「世界文化遺産」今日にも登録。なぜ遠く離れた岩手・釜石は選ばれたのか?
九州・山口に集積するなか、橋野高炉跡との関係性を探る。
高い意匠性、今も現役の河内貯水池・南河内橋−八幡製鉄所に大量の工業用水を供給
釜石の支援も得て、順調に立ち上がった八幡製鉄所。1906年には帝国議会で第1次拡張計画が承認され、その後は続々と新しい高炉が建てられた。これに伴い、大量の工業用水の確保も必要になり、郊外に複数の貯水池が設けられた。
中でも、27年に完成した河内貯水池では橋や堤防、管理事務所など多数の建造物に美しいデザインが施された。今なお現役で稼働している上、周囲は豊かな自然にも恵まれ、市民の憩いの場ともなっている。時期的に10年までとされる「明治日本の産業革命遺産」には含まれなかったが、その価値はほかの遺産群に引けをとらない。
河内貯水池は18年の第3次拡張計画で造成が決まった。同製鉄所の土木部長だった沼田尚徳のこだわりが随所に見られる。堤防や取水塔、事務所建物は花こう岩の切石を積み重ねて仕上げており、あたかも中世の欧州の城郭を思わせるようないでたちだ。ぜいたくなつくりに見えたことから、政府の会計検査院の役人から「ぜいたくすぎる」と叱られたとの逸話も残る。
<2連構造「眼鏡橋」−湖面に映える真っ赤な鉄骨>
橋でも同じデザインは二つとないという沼田のこだわりがうかがえる。最も有名で、その真っ赤な鉄骨が湖面に映えるのが南河内橋。「レンチキュラートラス」2連構造という世界でも珍しいデザイン。横からだと、レンズが左右につながっているように見えるため「眼鏡橋」とも呼ばれる。欧州の設計思想に傾倒していた沼田が、米マサチューセッツ州ピッツバーグで見た橋を再現したと言われる。
貯水池の工期は8年、総工費は430万円。のべ90万人が従事し、当時の土木工事としては珍しく、殉職者なしで東洋一のダムの工事を終えた。
しかし、総監督を務めた沼田本人は工事中に妻の泰子を病気で失い、前後して5人の子供も若くして亡くなるなど、辛い運命にさらされた。現在、湖畔の高台には亡き妻を偲び、沼田自ら立てた石碑が貯水池全体を眺めている。そうした悲話もまた、地元の人々に愛され続けているゆえんであろう。
(文=大橋修)
日刊工業新聞2015年07月03日 深層断面