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米国より日本がロボット開発に強い動機を持っていたのはなぜか

産業用ロボットの技術と市場の航跡 #2 1960~70年の、日本の産業用ロボットへの強い期待

1968年に川崎重工業がユニメーション社と技術提携契約を結び、1969年に国産ユニメート1号機が開発されています。日本の1960年代後半は製造業を中心とした高度経済成長の絶頂期で、鉄鋼・造船・石油化学などの重化学工業に加え、自動車・電気機器などのハイテク産業が急成長しています。量産指向のハイテク産業の成長は設備投資と雇用の拡大を伴い、重化学工業はハイテク産業に対して材料やエネルギー源などの基礎資材を安定供給するという構図となりました。

川崎ユニメート(川崎重工業提供)

自動車や電気機器は部品点数も多く製造業としてのすそ野が広いため、これらの市場拡大は他の多くの製造業種にも拡大効果をもたらします。その結果産業全体が活性化され、雇用拡大から国民所得も順調に向上して民間消費も旺盛となり、大衆消費社会が形成されるという非常にポジティブな時代でした。自動車産業と電機電子産業は、製造現場の自動化・省力化が産業競争力に直結する産業です。初期の油圧式産業用ロボットをいち早く採用したのも自動車製造現場で、当時のユニメーションが能力的には多少不満足なものであっても、使いこなそうという意欲は高く、スポット溶接ラインなどに投入され始めています。またユニメーションに触発されて、多くの電機メーカ、機械メーカでは、産業用ロボットの研究開発に着手し始めました。日本の急速な経済成長は、ロボットの活用努力と実用化開発において米国より強い動機となっていたようです。

1960年代の日本は国をあげて高度経済成長を遂げ、経済大国としての国際的な地位を獲得してきました。しかし、1970年代に入ると、円の変動相場制への移行と第一次オイルショックという大きな外的な経済要因の影響を受けました。さらに、先進諸国との貿易摩擦、環境公害の深刻化など、急速な成長と引き変えに、負の側面が顕在化してきました。

1973年に円は変動相場制に変わりました(注1)。その年のうちに270円/$となり、長く続いた360円/$と比べて25%のドル安円高となりました。高度経済成長期の輸出品の価格競争力は円の安さに守られていたという側面は否めませんので、変動相場制で日本の国際競争力が先進諸国と対等になったという解釈もできます。

同じく1973年に発生した第一次オイルショックは第四次中東戦争に起因する原油価格の急騰が及ぼした経済事変です(注2)。1974年の実質GDPは戦後初めてのマイナス成長となり、戦後の高度経済成長期はオイルショックにより終焉を迎えました。

原油価格の高騰によって、あらゆる物価が影響を受けました。さらに当時は、1972年から田中内閣による日本列島改造論に起因する物価高騰もすでに始まっていたため、狂乱物価と言われるような急激なインフレになりました。製造業においても消費財や生産財の買い控えによる需要減とエネルギーや材料のコスト急増により、一時的に企業収益は悪化しました。

しかし、日本経済は産業構造の転換と技術革新を進め、パワーによる経済成長から効率による経済成長に変えて驚異的な速さで立ち直り、1990年代初頭のバブル崩壊まで成長が続く安定成長期に入ります。製造業は、中心的業種をエネルギー消費型の重化学工業から、生産効率重視型の自動車・電機電子などの機械工業への転換を加速し、再び強さを発揮します。

1979年にはイラン革命による原油価格引き上げにより第二次オイルショックが発生しましたが、第一次オイルショック後の経済政策、民間の減量経営や省エネ努力などにより、経済の落ち込みは比較的軽微となりました。ここで重要なのは、オイルショックによる日本経済の転換は物価高騰をきっかけにはしていますが、高度経済成長の結果が環境問題や国際経済問題に現れて、新しい成長局面に転換すべき時期に達したということです。

また1970年代の日本は、電気機械技術、制御技術面で大きな進歩を遂げており、安定成長期の中心となった自動車・電機電子産業などは、製品技術と生産技術の両面で国際競争力を発揮し始めました。

