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「世界文化遺産」今日にも登録。なぜ遠く離れた岩手・釜石は選ばれたのか?

九州・山口に集積するなか、橋野高炉跡との関係性を探る。
「世界文化遺産」今日にも登録。なぜ遠く離れた岩手・釜石は選ばれたのか?

今は台座の石垣だけが残る橋野高炉跡

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」の世界文化遺産登録を、3―5日にも正式に決める。対象遺産の大半が九州・山口に集積するなか、1カ所だけ遠く離れた橋野高炉跡(岩手県釜石市)は、他の遺産群とどのようなつながりがあったのか。他方、産業革命をけん引した官営八幡製鉄所(現新日鉄住金八幡製鉄所、北九州市八幡東区)では、登録対象でないものの、河内貯水池など貴重な遺産が今も現役で静かに活躍している。

 <巨大な石垣−鉄が作られた痕跡>
 釜石市中心部から車で約1時間。隣接する遠野市との境である笛吹峠も目の前の、山深い小川のほとりに橋野高炉跡がたたずむ。周囲に人家はほとんどなく、一時は約1000人の作業員が従事していたという面影はない。3基の巨大な石垣が残るのみだ。ただ、石垣のたもとをよく注意して探すと、鉱滓(こうさい)(スラグ)を見つけることができる。一部が黒光りするのは高熱で溶けた痕跡だ。確かにここで鉄がつくられていたことを物語る。

 同高炉の完成は1860年(万延元)ごろ。その前の58年1月、山を挟んだ南側の大橋地区で、南部藩士の大島高任が国内初の洋式高炉による銑鉄の生産に成功。これを受け、南部藩は橋野をはじめ、現在の釜石、遠野市内に10基の高炉を建設。中でも橋野の三番高炉は、日清戦争が開戦した94年(明27)まで稼働した。
 
 <港までの「鉄の道」>
 最盛期には大工や鍛冶などの職人を含め、約1000人が従事し、牛150頭、馬50頭が物資の運搬などに使役された。記録によると、従業員が寝泊まりする長屋や鍛治屋敷、水車場、給料を支払う「御日払所」などの施設が建てられた。神社も置かれ、実際に使われた71年の祝詞は今も現存する。

 鉄鉱石はそこから南に約2・6キロメートル離れた場所で採掘した。鉄分50―60%と高品位の磁鉄鉱だが、銑鉄にするのは難しく、独特のノウハウが必要だった。銑鉄は山を下り、曲がりくねった狭い道を通って、積み出し港である両石港まで牛車で運ばれた。その道は「鉄の道」とも呼ばれた。

 橋野高炉の成功を受け、明治政府は日本初の官営製鉄所の建設を釜石市鈴子に決定。その計画は失敗したが、民間の田中長兵衛に払い下げられた後、86年に連続生産に成功。これが現在の新日鉄住金釜石製鉄所の起源となった。その後、田中は釜石鉱山田中製鉄所を創業し、市内で複数の製鉄所を展開。94年には橋野高炉も吸収した。同年、近くに栗橋分工場が完成。これを受け、橋野三番高炉は36年間にわたるその役割を終えた。
 
 <技術者7人派遣>
 3年後の97年、政府は八幡製鉄所の建設を決定。技監に任命されたのは、大島高任の長男の大島道太郎だった。1901年の操業開始時には釜石からも7人の高炉技術者が派遣された。その後、操業はトラブル続きで何度も休止を繰り返したが、それを立て直したのも田中製鉄所顧問の野呂景義。釜石の技術は八幡製鉄所の礎を支えたとも言える。

 それから100年以上が経過。釜石のかつての「鉄の道」は2011年の東日本大震災時、遠野市から笛吹峠を越えて救援物資を運ぶルートとなり、多くの被災住民を救った。鉄の道に沿って流れる鵜住居川の河口には、19年に日本で開催するラグビーワールドカップの試合会場が建設される。釜石は「鉄とラグビーの町」でもあり、世界遺産登録はその名を世界にとどろかせると同時に、震災からの復興と支援への感謝を伝える好機でもある。
 
日刊工業新聞2015年07月03日 深層断面
明豊
明豊 Ake Yutaka 取締役デジタルメディア事業担当
やはり鉄は国家なり。100年後に日本はどんな産業遺産を残せるのだろうか。

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