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【ペロブスカイト太陽電池誕生】episode2 人工網膜と色素増感太陽電池

富士フイルム(当時は富士写真フイルム)を辞め、桐蔭横浜大学大学院の教授に着任した宮坂力は研究室で取り組むテーマを2つ設定する。その1つ「人工網膜」は、宮坂の研究者人生において「最も熱中したテーマ」だった。(敬称略)

桐蔭横浜大学に自分の研究室を持つことが決まったとき、宮坂力はそこで取り組むテーマを二つ考えた。一つは疾病で失った視覚を人工的に再生させる装置「人工網膜」。もう一つは色素が光を吸収して電子を放出し、それを酸化チタンが受け取って電気を作る次世代太陽電池「色素増感太陽電池」。どちらも富士フイルムで取り組んだ研究テーマだ。人工網膜の素子はイメージセンサで取り込んだ画像がディスプレイで見られるし、太陽電池はその出力でモノが動かせる。応答が目に見えてわかりやすいため、学生が研究を楽しめると思った。

色素増感太陽電池の研究こそ、ペロブスカイト太陽電池の誕生の礎になるのだが、宮坂の思い入れは人工網膜の方が強かった。富士フイルム在籍時にその素子作りに熱中し、自分一人で独自に作り上げたからだ。

バクテリアでデバイスを作る

「『バクテリオロドプシン(BR)』という面白いタンパク質があるんだ。どうだ。研究する気はあるか」。

富士フイルムの先輩研究員である小山行一の一言から人工網膜の研究は始まった。1990年ころだ。当時、富士フイルムは自社が持つ独自の分子を使った新規事業を立ち上げようと生物学に強い研究者を集めた。そこに招集されたのが小山であり、宮坂だった。

「BRはイスラエルの死海などの菌から取り出せる、光を感知するタンパク質(感光性タンパク質)。死海のように塩分濃度の高い環境で生きる菌を「好塩菌」と呼ぶ。好塩菌は光呼吸をしており、光に対して多様な機能を持つ」-。小山の解説を聞いた宮坂は、それを使った光デバイスを作ってみようと考えた。

小山は北海道大学大学院薬学研究科の出身で、BRの知識とともにそのタンパク質を決まった方向に配向する技術を持っていた。一方、宮坂は東京大学大学院の博士課程で本多健一研究室(※1)に所属していたころ、BRと同じ天然物である葉緑素(クロロフィル)の分子を薄膜にして電極に固定したデバイスを作り、光を当てて電流を取り出す研究をしていた。

ちなみにこのデバイスは色素増感太陽電池と同じ原理で、関連の成果をまとめた論文が78年に英科学誌『ネイチャー』に掲載されている。本多研の兄弟子で光触媒の発明によりノーベル賞候補とされる藤嶋昭も「素晴らしい研究成果」と賛辞を惜しまない。そうした評価を得ていたことが、ペロブスカイト太陽電池の誕生を密かに支えることになるのだが、その話は後に触れる。

※1/本多健一:1972年に発見した「本多-藤嶋効果」で知られる。当時研究室の学生だった藤嶋昭と酸化チタンに光を照射すると、そのエネルギーによって水が水素と酸素に分解されることを明らかにした。後に産業化に成功する、抗菌や汚れ防止加工などに利用される「光触媒技術」の基礎になった。

小山と宮坂の話し合いは二人のノウハウを生かしてBRを同じ方向に配向させた薄膜を作り、光を照射するとどのような機能が表れるかを調べる方向に落ち着く。そこで、実際にクロロフィルを電極に固定したときと同じ方法(ラングミュア・ブロジェット〈LB〉法)でBRの薄膜を電極に固定したセルを作り、光を照射した。

「おっ、応答がある」。

電流計の針が動いた時の喜びは大きかった。が、デバイスへの応用を考えると「使えない」だった。応答といっても光が入射した瞬間に微弱な電流が流れるだけだ。一般的な光センサは光を当てている間はずっと電流が流れるが、BRで作ったデバイスの応答は一瞬ですぐにゼロに戻ってしまう。

しかし、その印象はやがて覆る。応答をつぶさに観察すると、光を切った瞬間に電流が逆方向に一瞬流れる。つまり、光のオンオフで応答が切り替わる。この特性が気になり、関連しそうなバイオ分野の文献を調べたところ、動物の目の応答によく似ていることに気付いた。動物の視覚神経は、入射する光量が変化した瞬間だけわずかに応答する。これにより、物体の動きの検出やわずかな明るさの違いを強調する機能(エッジ)を可能にしている。それと同じ応答を出すデバイスが、バクテリアのタンパク質を使ってできたのだ。

「これは面白い」。

もちろん、企業で研究を続ける以上は実用化の可能性が問われる。そこで、実用化の出口を視覚を失ってしまった人に人工網膜を付与する外科的治療の手段に定め、イメージセンサ(人工網膜素子)を手作業で作り上げた。東京・秋葉原で抵抗やオペアンプといった部品を買い集め、256画素のLED表示パネルに電気応答を送るための電気配線を自らハンダ付けした。2-3ヶ月かけて作り上げたその装置は見事に動画とエッジ抽出の機能を再現した。

