【ペロブスカイト太陽電池誕生】episode3 創業するならダンゼン横浜!
横浜市長に就任した中田宏は、財政を建て直す産業振興策としてベンチャー創業支援を推進する。中田と交流の深かった桐蔭横浜大学学長の鵜川昇はそうした動きを受け、宮坂力ら教員に大学発ベンチャーを立ち上げるよう働きかける。(敬称略)
『創業するならダンゼン横浜!』-。2002年初夏の横浜市庁舎。4月に37歳の若さで横浜市長に就任した中田宏は自ら考えたキャッチフレーズを共有し、ベンチャー企業が創業しやすい環境を整える重要性について市役所の職員に説いていた。『ダンゼン』と言えるほど、横浜で創業するメリットが明確に浮かんでいたわけではない。しかし、まずは言葉が大切だ。それを先に掲げてしまい、そう宣伝できる横浜市にしていこうと職員に発破をかけていた。
横浜市の将来を考えたとき、課せられた一番の命題は財政の建て直しだ。後に負債(料金収入などで償還する借入金と市税などで償還する借入金の合計)が約6兆円にも上ることが明らかになり、中田は「それほどあったのか」と驚くのだが、財政が厳しいことは就任前から分かっていた。では、どう改善するか。当然、収入を増やす方法が問われる。税外収入の獲得も図るが、やはり肝は税収の源になる産業を養い育てる「税源の涵養(かんよう)」だ。産業振興は最大の注力ポイントだった。
政治の役割は、民間が取り組みやすい環境を整備すること。それは松下政経塾で学び、それまで国会議員を3期約9年務めて培った自分の哲学だ。横浜市の財政再建は、その哲学の実効力が問われる舞台だった。
中田は産業振興策として企業誘致の促進や既存の中小企業向けの融資制度拡充など、あの手この手で取り組んだ。前者で言えば、特定の地域に立地する一定の条件を満たす企業への助成などを盛り込んだ「企業立地促進条例」を制定し、日産自動車の本社を誘致したことは代表例だろう。ただ、そうしたいくつかの施策の中でもベンチャー創業支援に対する思い入れは強かった。
「横浜市は『進取の精神(※1)』に富む。だからこそ、市民は37歳で新人の私を市長に選んだし、横浜市は時代を先取るDNAがあると感じていました。その地で新しいビジネスが始められる環境を整えたいと思っていました」
※1/進取の精神:自ら進んで物事に取り組むという理念や目標
1990年代前半から2000年頃は第三次ベンチャーブームと呼ばれる。バブル崩壊によって経済が停滞する中で、ベンチャー支援策が充実し、楽天やDeNAなど多くのベンチャーが生まれた。情報技術分野の技術革新も起業を後押しし、ITベンチャーの躍進が目立った。一方、01年には経済産業省が今後3年間で大学発ベンチャーを1000社創出しようという「大学発ベンチャー1000社計画」を発表するなど、急速に大学発ベンチャーの起業が促進された時期でもあった。
こうした社会環境は、中田のベンチャー支援施策の設計に影響を与えたか。
「『IT』や『大学発』など特定の分野の起業促進は意識していませんでした。何よりもまず財政を建て直すための税源の涵養を図らなければならないという危機感で一杯でした」
その中で、中田はベンチャー創業支援を推進する「横浜プロモーション推進事業本部」を新たに立ち上げ、03年度から3年間で350社の創業・誘致を実現する目標を掲げた(※2)。創業・起業の相談を受け付ける窓口や融資体制なども整えた。そして、〝後付け〟ながら「資金調達がしやすい」「販路開拓がすすむ」「起業家としての資質が磨ける」など横浜で創業するメリットを9つ並べ、自ら前面に立ってそれをアピールし始めた。
学長の意向
「大学発ベンチャーを作りませんか」-。桐蔭横浜大学の宮坂力の耳に学長である鵜川昇の意向が伝わってきたのは、横浜市が『創業するならダンゼン横浜!』をキャッチフレーズにベンチャー創業支援を始めたころだ。どうやらそれは全教員にかけている号令のようだった。
鵜川は、大学は研究成果を積極的に収入化すべきと考えていた。00年に発刊した著書『大学の崩壊―対談・この危機を救う道はあるか!』でこう語っている。
<企業はすぐれた研究成果をのどから手がでるほど欲しているのである。こうした研究を進め、そこから収入を得る道を拓いていくことも、今後の日本の大学に求められるのではないだろうか>
<日本では、大学の研究を〝お金に換える〟という発想をもたなかったため、国立大学での研究成果なども多くはたれ流しになっているのが現状だ。こうした研究を収入化していけば、独立行政法人化を実施しても、自立できる大学は少なくないはずだ>
そうした意向を持つ中で、横浜市が強力なベンチャー創業支援を始めた。それを生かそうと考えるのは必然だっただろう。また、中田とは教育論を議論し合うなど交流が深かった。中田が政策の前面に立っていたことは、鵜川が大学教員にベンチャーの立ち上げを促す後押しになったようだ。
とはいえ、宮坂は当初、鵜川の働きかけに応答しなかった。
「20年も企業に勤めて辞めたのにまた企業人として働くのか。それはちょっと違うかな」
そう思ったからだ。しかし、ある日、研究室を訪ねた事業者の言葉を聞いて考えを改める。
「先生の研究で作られた材料は性能がいいですよね。我々に作らせてもらえませんか」
「それなら自分たちで販売できるのではないだろうか。企業といっても今度は自分がトップになるから自由度がある。他の先生と比べたら企業に勤めた経験も生かせるはずだ。面白いかもしれない」
そうして宮坂は起業を決めた。光電気化学セル(Photoelectrochemical Cell)から取り、光電気化学について専門に事業展開することを社名に示した「ペクセル・テクノロジーズ」を04年3月に立ち上げた。そして、フィルム型色素増感太陽電池の研究(#2)によって生み出した酸化チタンペーストなどを企業や研究機関に販売すると3月末ですぐに黒字化を達成した。
そこで、さらに若い人材を入れて組織を活性化しようと考えた。思い切って日本化学会の学会誌『化学と工業』に研究者の公募を掲載すると数十人の応募があった。その中から「光」の研究に明るい二人を選んだ。筑波大学技官の池上和志と、東京工芸大学講師の手島健次郎だ。
宮坂は彼らと出会うきっかけとなったペクセルの創業を「人生を大きく変えるトリガーになった」と後に振り返ることになる。
※2/横浜市のベンチャー創業支援:3年間で350社の創業・誘致を実現する目標について横浜市は04年度末までに目標を前倒しで達成した。
証言者:中田宏・宮坂力・池上和志
主な参考・引用文献:『横浜改革中田市長1000日の戦い』(<横浜改革>特別取材班+相川俊英)『横浜市改革エンジンフル稼働』(南学+上山信一)『大学の崩壊―対談・この危機を救う道はあるか!』(鵜川昇)『大発見の舞台裏で-ペロブスカイト太陽電池誕生物語』(宮坂力)『ベンチャー日本、挑戦の40年』(大和総研)