自動車産業においては、原油高騰に起因する燃費改善に加えて、空気汚染に対応するための排気ガス対策といった、社会の要請に応じた技術改革を迫られることとなりました。その一方、高度経済成長の成果としての平均所得向上により、1970年代の圧倒的大多数の国民は「一億総中流」意識を持っていました。そのため乗用車に対する購買意欲も高く、ファミリーカーからスポーツカーまで幅広いニーズに対応して車種数も大幅に増え、自動車メーカは製品技術力と生産技術力を高めながら多品種大量生産を実現していきます。米国市場においては、燃費の良さと、排ガス規制をクリアした日本製小型車がシェアを拡大し始めました(注3)。この後の米国自動車市場は、日米自動車貿易摩擦に向かうこととなります。

1970年代には電気機械系の工業技術に大きな進化が認められます。特に機械制御技術、電子化技術の進歩が著しく、あらゆる民生機器、産業機械が半導体と情報処理技術によってエレクトロニクス製品化、メカトロニクス製品化し始めました。日本の総合電機メーカ、情報通信機器メーカ、家電メーカは、いち早くこの流れに乗り、高性能で品質が高く安価でコンパクトな日本製品を産み出すこととなります。安定成長の原動力となったのは、企業系経営の合理化努力と技術革新ですので、1970年代を経て1980年が製造現場の自動化を担う産業用ロボットの普及元年となったことは、非常に象徴的なことです。

【注】
(注1)1971年のニクソンショックにより金との兌換ができなくなった米ドルの価値が下がり、1米ドル=360円の固定レートはいったん308円に引き下げられた後、1973年に変動相場に移行しました。以後円安が進み1990年代初頭には110円レベルに達しましたので、20年で円の対米ドル価値は3倍になりました。
(注2)第四次中東戦争は、イスラエルとアラブ諸国による国土争奪戦争の一つです。第一次オイルショックは、石油産出国であるアラブ諸国が親イスラエル国に対する原油の禁輸措置と価格の70%引き上げにより発生しました。日本は中立の立場でしたが、親米国として巻き込まれました。これにより、日本国内では1973年の卸売り物価(現在の企業物価)で22.6%、消費者物価で16.1%の上昇率となりました。
(注3)米国では1963年に大気浄化法が制定されていましたが、さらに厳しい排出規制を課した、提案者の名前を冠してマスキー法(Muskie Act)と呼ばれる大気浄化法改正法が1970年に成立しました。日本車としては1972年にホンダのCVCC、1973年にはマツダのロータリーエンジンの改良型がいち早くこれをクリアしています。日本では1973年にマスキー法を継承した排出ガス規制が成立しています。
(「産業用ロボット全史」p.16-20)

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<書籍紹介>
日本は産業用ロボット生産台数で、世界シェアの半分を占めています。一大産業となった産業用ロボットはどんな技術に支えられ、どのような変化を遂げるのか。長年、産業用ロボットの現場にいた著者がロボットの要素技術から自動化までを解説します。
書名:産業用ロボット全史
著者名:小平紀生
判型:A5判
総頁数:256頁
税込み価格:3,300円

<編著者>
小平紀生 (こだいら のりお)
1975年東京工業大学工学部機械物理工学科卒業、三菱電機株式会社に入社。1978年に産業用ロボットの開発に着手して以来、同社の研究所、稲沢製作所、名古屋製作所で産業用ロボットビジネスに従事。2007年に本社主管技師長。2013年に主席技監。2022年に70 歳で退職。
日本ロボット工業会では、長年システムエンジニアリング部会長、ロボット技術検討部会長を歴任後、現在は日本ロボット工業会から独立した日本ロボットシステムインテグレータ協会参与。日本ロボット学会では2013年〜2014年に第16代会長に就任し、現在は名誉会長。

<目次(一部抜粋)>
序章  産業用ロボットの市場と生産財としての特徴
第1章 産業用ロボットの黎明期
第2章 生産機械として完成度を高める産業用ロボット
第3章 生産システムの構成要素としての価値向上
第4章 ロボット産業を取り巻く日本の製造業の姿
終章  ロボット産業の今後の発展のために

特集・連載情報

産業用ロボットの技術と市場の航跡
産業用ロボットの技術と市場の航跡
2023年11月29日から12月2日までの4日間、東京ビッグサイトで「2023国際ロボット展」が行われます。産業用ロボット、サービスロボット、ロボット関連ソフトウェア、要素部品などが出展され、国内外から多数の来場者が集まります。イベントに関連して、日刊工業新聞社が発行した「産業用ロボット全史」より一部を抜粋し、掲載します。

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