東北で新しい都市づくり「会津若松編#2」ー スマートシティーは“データ都市”
インテル、オラクル、セールスフォース、NEC、富士通・・IT大手を引き寄せる
*彼らはなぜ会津に集まってきたのか
「会津大学に出向を命じる」。2年前の夏、山崎治郎氏は都内の勤務先で辞令を手渡された。生まれも育ちも東京で、会津若松はもちろん福島県に縁もゆかりもなかった。しかも新天地での肩書は特任上級准教授、与えられた任務はスマートグリッドの情報基盤の開発だった。
ネットワンシステムズで情報ネットワークのエンジニアをしていた。エネルギーは素人。同僚らには“青天のへきれき”と映ったが、本人は冷静だった。「東日本大震災後、電力が大事なアイテムとわかった」。その頃から独学で電力システムの勉強を始めた。
ひそかに文献に目を通していたある日、会津大から勤務先に研究者を出してほしいとの打診があったことを知った。立候補はしなかったが、「白羽の矢が立った。運命の巡り合わせを感じた」。
12年8月、山崎氏は文部科学省の復興支援研究プロジェクトの招聘(しょうへい)研究者という立場で会津大に着任した。産業技術総合研究所や県内の他大学などとも連携した研究生活が始まった。
いずれは家庭やビル、工場から電力使用にかかわる膨大な情報が集まるようになる。その“電力ビッグデータ”を、特定メーカーや特定技術に依存せずに管理し、どの地方都市でも使える共通基盤を開発するのが目標だ。メーカー依存では地域外のデータセンターに情報を集約するため、地域でデータを活用できなくなる。これを解消する。
ただし「すべての機能を10としたら0―7までを開発する。残りの8―10は創造力に任せる」。ほぼ完成した基盤であれば地元企業も十分に活用できる。企業が独自のアイデアを反映する余地を残すためだ。「地域の人材育成につなげて雇用創出に貢献したい」との思いも込めて、あえて完全を目指さない。
会津若松に縁もゆかりもなかった外資系企業のサラリーマンもスマートシティーに携わっている。アクセンチュアの中村彰二朗氏だ。ビルが立ち並ぶ東京・赤坂のオフィスを離れ、自ら手を挙げて磐梯山が見える事務所にやって来た。
同社、市、会津大、地元企業が産学官連携して産業育成を目指している「福島イノベーションセンター」のセンター長を務めている。近くの温泉旅館での暮らしはもう3年になった。会津の生活にどっぷりと漬かっていると「地方をより良くすることが日本に必要」と実感するようになった。
この間、市と検討を重ねてICTをフル活用する都市像をまとめた。電力データにとどまらず、あらゆるデータを集めて分析し、市民サービスに生かす。「これから公務員の数が減ってくる。限られたリソースを効率的に使うため、すべての政策をデータに基づいて決定する。これがスマートシティーだ」。
中村氏には夢もある。水面に着水できる飛行艇を旅客機にして、福島県の猪苗代湖と琵琶湖の間を運航させようというのだ。瀬戸内海、小笠原諸島と路線を結び、地方を訪れる外国人旅行者を増やす。アイデアの域を出ていないが、地方活性化への思いは強く、ひそかに戦略を練る。
スマートシティー構想により、地元企業にも好影響が出ている。総務省の実証事業で市内100世帯に家庭用エネルギー管理システム(HEMS)が取り付けられており、利用者はパソコンやスマートフォンで自宅の電力使用量を確認できる。この確認画面には会津ラボの表示技術が採用されている。ウェブサイトをパソコン、スマホそれぞれの画面のサイズに自動で切り替える。サイト運用者はスマホに合わせて画面を作る必要がない。
久田雅之社長は93年に開校した会津大の1期生。卒業後、実家に近い北陸地方の大学で教鞭(きょうべん)をとっていたが、07年に会津で起業した。「地域でベンチャーが成功しないと、会津に人が残らない」。会津大学初代学長の國井利泰氏の言葉が忘れられなかったからだ。