「きみ、よくこんなことをやるな」

上司はその姿に呆気にとられていたが、宮坂はデバイスをたった一人でゼロから実現したことに満足していた。

「研究者人生で最も熱中したテーマでした」。

しかし、事業化の道は開かなかった。大企業が狙うには市場が大きくなかったからだ。

「企業である以上は稼げなければしようがない」。

宮坂はそう自分を納得させた。とはいえ、その時に生まれた悔しさは大学に移りたいという思いを強めていた。

それから11年後の桐蔭横浜大学。宮坂研がある技術開発センター4階には小山が研究室を構えていた。教授のポストが一つ空き、宮坂が小山を推薦したのだ。当時、桐蔭学園の傘下にあった、近隣にある横浜総合病院の外科医と協力できる体制も整えた。

その外科医に相談したところ、補綴治療に利用できる可能性があるとして、犬を使って実験する方針が立った。ただ、宮坂は実験にどうしても踏み切れなかった。犬がかわいそうだと思った。

「医療への応用は、ほかのグループがきっと試してくれるだろう」

そう期待して人工網膜の研究は05年ころに幕を下ろした。後ろ髪を引かれながらの決断だったが、その頃には色素増感太陽電池の研究で続々と成果を上げていた。また、人工網膜はデバイスの作成が困難で、学生にとっては色素増感太陽電池の方が取り組みやすかった。色素増感太陽電池の研究に集中しない理由はなかった。

薄くて曲がる太陽電池

色素増感太陽電池の研究室として桐蔭横浜大の「宮坂研」を一躍有名にした成果がある。02年12月に論文を発表した『低温成膜法による色素増感フィルム電極』(※2)だ。色素増感太陽電池の基盤は一般にガラスが用いられるが、それをフィルムに変えて作製することに成功し「薄くて曲がる」特性をもたらした。ペロブスカイト太陽電池もフィルム基板を用いて作製できるため薄くて曲がる特性が注目されるが、この成果はその原点だった。

フィルムを用いた背景には遊び心があった。富士フイルムで人工網膜の研究の後に取り組んだ時だ。宮坂は当時、色素増感太陽電池の実用性に懐疑的だった。太陽電池として使う上で、色素は安定性や光を吸収する能力に課題を抱えていたからだ。とはいえ、仕事だから取り組まなければならない。そこで変わったことをしようと頭を捻った。

「せっかく富士〝フイルム〟で研究しているのだから、基板を曲げられる〝フィルム〟にしたらどうだろう。薄くてペラペラのフィルムが光発電するデバイスになったら面白いのではないか」

富士フイルムでは性能が上がらずに終わったが、桐蔭横浜大で研究を続けて実現した成果が02年の論文だった。

ところで、宮坂も富士フイルム時代に感じていた色素増感太陽電池の課題はいかに克服されたか。立役者はスイスにいる。ペロブスカイト太陽電池誕生の物語において後にも重要な役割を果たす、スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)教授のマイケル・グレッツェルだ。

グレッツェルは、酸化チタンのナノ粒子がブドウの房状につながった膜「メソポーラス膜」を作り、光吸収できる面積を500倍以上にした。その表面に可視光を吸収する「ルテニウム錯体色素」を付けることで、1%未満だったエネルギー変換効率を7.1%に高めた。その論文が91年に『ネイチャー』に掲載されると「グレッツェルセル」として色素増感太陽電池の代名詞になり、研究開発が活発になった。

さて、宮坂研がフィルム型色素増感太陽電池で名を上げた02年、桐蔭横浜大学が所在する横浜市では政令指定都市として史上最年少の市長が誕生した。中田宏だ。中田は財政難に苦しむ横浜市を建て直す戦略「横浜リバイバルプラン」を策定し、その重点施策にベンチャー企業の創業支援を盛り込む。この施策が、ペロブスカイト太陽電池を生むきっかけを作り出す。

※2/『低温成膜法による色素増感フィルム電極』:色素増感太陽電池はガラス基板に酸化チタンのペーストを塗って450℃程度の高温で焼成し、そこに色素を付着させて作製する。フィルムは高温で溶けてしまうため、基板に使う場合は酸化チタンの膜を100℃程度で生成する必要があった。宮坂はあるメーカーが持っていた酸化チタンの分子が分散した液体を使い、その脱水縮合反応(2つの分子から水が離脱して、残った2つの分子が結合する反応)によって低温での生成に成功した。
証言者:宮坂力、藤嶋昭、中田宏
主な参考・引用文献:『大発見の舞台裏で―ペロブスカイト太陽電池誕生物語』(宮坂力)/『次世代の太陽電池・太陽光発電-その発電効率向上、用途と市場の可能性』/『ペロブスカイト太陽電池の発見の背景と学祭研究の推進(応用物理・第88巻第7号)』
ニュースイッチオリジナル
葭本隆太
葭本隆太 Yoshimoto Ryuta デジタルメディア局DX編集部 ニュースイッチ編集長
宮坂先生が東大博士課程時代の1972年に論文が『ネイチャー』に掲載された成果は、クロロフィルに脂質の分子を混ぜることで、クロロフィルから発生する電子を安定させ、電流の発生効率を向上させたものです。光触媒の発明でノーベル賞候補の藤嶋先生が非常に高く評価していると同時に、学生時代にこの論文を読んで学んだという研究者は多く、そうした後輩たちが後にペロブスカイト太陽電池誕生の物語に関わってきます。

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