ゴーンを日本に連れてきた男、塙氏死去「エピソード・アライアンス」
日産社長がルノーと提携に踏み切った“決断”とは
「エピソード・ゴーン」
98年11月、ルノーの副社長だったカルロス・ゴーンが東京に来て、日産の副社長陣を前に200億フランのコスト削減の実績を説明しました。私はこの会議に出席していませんが、副社長陣はルノーとゴーンに対して非常に良い印象を持ちました。このほか両社の開発部門の会議など、提携したら実際に仕事をする者同士で話をしています。
これ以降、交渉はトップ会談から幹部による具体的な検討に進みます。日産とルノーが目指したのは、対等で互いのアイデンティティーを大事にしつつ一体感を持った関係です。両社とも合併は考えず、といっていつでも切れる単純な提携でもない。そんな自動車業界でもあまり例のない提携関係に向け、一本調子で話が進んだのです。
ところが98年末、米国でのリース販売の損失などで日産は(財務面で)厳しい状況になりました。私はパリに飛び、両社が『対等でない出資条件』をこの時初めて要望したのです。シュバイツァーさんは、当初は含まれていなかった出資の話に、ポジティブに対応してくれました。
もう一つの問題は、(債務を抱えた)日産ディーゼル工業です。ダイムラーと進めていた日産ディーゼル株式の売却の交渉と、その後話が出た日産との提携交渉は、99年3月11日に彼らが交渉中止の短いステートメントを発表します。この時もルノーはトラック事業には興味がないのに「半分持ちましょう」と言ってくれたのです。こうして3月13日、パリ・シャルルドゴール空港隣のシェラトンホテルで、日産とルノーは提携に最終合意しました。
カルロス・ゴーンが優秀なことはシュバイツァーさんから聞いていましたが、じっくり話したのは彼が99年4月に日産に着任してからです。これは大した男だと思ったし、話をしていると私がかつて考えた改革策と一致する部分が多い。そこで最高執行責任者(COO)のポストを作って「社内のことは一切任せる」と言いました。彼が改革を「実行」したのは本当に立派です。
ルノーは日産との『対等な関係』を尊重してくれました。ルノーから来た役員は、日産の社員のたどたどしい英語でも理解しようと努力し、指示を出すときには相手が分かるまで何度でも話していました。日産とルノーはコミュニケーションをとる努力を誠実に実行しました。そのうえで互いのアイデンティティーを尊重したことが、提携成功の大きな要因です。
(この項おわり)
【評伝】信念と誠実の人
信念と誠実の人だった。「すしとワインはよく合う」。1999年3月27日、経営危機にあった日産自動車の社長だった塙さんは東京で開いたルノーとの資本提携発表の席でこう言い、社内外にも異論が多かった日仏連合を実現させた。
当時の日産は2兆円もの膨大な有利子負債を抱えていた。96年に社長に就任した塙さんは提携先を模索、独ダイムラー・クライスラー(当時)と交渉を重ねたが話はまとまらず、当時メーンバンクだった日本興業銀行(現みずほコーポレート銀行)の支援も得られず債務超過の危機にひんしていた。
最後の頼みの綱だった米フォードとの交渉も決裂、タイムリミットが迫る中、ある決意を持って塙さんはパリに飛ぶ。空港近くのホテルに待つルノー会長兼CEOのシュバイツァー氏の資本提携申し入れを受け入れるとともに、「コストカッター」としてルノーを立て直したカルロス・ゴーン氏の日産招聘(しょうへい)を取りつけた。
「ルノーの助けがなかったら日産は沈没していた」。ゴーン氏の大規模なリストラを見届け、代表取締役会長を経て相談役名誉会長に退いた後も、「しっかりやれよ」と後輩にアドバイスを送る硬骨な姿があった。
(文=八木澤徹)