ブラタモリ、「モノづくり王国・名古屋」の真髄に迫る
ブラタモリ、再び名古屋へ!今回のテーマは「ものづくり」。名古屋を中心とした愛知県は、自動車や航空機、電子機器など製造品の出荷額が、昭和52年からずーっと日本一という、まさに「ものづくり日本一」の土地。しかしそもそも、どうしてそんなに「ものづくり」が盛んになったのでしょうか?実はその背景には、名古屋の地形と、そしてはるか大昔から脈々と受けつがれる精神があった!
名古屋のものづくりの原点を探るべくタモリさんがやってきたのは、市内を流れる1本の川。400年前、徳川家康が名古屋城を築いた際につくった人工の川ですが、実はこの川にものづくり名古屋の秘密を解き明かすカギがあった?
タモリさんが名古屋城の外堀の中へ潜入!?かつて堀の中を走っていた幻の電車と、名古屋の名前を世界に知らしめた特産品の知られざる関係とは?さらに市内をいまも流れる運河では、名古屋の物流を支えた2つの「閘門(こうもん)」を船に乗って体験!
そして最後は、名古屋市民の憩いの場・東山動植物園へ!ライオン舎のすぐ隣に、「ものづくり名古屋」のルーツの痕跡がある…って本当?
タモリさんが、ブラブラ歩きながら「ものづくり王国」名古屋の真髄に迫ります。
放送予定:NHK総合 2017年11月18日(土)午後7時30分~8時15分
戦前から戦後、さまざまな節目を経て発展を続けてきた中部のモノづくりには、日本のみならず、世界からも熱い視線が注がれている。今なお日本の産業界をリードし続けている中部のモノづくりが、今後の日本再生の鍵を握っているといっても過言ではない。中部のモノづくはなぜ強いのか、その背景を探った。
中部地区(愛知・岐阜・三重・静岡・石川・富山)が「モノづくり王国」と言われるようになって久しい。トヨタ自動車を筆頭に、製造業の盛んな地域であるというイメージはすっかり定着している。では実際、どれだけモノづくりの強い地域なのか。
その実態は、各種統計データから鮮明に浮かび上がる。内閣府「県民経済計算」(2012年)によると、経済活動別総生産における製造業の占める割合は34・5%。全国平均の20・6%と比較すると、この地区の産業において製造業がいかに高い比率を占めているかがわかる。製造業の中で、輸送用機械の占める割合が大きいことも大きな特徴だ。2012年時点で全国平均が約2割であるのに対し、中部は約4割。自動車、自動車部品、航空機部品がその代表と言えよう。
総務省・経済産業省「経済センサス活動調査」(同)では、製造業の事業所数は全国で49万3380。対して中部は9万7012で全体の約20%を占めている。従業者数は全国が約925万に対し、中部は約204万で約22%。6県の人口が全国の13・6%であることから考えると、その比率の高さは明らかだ。
経済産業省「工業統計(産業編)」(同)によると、中部の製造品出荷額(従業者10人以上の事業所)は75兆2111億円。全国総額の281兆5983億円と比較すると、中部が約27%のシェアを占めていることがわかる。この数値からも、中部がモノづくりの盛んな地域であることが見て取れる。
モノづくりの強さは、港湾での貨物取扱量からもわかる。国土交通省「港湾統計」(同)によると、総貨物量で名古屋港は2億トンを超え全国トップ。輸出量について見ると約5500万トンで他を大きく引き離している。また、四日市港も総貨物量で15位と上位につけている。
歴史的に見ても、中部は古くからモノづくりの盛んな地域だった。これは、今も多くの伝統工芸が受け継がれていることからもわかる。伝統的工芸品のうち経済産業大臣が指定するものに限ってみると、現在その数は全国で222点。うち愛知が12点(全国5位)、石川が10点(全国6位)。これら以外にもこの地域には数々の伝統的工芸品があり、今も多くの職人が活躍している。
国内の各企業が中部を製造拠点としてどう捉えているかという点からも、モノづくりに強い地域であることが窺える。帝国データバンクが8月に公表した「地方創生に関する投資意向調査」(2015年6ー7月実施)によると、新たな拠点・設備を整備する計画や可能性がある企業2731社のうち、工場の立地を検討したい場所として挙げている地域は、1位が海外、2位が愛知となっている。トップ10には、3位に静岡、8位に岐阜が入っており、中部が工場立地に適した場所と考える企業の多いことがわかる。
ただ一概に「中部のモノづくり」と言っても、愛知とその隣接地域が圧倒的な地位を占めていることは否めない。東海に比べ北陸地域の注目度が低いのは事実だ。
しかし、北陸もモノづくりの盛んな地域であることは間違いない。この地域は「日本海側最大の工業地帯」といわれる通り製造業が発達しており、機械、化学、金属などを中心にメーカーが集積している。コマツやYKKなど、高い技術力を武器に市場で高いシェアを保持する企業も多い。
