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【ペロブスカイト太陽電池誕生】episode10 世界初?…参考文献がない

色素増感太陽電池の色素の代わりにペロブスカイトを用いて電池として機能させられることを確認した小島陽広。2006年4月に学会発表の初舞台に立つ。(敬称略)

小島陽広は極度の緊張に襲われていた。2006年4月1日のことだ。東京都八王子市の首都大学東京(現・東京都立大学)南大沢キャンパスで電気化学会の大会が開かれていた。電気化学会は電気化学に関連する仕事に従事する企業人や研究者ら約3800人(22年度末現在)が加盟する学会で毎年春・秋の2回、大会を開いている。小島にとってその第73回大会は多くの研究者らに見つめられる中で、自身の研究成果を発表する初の舞台だった。ただ、緊張の理由は初舞台だからというだけではなかった。

『もしかして世界でまだ誰もやってないのか』-。学会では、色素増感太陽電池において色素の代わりにペロブスカイトを用いて組成して確認した電池特性を報告しようとしていた。小島はその発表資料をまとめるにあたり、過去の文献を調べた。そもそも、ペロブスカイトを用いた太陽電池の事例はすでにどこかで報告されているだろうと考えていた。しかし、文献をいくら探してもそうした事例は見当たらなかった。それが緊張を増幅させていた。

「自分がこれを発表したら、どんな反応がかえってくるのだろうか」

『ハロゲン化鉛系化合物を可視光増感剤に用いた新規光電気化学セル(1)』-。そう題した発表はわずか10分足らずで終えたと記憶しているが、自分がどのように話したのか、緊張でほとんど覚えていない。それに新しい試みではあったものの発電効率はわずか1%台と低く、安定性も欠いていたためか、会場から特に大きな反応はなかった。それよりもまず、小島は無事に発表を終えたことに安堵していた。

「面白い研究しているね」。

そう会場で声をかけられたのは、発表を終えた後だった。

色素に限界を感じていた〝ファミリー〟の一員

「面白くないなぁ」。スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)に博士研究員として在籍していた伊藤省吾は首都大学東京南大沢キャンパスで苛立っていた。いろいろな研究者が色素増感太陽電池に関する研究成果を発表しているが、どの発表にも食指は動かない。その中で、登壇した初々しい学生の発表が気になった。それが、色素の代わりにペロブスカイトを用いて電池特性を確認したという小島の発表だった。(※1)

伊藤も当時、色素増感太陽電池を研究していた。ただ、変換効率は上がらず、耐久性にも課題があった。色素に限界を感じて、それに変わる材料として主に硫化物を探索していた。だから、自分の知らぬ材料である「ペロブスカイト」を用いたという発表を面白く感じて、会場で声をかけたのだった。

伊藤は京都大学の学部生だった90年代にアフリカ大飢饉のニュースを目の当たりにして、太陽電池の研究を志した。多くの若者が海外青年協力隊としてアフリカに向かい、井戸を掘るといった作業をしたが、伊藤はもっとしっかりした生活インフラを作りたいと考えた。友人に借りた本を読んで、水力や風力、波力などの新しいエネルギーを調べた結果、最も可能性を感じたのが太陽光だったという。

ただ、石油化学科に入学していたため、太陽電池の研究室という選択肢がなかった。そこで「人工光合成」を研究する清水剛夫の下を選んだ。人工光合成も太陽エネルギーを扱う技術だからだ。その後、東京大学大学院に進学し、渡辺正教授の研究室で有機半導体の薄膜を発電層として用いる「有機薄膜太陽電池」を研究する。さらに、東大を中退する形で籍を移した大阪大学の柳田祥三教授の下で色素増感太陽電池に取り組んだ。それから、地球環境産業技術研究機構(RITE)の研究員を経て、03 年2月からはEPFLのマイケル・グレッツェル教授の研究室に在籍していた。

EPFLのグレッツェル研はペロブスカイト太陽電池をめぐる物語において、後に重要な舞台となる。そのため、伊藤がグレッツェル研に職を得た背景やそこで残した成果は後に語る。

東大の渡辺研に在籍した経緯やそこで有機薄膜太陽電池を研究していた期間に、伊藤はこの物語の主要登場人物である二人と接点を持つ。一人は宮坂力、もう一人が手島健次郎だ。

宮坂が東大の本多研でクロロフィルを使った「色素増感セル」を研究し、執筆した論文が79年に英科学誌『ネイチャー』に掲載されたことは前に書いた(#2)。渡辺はその当時、本多研の助手を務めており、この論文の共著者だった。伊藤にとって京大生のときにその論文を読んだことが、渡辺研に進む一因になったという。

一方、手島との縁はまったくの偶然だ。伊藤は有機薄膜太陽電池の研究で、真空蒸着(※2)の装置を使おうとしていたが、それが東大にはなかった。そこで有機薄膜太陽電池の総説を執筆していた千葉大学教授である広橋亮のもとを直接訪ね、そこで実験する了解を得た。伊藤は「一升瓶を担いで訪ねて、これで実験をさせてほしいと頼みました」と笑う。

そうして月に2-3回通った広橋研究室に所属していた助教授が小林範久で、博士課程の学生で伊藤曰く「非常に理路整然としていて理知的な研究者」が手島健次郎だった。

※2/真空蒸着:真空中で金属や金属酸化物などの成膜材料を加熱し、溶融・蒸発・昇華させて基材や基板の表面に蒸発、昇華した粒子(原子・分子)を付着・堆積させて薄膜を形成する技術

手島や小林も伊藤の姿を覚えている。小林は「よく出入りして、よくお酒を飲んでいた」と懐かしむ。

そうした経緯があり、伊藤にとって宮坂や手島は「ファミリーみたいなもの」だった。そのため、小島に声をかけた背景には、宮坂や手島の教え子という意識が働いていたようだ。

さて、電気化学会での発表を終え、安堵した小島は伊藤に声をかけられてとても嬉しかったという。

「不安を抱きながら行った発表に『面白い』と言ってくれる方がいて、研究者としてとても励みになりました」

そうして小島はその励ましも糧に次の道に進もうと考えていた。修士課程を終えたらペロブスカイトを使った太陽電池の研究から離れ、企業の研究者として生きる道だ。小島はそのころ、就職活動の真っ只中だった。採用面接ではペロブスカイトの話はアピールしなかった。よくわからない材料だし、理解してもらうのが難しいと思ったからだ。ペロブスカイトを使った太陽電池の研究は学会発表をやりきったことで一定の満足感を得ており、博士課程に進み研究を続ける考えはなかった。そうしてペロブスカイトを使った太陽電池の研究の火は静かに消えようとしていた。

証言者:小島陽広、伊藤省吾、手島健次郎、宮坂力、小林範久/※1:小島と伊藤のやりとりは主に小島の証言に基づく。伊藤も小島の発表について会話したことを記憶しているものの、それが電気化学会・第73回大会の場だったどうかは不明と話している。
主な参考・引用文献:『電気化学会・第73回大会講演要旨集』
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葭本隆太
葭本隆太 Yoshimoto Ryuta デジタルメディア局DX編集部 ニュースイッチ編集長
電気化学会・第73回大会に登壇した際の発表タイトルの末尾に(1)を付けたのは、第一報という意味があったそうです。06年のアメリカ電気化学会では(2)をつけた第二報を発表するなど、小島さんはその後、学会での発表を積み重ね重られます。

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