会津大はIT専門校だが、地元に就職先がなく、卒業生のほとんどが東京に出ていった。久田社長は恩師の言葉に従って会津に戻る決意をしたが、「親の大反対にあった」。それでも意思を貫いて起業した翌年、リーマン・ショックに飲み込まれてあっという間に運転資金が底を尽きた。
仕事量の多い東京に比べて会津は仕事が少ない。ハンディを痛感したが、スマホとクラウドの時代が到来すると「会津であることが不利ではなくなった」。スマホ用の観光アプリケーション(応用ソフト)がヒットし、息を吹き返した。
「地方都市の悩みは地元で生活していないとわからない。会津で成功した技術は、他の地方都市でも役立つはずだ」。会津から全国に発信できるビジネスモデルを描く。
グリーン発電会津のバイオマス発電所も産業振興に一役買っている。会津地方は面積の70%を森林が占めるが、林業は盛んではなかった。雪の重みで幹が曲がった木が多く、木材になると取引価格が安いためだ。こうした売り物にならなかった未利用材を燃料にして1万世帯分の電力をつくっている。60人の雇用創出につながった。
富士通セミコンダクター会津若松工場は1月に植物工場を稼働させた。半導体市況の低迷が響き、生産ライン縮小を余儀なくされていた。
植物工場は打開策の一つだったが、佐藤彰彦総務部長は「4年前に一度、本社に『やりたい』とかけあったが、許可が下りなかった」と打ち明ける。だが富士通がクラウドを活用した農業支援サービスをスタートし、親和性が認められた。25人を新規採用し、稼働にこぎ着けた。1日当たり3500個のレタスを栽培している。
市にとっても農業振興はスマートシティーの柱の一つ。ビッグデータで活性化できる分野と見ており、ICTで生産管理できる植物工場の成功に期待を寄せる。
市のスマートシティー構想は、さまざまな経験をした人が携わっている。参加した経緯は違っても「地域活性化に貢献したい」との思いは一緒だ。
<次のページは、“データ都市”が充実した住民サービスへ>
日刊工業新聞2014年9月30日
「会津大学に出向を命じる」。2年前の夏、山崎治郎氏は都内の勤務先で辞令を手渡された。生まれも育ちも東京で、会津若松はもちろん福島県に縁もゆかりもなかった。しかも新天地での肩書は特任上級准教授、与えられた任務はスマートグリッドの情報基盤の開発だった。
ネットワンシステムズで情報ネットワークのエンジニアをしていた。エネルギーは素人。同僚らには“青天のへきれき”と映ったが、本人は冷静だった。「東日本大震災後、電力が大事なアイテムとわかった」。その頃から独学で電力システムの勉強を始めた。
ひそかに文献に目を通していたある日、会津大から勤務先に研究者を出してほしいとの打診があったことを知った。立候補はしなかったが、「白羽の矢が立った。運命の巡り合わせを感じた」。
12年8月、山崎氏は文部科学省の復興支援研究プロジェクトの招聘(しょうへい)研究者という立場で会津大に着任した。産業技術総合研究所や県内の他大学などとも連携した研究生活が始まった。
いずれは家庭やビル、工場から電力使用にかかわる膨大な情報が集まるようになる。その“電力ビッグデータ”を、特定メーカーや特定技術に依存せずに管理し、どの地方都市でも使える共通基盤を開発するのが目標だ。メーカー依存では地域外のデータセンターに情報を集約するため、地域でデータを活用できなくなる。これを解消する。
ただし「すべての機能を10としたら0―7までを開発する。残りの8―10は創造力に任せる」。ほぼ完成した基盤であれば地元企業も十分に活用できる。企業が独自のアイデアを反映する余地を残すためだ。「地域の人材育成につなげて雇用創出に貢献したい」との思いも込めて、あえて完全を目指さない。
データに基づき政策、ビジネスモデル全国に
会津若松に縁もゆかりもなかった外資系企業のサラリーマンもスマートシティーに携わっている。アクセンチュアの中村彰二朗氏だ。ビルが立ち並ぶ東京・赤坂のオフィスを離れ、自ら手を挙げて磐梯山が見える事務所にやって来た。