では、なぜ中部は製造業が発達したのか。理由としてまず挙げられるのが地理的優位性だ。中部は日本の中央に位置していることから、東西両地域へのアクセスに優れている。同時に東京・大阪という大都市の間にあることから、両都市を結ぶルートが発達するにつれて必然的に交通の便が向上した。
これに伴い、関東・関西両地域を市場として展開できる強みを得た。工場立地に適した広大な平野、物流拠点としての伊勢湾があることも大きな地理的強みとなっている。また、周辺に大河川があることで水に恵まれ、同時にその上流が水力発電に適していたことも産業が発達する基盤となった。
北陸も、関西、関東、そして東海へのアクセスがいずれも優れていることが利点として挙げられる。近年は鉄道、道路、港湾の整備も進み、利便性はさらに高まりつつある。北陸も東海同様に水資源が豊かで、安価な電力を利用できることが工場立地に有利な条件となった。
工場立地に関する研究でよく言及されるアルフレート・ウェーバーの工場立地論では、輸送費の最小化を工場立地の主要条件としている。彼の著書『工場立地論』は1909年に発表されたもので、現在とは社会環境は大きく異なるが、工場立地に際して輸送費が重視される点は今日も変わらない。
先の帝国データバンクの調査では、工場に投資する際に重視する条件として、「既存自社施設の立地状況」を挙げる企業が最も多くなっている。2番目に多かった「用地の価格」に次いで「交通利便性」が上位に挙がっている。この結果からも、東京・大阪間に位置し交通の便に優れた中部が、モノづくりの拠点である工場の立地に関して好条件にあることが窺える。
地理的背景とともに、歴史的背景も見逃せない。中部のモノづくりの歴史を辿ると、まず飛騨や木曽の木材にそのルーツが求められる。江戸時代、これらの地域で産出された良質な木材が名古屋に集められた。その契機となったのが、徳川家康による名古屋城築城だ(1610年)。
新たに造られた運河を使って大量の木材が名古屋に運び込まれ、城と城下町の建設が進められた。木材は家具や仏具の製造も盛んにし、やがて時計やからくり人形をつくる技術へと進化を遂げた。ここで育まれた技術は、後に精密機械、工作機械の製造技術へと昇華していく。
木材は、明治に入ると鉄道車両の製造など、幅広い分野で使われるようになった。そうした中、材木商を営んでいた鈴木摠兵衛が1893年に愛知時計製造(現・愛知時計電機)を創業する。この会社では、時計のほか兵器部品、航空機、自動車などさまざまな製品がつくられ、この地域の工業のみならず、日本の近代産業の発展にも大きな貢献を果たした。
陶磁器産業も、この地域では古くから盛んだった。愛知県瀬戸市、同常滑市、岐阜県多治見市など、良質な陶土と燃料となる木材が豊富に手に入る地域では、戦前から戦後に至るまで窯業が発達した。
1876年、実業家の森村市左衛門が森村組を創業し、陶磁器などの貿易を行うようになる。ここから、日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)、東洋陶器(現・TOTO)、日本碍子(現・日本ガイシ)といったメーカーが誕生した。これら森村グループは、今も陶磁器業界をリードしている。
中部は繊維産業でも一大拠点になっていた。江戸時代、尾張、知多、三河、美濃の各地で、農家の副業として綿織物産業が発達した。知多木綿や三河木綿は広く知られる。明治に入ると、尾張地区では毛織物も盛んに行われるようになり、愛知は「繊維王国」と呼ばれるまでになった。
繊維産業をさらに飛躍させたのが、自動織機を発明した豊田佐吉だ。彼はその画期的な発明をもとに豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)を創業。1933年、佐吉の息子喜一郎が自動車製作部門を社内に設置する。ここからトヨタ自動車の歴史が始まったことは周知の通りだ。
繊維産業は、近代以降長らくこの地域の工業生産でトップの地位にあった。明治時代に四日市港、名古屋港が開港すると、それまで行われていた軽工業に加えて、機械、化学工業なども発達した。1940年には、繊維を抑えて機械が中部の工業生産トップを占めるようになる。
そして、戦時中には航空機産業がこの地に集積し、多くのシェアを占めるようになった。もちろん、その背景には木材、繊維を起源とする江戸時代から培われた高い技術力があったことは言うまでもない。
名古屋のものづくりの原点を探るべくタモリさんがやってきたのは、市内を流れる1本の川。400年前、徳川家康が名古屋城を築いた際につくった人工の川ですが、実はこの川にものづくり名古屋の秘密を解き明かすカギがあった?
