日本初の女性機長が歩む道「パイロットの能力に男女差はない」
JAL・藤有里さん 国際航空女性協会のスピーチより(前編)
航空会社といえば、女性の活躍が目立つ業種だ。客室乗務員や空港旅客係員といった、利用者と直接接するスタッフは、圧倒的に女性が多い。特に国内の航空会社では、この傾向が顕著だ。
一方、飛行機の運航に携わる職種の中でも、パイロットや整備士に目を向けると、男性が大半を占める。例えば、日本国内の航空会社で働くパイロットは約5000人いるが、女性は1%の約50人だ。そのうち、機長は5人にとどまる。女性の整備士もまだまだ少ない。
女性機長5人のうちの1人、日本航空(JAL)の藤有里(あり)機長は、2010年7月に国内の航空会社では初めて機長に昇格した。現在はボーイング737-800型機に男性パイロットと同じシフトで乗務し、国内線や国際線を飛ばしている。
藤さんは1999年5月、JALグループのジャルエクスプレス(JEX、現在はJALに統合)に入社。訓練を経て、2000年4月から副操縦士として10年間乗務し、日本初の女性機長になった。毎年3月3日のひな祭りに、運航業務のほとんどを女性スタッフが行う、JALの「ひなまつりフライト」にも、機長として参加している。
日本の女性パイロットのパイオニアである藤さんは、6月のパリ航空ショーで開かれたIAWA(国際航空女性協会)のレセプションに招待された。世界各国の航空業界で働く女性を前に、日本のパイロット事情を自身の経験談を交えて紹介した。また、仏トゥールーズにあるエアバスでは、同社の女性フライト・テスト・エンジニア、サンドラ・ブール=シェファーさんと意見交換した。
日本初の女性機長として、フロントランナーの藤さんが歩んできた道のりは、どのようなものだったのだろうか。
女性もできると知られていない
「女性の社会進出は進んできていますが、パイロットという職業への進出がスローペースなのは、女性にもできるものだと、あまり知られていないからだと思います」。藤さんはレセプションのスピーチの中で、こう分析した。
日本発の女性機長として、とかくメディアに取り上げられることが多いが、藤さん自身は人前で話をするのは得意ではないという。しかし、取材を受けて行くにつれて、パイロットは女性もできる仕事だと理解してもらうためには、良い機会だと思うようになったそうだ。
幼少のころ、飛行機に乗った景色が記憶に残っていた藤さんは、高校で進路を選択する際にパイロットを目指そうとする。しかし、国の航空大学校を受験しようにも、受験時の身長制限に8センチ足りずに受けられなかった。
このころはまだ航空会社に女性パイロットが一人もおらず、航空会社に自社養成パイロットとして入社するのも、門前払いになる時代だった。男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年。今から30年ほど前は、職業を選択する以前の段階から、男女差が残っていた。
日本のパイロット育成制度では難しいと感じた藤さんは、米国へライセンスを取りに行く。そこで飛ぶ楽しさを知った藤さんは帰国後、会社員として働きながら日本のライセンスを取得した。そして、JEXのパイロット募集に応募し、必死の思いで受けた入社試験をパスした。
民間機のライセンスを持っていれば誰でも応募できたが、自社養成でもなければ航空大学校卒でもない。藤さんは「かなり珍しい動物のようにみられた」と話し、副操縦士になると、自分の中では男女差がないと考えていても、世の中は良くも悪くも男女差があることを実感する。
「機長になる気はあるのか」。藤さんは社内試験で、試験官からこう言われたという。副操縦士になった後は機長を目指すのが当たり前、そう考えていた藤さんは「変なことを聞くチェッカー(試験官)だな」と思いながら、「イエス」と応じた。
なぜ試験官がこのようなことを聞いたか。その理由を後日知ることになる。試験官は、女性は結婚して子供ができたら辞めてしまう、機長を目指すのを諦める、そう不安に感じていたからだ。
ラダーペダルに届かない?
