20世紀の20人」の中で唯一、日本人として選ばれた人物がいる。井深大とともにソニーを創業し、「米国で最も有名な日本人」と知られた盛田昭夫だ。日本を代表する国際派経済人である。

 技術の井深、営業の盛田という両輪で世界企業に躍り出たソニー。”世界のセールスマン“と呼ばれた盛田のすごさは、自ら世界市場を開拓したことだ。

 商社を活用し、世界にアクセスすることが当たり前とされた時代において、盛田が考えたのは自社の販売ネットワークの確立。「信用」を重視し、自ら販売網を構築した。欧米を飛び回ることをいとわず、「長距離通勤」と言って楽しんだ。

 白髪でスマートな盛田は、「日本的なものと西洋のスタイルが溶け合っている」と評された。しかし最大の懸案事項の日米貿易摩擦には心を痛めた。

 強硬な米国側を批判するのではなく、日本側の対応にも注文をつけた。言葉だけでなく文化や慣習を理解する必要性を指摘、「米国の日本企業は、現地に溶け込む努力が必要。コミュニティー・サービスを怠ってはいけない」。”グローバル・ローカライゼーション“を説き続けた。

 93年11月、テニス中に倒れた。くしくもその日は、経団連会長の平岩外四から後任を託される日だったと言われている。幻の「盛田経団連」を惜しむ声は今も絶えない。
(敬称略)

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COMMENT

明豊
執行役員デジタルメディア局長 DX担当

ニュースイッチ・ファシリテーターの原さんが上記の盛田さんの記事にコメントを書きたいとおっしゃって、送られてきたの文章が、井深さんとの秘蔵エピソードだったのでメーンのコンテンツにしました。 記者をしていると、広報の方と接することが多く、たまにどのようなモチベーションで仕事をしているのか、と感じることもある。広報は経営トップと非常に近しい関係になるが、一方で客観的にマネジメント見る目も必要だ。でも自社のトップを心から誇れるほど幸せなことはない。

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