タモリさんが名古屋城の外堀の中へ潜入!?かつて堀の中を走っていた幻の電車と、名古屋の名前を世界に知らしめた特産品の知られざる関係とは?さらに市内をいまも流れる運河では、名古屋の物流を支えた2つの「閘門(こうもん)」を船に乗って体験!
そして最後は、名古屋市民の憩いの場・東山動植物園へ!ライオン舎のすぐ隣に、「ものづくり名古屋」のルーツの痕跡がある…って本当?
タモリさんが、ブラブラ歩きながら「ものづくり王国」名古屋の真髄に迫ります。
放送予定:NHK総合 2017年11月18日(土)午後7時30分~8時15分
中部のモノづくりはなぜ強いのか
戦前から戦後、さまざまな節目を経て発展を続けてきた中部のモノづくりには、日本のみならず、世界からも熱い視線が注がれている。今なお日本の産業界をリードし続けている中部のモノづくりが、今後の日本再生の鍵を握っているといっても過言ではない。中部のモノづくはなぜ強いのか、その背景を探った。
中部地区(愛知・岐阜・三重・静岡・石川・富山)が「モノづくり王国」と言われるようになって久しい。トヨタ自動車を筆頭に、製造業の盛んな地域であるというイメージはすっかり定着している。では実際、どれだけモノづくりの強い地域なのか。
その実態は、各種統計データから鮮明に浮かび上がる。内閣府「県民経済計算」(2012年)によると、経済活動別総生産における製造業の占める割合は34・5%。全国平均の20・6%と比較すると、この地区の産業において製造業がいかに高い比率を占めているかがわかる。製造業の中で、輸送用機械の占める割合が大きいことも大きな特徴だ。2012年時点で全国平均が約2割であるのに対し、中部は約4割。自動車、自動車部品、航空機部品がその代表と言えよう。
総務省・経済産業省「経済センサス活動調査」(同)では、製造業の事業所数は全国で49万3380。対して中部は9万7012で全体の約20%を占めている。従業者数は全国が約925万に対し、中部は約204万で約22%。6県の人口が全国の13・6%であることから考えると、その比率の高さは明らかだ。
経済産業省「工業統計(産業編)」(同)によると、中部の製造品出荷額(従業者10人以上の事業所)は75兆2111億円。全国総額の281兆5983億円と比較すると、中部が約27%のシェアを占めていることがわかる。この数値からも、中部がモノづくりの盛んな地域であることが見て取れる。
モノづくりの強さは、港湾での貨物取扱量からもわかる。国土交通省「港湾統計」(同)によると、総貨物量で名古屋港は2億トンを超え全国トップ。輸出量について見ると約5500万トンで他を大きく引き離している。また、四日市港も総貨物量で15位と上位につけている。
伝統工芸品から受け継がれる力
歴史的に見ても、中部は古くからモノづくりの盛んな地域だった。これは、今も多くの伝統工芸が受け継がれていることからもわかる。伝統的工芸品のうち経済産業大臣が指定するものに限ってみると、現在その数は全国で222点。うち愛知が12点(全国5位)、石川が10点(全国6位)。これら以外にもこの地域には数々の伝統的工芸品があり、今も多くの職人が活躍している。
国内の各企業が中部を製造拠点としてどう捉えているかという点からも、モノづくりに強い地域であることが窺える。帝国データバンクが8月に公表した「地方創生に関する投資意向調査」(2015年6ー7月実施)によると、新たな拠点・設備を整備する計画や可能性がある企業2731社のうち、工場の立地を検討したい場所として挙げている地域は、1位が海外、2位が愛知となっている。トップ10には、3位に静岡、8位に岐阜が入っており、中部が工場立地に適した場所と考える企業の多いことがわかる。
ただ一概に「中部のモノづくり」と言っても、愛知とその隣接地域が圧倒的な地位を占めていることは否めない。東海に比べ北陸地域の注目度が低いのは事実だ。
しかし、北陸もモノづくりの盛んな地域であることは間違いない。この地域は「日本海側最大の工業地帯」といわれる通り製造業が発達しており、機械、化学、金属などを中心にメーカーが集積している。コマツやYKKなど、高い技術力を武器に市場で高いシェアを保持する企業も多い。
地理的な優位性が産業の発展につながる
では、なぜ中部は製造業が発達したのか。理由としてまず挙げられるのが地理的優位性だ。中部は日本の中央に位置していることから、東西両地域へのアクセスに優れている。同時に東京・大阪という大都市の間にあることから、両都市を結ぶルートが発達するにつれて必然的に交通の便が向上した。