副操縦士になってからも、女性ならではの苦労が続く。「男性社会の職場であることは覚悟していましたが、男性と同じミスをしても、大きく言われたりもしました」。
こう話す藤さんは、「君か、ラダーペダルに足が届かない副操縦士は」「パイロットもやったし、結婚したのだから、仕事辞めたら?」と、初対面の機長から心ない言葉を掛けられることすらあったという。もちろん、この時に藤さんは副操縦士として乗務しており、ラダーペダルに足が届かなかったわけではない。
男女共に同じミスをしても、女性が目立ってしまうと感じた藤さんは、はじめのうちは不公平な扱いに不満を抱いたという。しかし、自分のミスも素直に認めず、直すことができないことが悪循環につながっていることに気づく。
自分が変わったことで、周囲も変化した。機長昇格訓練に入ると、同僚たちや会社も応援してくれた。日本初の女性機長誕生までには、多くのハードルがあった。「素直に一生懸命、前に進めば結果がついてくることを知りました。嫌いなことや辛いことから逃げなければ道は開けます」と振り返った。
一方、飛行機の運航に携わる職種の中でも、パイロットや整備士に目を向けると、男性が大半を占める。例えば、日本国内の航空会社で働くパイロットは約5000人いるが、女性は1%の約50人だ。そのうち、機長は5人にとどまる。女性の整備士もまだまだ少ない。
女性機長5人のうちの1人、日本航空(JAL)の藤有里(あり)機長は、2010年7月に国内の航空会社では初めて機長に昇格した。現在はボーイング737-800型機に男性パイロットと同じシフトで乗務し、国内線や国際線を飛ばしている。
藤さんは1999年5月、JALグループのジャルエクスプレス(JEX、現在はJALに統合)に入社。訓練を経て、2000年4月から副操縦士として10年間乗務し、日本初の女性機長になった。毎年3月3日のひな祭りに、運航業務のほとんどを女性スタッフが行う、JALの「ひなまつりフライト」にも、機長として参加している。
日本の女性パイロットのパイオニアである藤さんは、6月のパリ航空ショーで開かれたIAWA(国際航空女性協会)のレセプションに招待された。世界各国の航空業界で働く女性を前に、日本のパイロット事情を自身の経験談を交えて紹介した。また、仏トゥールーズにあるエアバスでは、同社の女性フライト・テスト・エンジニア、サンドラ・ブール=シェファーさんと意見交換した。
日本初の女性機長として、フロントランナーの藤さんが歩んできた道のりは、どのようなものだったのだろうか。
女性もできると知られていない
「女性の社会進出は進んできていますが、パイロットという職業への進出がスローペースなのは、女性にもできるものだと、あまり知られていないからだと思います」。藤さんはレセプションのスピーチの中で、こう分析した。
日本発の女性機長として、とかくメディアに取り上げられることが多いが、藤さん自身は人前で話をするのは得意ではないという。しかし、取材を受けて行くにつれて、パイロットは女性もできる仕事だと理解してもらうためには、良い機会だと思うようになったそうだ。
幼少のころ、飛行機に乗った景色が記憶に残っていた藤さんは、高校で進路を選択する際にパイロットを目指そうとする。しかし、国の航空大学校を受験しようにも、受験時の身長制限に8センチ足りずに受けられなかった。
このころはまだ航空会社に女性パイロットが一人もおらず、航空会社に自社養成パイロットとして入社するのも、門前払いになる時代だった。男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年。今から30年ほど前は、職業を選択する以前の段階から、男女差が残っていた。
日本のパイロット育成制度では難しいと感じた藤さんは、米国へライセンスを取りに行く。そこで飛ぶ楽しさを知った藤さんは帰国後、会社員として働きながら日本のライセンスを取得した。そして、JEXのパイロット募集に応募し、必死の思いで受けた入社試験をパスした。
民間機のライセンスを持っていれば誰でも応募できたが、自社養成でもなければ航空大学校卒でもない。藤さんは「かなり珍しい動物のようにみられた」と話し、副操縦士になると、自分の中では男女差がないと考えていても、世の中は良くも悪くも男女差があることを実感する。
「機長になる気はあるのか」。藤さんは社内試験で、試験官からこう言われたという。副操縦士になった後は機長を目指すのが当たり前、そう考えていた藤さんは「変なことを聞くチェッカー(試験官)だな」と思いながら、「イエス」と応じた。
なぜ試験官がこのようなことを聞いたか。その理由を後日知ることになる。試験官は、女性は結婚して子供ができたら辞めてしまう、機長を目指すのを諦める、そう不安に感じていたからだ。
ラダーペダルに届かない?
副操縦士になってからも、女性ならではの苦労が続く。「男性社会の職場であることは覚悟していましたが、男性と同じミスをしても、大きく言われたりもしました」。
こう話す藤さんは、「君か、ラダーペダルに足が届かない副操縦士は」「パイロットもやったし、結婚したのだから、仕事辞めたら?」と、初対面の機長から心ない言葉を掛けられることすらあったという。もちろん、この時に藤さんは副操縦士として乗務しており、ラダーペダルに足が届かなかったわけではない。
男女共に同じミスをしても、女性が目立ってしまうと感じた藤さんは、はじめのうちは不公平な扱いに不満を抱いたという。しかし、自分のミスも素直に認めず、直すことができないことが悪循環につながっていることに気づく。
自分が変わったことで、周囲も変化した。機長昇格訓練に入ると、同僚たちや会社も応援してくれた。日本初の女性機長誕生までには、多くのハードルがあった。「素直に一生懸命、前に進めば結果がついてくることを知りました。嫌いなことや辛いことから逃げなければ道は開けます」と振り返った。