同社、市、会津大、地元企業が産学官連携して産業育成を目指している「福島イノベーションセンター」のセンター長を務めている。近くの温泉旅館での暮らしはもう3年になった。会津の生活にどっぷりと漬かっていると「地方をより良くすることが日本に必要」と実感するようになった。
この間、市と検討を重ねてICTをフル活用する都市像をまとめた。電力データにとどまらず、あらゆるデータを集めて分析し、市民サービスに生かす。「これから公務員の数が減ってくる。限られたリソースを効率的に使うため、すべての政策をデータに基づいて決定する。これがスマートシティーだ」。
中村氏には夢もある。水面に着水できる飛行艇を旅客機にして、福島県の猪苗代湖と琵琶湖の間を運航させようというのだ。瀬戸内海、小笠原諸島と路線を結び、地方を訪れる外国人旅行者を増やす。アイデアの域を出ていないが、地方活性化への思いは強く、ひそかに戦略を練る。
スマートシティー構想により、地元企業にも好影響が出ている。総務省の実証事業で市内100世帯に家庭用エネルギー管理システム(HEMS)が取り付けられており、利用者はパソコンやスマートフォンで自宅の電力使用量を確認できる。この確認画面には会津ラボの表示技術が採用されている。ウェブサイトをパソコン、スマホそれぞれの画面のサイズに自動で切り替える。サイト運用者はスマホに合わせて画面を作る必要がない。
「地方の悩みは地元で生活しないとわからない」
久田雅之社長は93年に開校した会津大の1期生。卒業後、実家に近い北陸地方の大学で教鞭(きょうべん)をとっていたが、07年に会津で起業した。「地域でベンチャーが成功しないと、会津に人が残らない」。会津大学初代学長の國井利泰氏の言葉が忘れられなかったからだ。
会津大はIT専門校だが、地元に就職先がなく、卒業生のほとんどが東京に出ていった。久田社長は恩師の言葉に従って会津に戻る決意をしたが、「親の大反対にあった」。それでも意思を貫いて起業した翌年、リーマン・ショックに飲み込まれてあっという間に運転資金が底を尽きた。
仕事量の多い東京に比べて会津は仕事が少ない。ハンディを痛感したが、スマホとクラウドの時代が到来すると「会津であることが不利ではなくなった」。スマホ用の観光アプリケーション(応用ソフト)がヒットし、息を吹き返した。
「地方都市の悩みは地元で生活していないとわからない。会津で成功した技術は、他の地方都市でも役立つはずだ」。会津から全国に発信できるビジネスモデルを描く。
バイオマス発電・植物工場、雇用創出に一役
グリーン発電会津のバイオマス発電所も産業振興に一役買っている。会津地方は面積の70%を森林が占めるが、林業は盛んではなかった。雪の重みで幹が曲がった木が多く、木材になると取引価格が安いためだ。こうした売り物にならなかった未利用材を燃料にして1万世帯分の電力をつくっている。60人の雇用創出につながった。
富士通セミコンダクター会津若松工場は1月に植物工場を稼働させた。半導体市況の低迷が響き、生産ライン縮小を余儀なくされていた。
植物工場は打開策の一つだったが、佐藤彰彦総務部長は「4年前に一度、本社に『やりたい』とかけあったが、許可が下りなかった」と打ち明ける。だが富士通がクラウドを活用した農業支援サービスをスタートし、親和性が認められた。25人を新規採用し、稼働にこぎ着けた。1日当たり3500個のレタスを栽培している。
市にとっても農業振興はスマートシティーの柱の一つ。ビッグデータで活性化できる分野と見ており、ICTで生産管理できる植物工場の成功に期待を寄せる。
市のスマートシティー構想は、さまざまな経験をした人が携わっている。参加した経緯は違っても「地域活性化に貢献したい」との思いは一緒だ。
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