これに伴い、関東・関西両地域を市場として展開できる強みを得た。工場立地に適した広大な平野、物流拠点としての伊勢湾があることも大きな地理的強みとなっている。また、周辺に大河川があることで水に恵まれ、同時にその上流が水力発電に適していたことも産業が発達する基盤となった。
北陸も、関西、関東、そして東海へのアクセスがいずれも優れていることが利点として挙げられる。近年は鉄道、道路、港湾の整備も進み、利便性はさらに高まりつつある。北陸も東海同様に水資源が豊かで、安価な電力を利用できることが工場立地に有利な条件となった。
工場立地に関する研究でよく言及されるアルフレート・ウェーバーの工場立地論では、輸送費の最小化を工場立地の主要条件としている。彼の著書『工場立地論』は1909年に発表されたもので、現在とは社会環境は大きく異なるが、工場立地に際して輸送費が重視される点は今日も変わらない。
先の帝国データバンクの調査では、工場に投資する際に重視する条件として、「既存自社施設の立地状況」を挙げる企業が最も多くなっている。2番目に多かった「用地の価格」に次いで「交通利便性」が上位に挙がっている。この結果からも、東京・大阪間に位置し交通の便に優れた中部が、モノづくりの拠点である工場の立地に関して好条件にあることが窺える。
ルーツは木材。後に精密機械や工作機械へ昇華
地理的背景とともに、歴史的背景も見逃せない。中部のモノづくりの歴史を辿ると、まず飛騨や木曽の木材にそのルーツが求められる。江戸時代、これらの地域で産出された良質な木材が名古屋に集められた。その契機となったのが、徳川家康による名古屋城築城だ(1610年)。
新たに造られた運河を使って大量の木材が名古屋に運び込まれ、城と城下町の建設が進められた。木材は家具や仏具の製造も盛んにし、やがて時計やからくり人形をつくる技術へと進化を遂げた。ここで育まれた技術は、後に精密機械、工作機械の製造技術へと昇華していく。
木材は、明治に入ると鉄道車両の製造など、幅広い分野で使われるようになった。そうした中、材木商を営んでいた鈴木摠兵衛が1893年に愛知時計製造(現・愛知時計電機)を創業する。この会社では、時計のほか兵器部品、航空機、自動車などさまざまな製品がつくられ、この地域の工業のみならず、日本の近代産業の発展にも大きな貢献を果たした。
陶磁器産業も、この地域では古くから盛んだった。愛知県瀬戸市、同常滑市、岐阜県多治見市など、良質な陶土と燃料となる木材が豊富に手に入る地域では、戦前から戦後に至るまで窯業が発達した。
1876年、実業家の森村市左衛門が森村組を創業し、陶磁器などの貿易を行うようになる。ここから、日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)、東洋陶器(現・TOTO)、日本碍子(現・日本ガイシ)といったメーカーが誕生した。これら森村グループは、今も陶磁器業界をリードしている。
「繊維王国」から世界のTOYOTAに
中部は繊維産業でも一大拠点になっていた。江戸時代、尾張、知多、三河、美濃の各地で、農家の副業として綿織物産業が発達した。知多木綿や三河木綿は広く知られる。明治に入ると、尾張地区では毛織物も盛んに行われるようになり、愛知は「繊維王国」と呼ばれるまでになった。
繊維産業をさらに飛躍させたのが、自動織機を発明した豊田佐吉だ。彼はその画期的な発明をもとに豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)を創業。1933年、佐吉の息子喜一郎が自動車製作部門を社内に設置する。ここからトヨタ自動車の歴史が始まったことは周知の通りだ。
繊維産業は、近代以降長らくこの地域の工業生産でトップの地位にあった。明治時代に四日市港、名古屋港が開港すると、それまで行われていた軽工業に加えて、機械、化学工業なども発達した。1940年には、繊維を抑えて機械が中部の工業生産トップを占めるようになる。
そして、戦時中には航空機産業がこの地に集積し、多くのシェアを占めるようになった。もちろん、その背景には木材、繊維を起源とする江戸時代から培われた高い技術力があったことは言うまでもない。
日刊工業新聞2015年10月15日「モノづくり中部の鼓動 技、一路」より