「風の秋田」を創る、風力発電で秋田消滅の危機を救え
秋田の地元企業、ウェンティ・ジャパンの挑戦
秋田で建設が始まった、県下最大の風力発電所「秋田潟上ウインドファーム」。男鹿半島の南側6キロにわたって、GE製の3.2MW型大型風力タービンが22基立ち並ぶ計画だ。運転開始は2020年5月(予定)、総出力は、一般家庭約4万世帯分の電力を賄える規模の6.6万キロワット。総事業費200億円超というこのプロジェクトを手がけるのは、秋田潟上ウインドファーム合同会社(SPC:特定目的会社)。――出資社の筆頭は秋田の地元企業、「ウェンティ・ジャパン」だ。
秋田の風力発電導入量は、単年では3年連続で全国1位。総量でもまもなく青森を抜いて全国トップに躍り出ようという、驚くべき勢いを見せている。単にクリーンエネルギーを作ろうということではない。衰退しきった地域をいかに再生させられるか。消滅危険地域として警告を受けるほどの危機に瀕した秋田を新産業創出によって再生してみせる、地元住民の決意のプロジェクトだ。
取り組みを始めて数年。産官学の歯車がしっかりと噛み合い、いま、秋田を未来に繋ぐエンジンが回り始めている。GEもここに関わる企業として、秋田の「地域創生の実際」を紹介すべく現地を取材してきた。
取材先の全ての人が口にしたのは「危機感」。秋田の人口は今年100万人を切る。かつて地元を支えた石油産業と非鉄鉱業は時代の変化とともに縮小、目立った産業がない状態に。負のスパイラルに、歯止めが必要だった。「今ある資源のなかから産業振興を図り、雇用拡大に繋げよう」と県は、東日本大震災が起きる以前から新エネルギー産業戦略を練り、2011年5月に発表した。
「秋田の再生に何よりも大事なのは、質のよい雇用の創出。いくら子育て支援をしたところで、十分な給与水準が期待できないところには誰も残りません。リーマンショック後、有効求人倍率は0.28にまで落ち込みました。アルバイトも含めて、4人に1人、仕事があるかどうかという状況です。現在は1.3近くに回復したものの、県はとてつもない危機感に直面しました。何に対する危機か。自分たちの子や孫が地元に残れる環境が欲しい、という想いです」と中島英史副知事はこう話す。
東日本大震災のあと、社会の目が新エネルギーへ向いたとき、地元企業や銀行も、改めて秋田の環境を見直した。日本でも屈指の強風が吹き、海岸線には平地がある。そんな特性もあって、秋田にはその頃すでに約100基の風車があり、風力発電は全国4、5位の導入量があった。しかし、蓋を開けてみると、そのほとんどは県外資本によるものでしかなかった。
「資源はあるが、資本は外からやってきて、吸い取られていく。まるで植民地でした。秋田の強みを活かして、とにかく産業を創出する必要がありました。そして、そこから生み出す利益を、県内に還元できる仕組みが必要だったのです」北都銀行の斉藤永吉頭取は、こう振り返る。「人口が減る、雇用がなくなる、若者が県外へ出ていってしまう。これではどうなる・・・!風を秋田の新産業にしよう!」切迫した危機感と共に出発した。地方銀行が成長するのは地方の成長があってのこと。北都銀行は、風力を秋田の中心的産業に育てようとアイデアを練った。
斉藤頭取は、銀行の仕事はかつてとは大きく変わった、と言う。人口減少、マイナス金利、バーゼルⅢ。「金融機関を取り巻く環境は厳しいものの、そうした時代の変化をチャンスとして捉えていかなければなりません。地域のリスクはとる。自分たちがディベロッパーとなって事業を興し、そこに資金ニーズを作る。マッチングを仕掛けて中小企業に事業機会をつくっていく。裾野を広げていかなければならない。地域のリスクは、我々がとる。そうでなければ、地方銀行の生きる道はありません。」
代々悩まされてきた日本海からの強風。「風を原資に、県の未来につながる経済を創出できないか?」そう考えていたのは銀行だけではなかった。21年前、東京から地元秋田に戻って家業を継ぎ、さまざまな事業を手がけてきた佐藤裕之氏もそのひとりだ。
秋田の再生への強い想いを共有していた北都銀行と佐藤氏は、2012年、ラテン語で「風」を意味する名前を冠したウェンティ・ジャパン社を設立。日本一の強風が吹く秋田にあって、風力発電事業者として名乗りを上げた初の企業となり、佐藤氏が社長に就任した。多額の先行投資が必要となる風力発電事業は、それまで地元企業にとっては参入障壁が高すぎた。しかし、この年開始されたFIT制度がその壁を下げてくれた。翌2013年には、民間だけでなく自治体、アカデミアからの有志とともに秋田風力発電コンソーシアム「秋田風作戦」を設立。ウェンティ・ジャパンの佐藤社長が、会長職を引き受け、地元金融機関も中心的役割を果たした。
「風力発電は県内だけでも毎年約200億円の市場があります。中小企業でも手を出しやすい太陽光とは違って、風力発電は開発コストが大きい。我々のような小さな銀行が単独で巨額の資金提供はできなくともコーディネーションはできる、そう考えたわけです。プロジェクト・ファイナンスを勉強し、この6年間、外部からも人を招聘して体制を作ってきました。そうして今、県内の様々な発電事業者のご支援をしています」(斉藤頭取)
「県としても身を切る姿勢を示すことが必要でした」。こう語るのは、秋田県庁産業労働部 資源エネルギー産業課の黒崎亨主査。強風が砂を運ぶため、県の保安林として松林が長く続く沿岸部。秋田県は全国に先駆けて規制緩和を実施した。保安林解除を可能とするルールを整備したうえで、公有地を風力発電用用地として開放、2013年度には風力発電事業者の公募を行った。
保安林における風力発電への大規模な用地提供と公募は、秋田県が初の事例になる。「できるだけ地元にメリットをもたらしてくれる企業を主体としたい。県による公募であれば、そのあたりも交通整理ができます。審査基準は、いかに地域経済に還元できる可能性があるか、という点でした」(黒崎主査)
発電に足る風況があるのは、東北、北海道そして九州。これらの地域が手を抜けば、国のエネルギーミックスの実現は難しくなるだろう。しかし、現実問題として、エネルギーミックスの実現自体は地域にとって直接的にはあまり意味がない。「産業振興がともなって初めて、地域社会に意味が生まれます」(黒崎主査)
秋田県庁、資源エネルギー産業課の阿部泰久課長は「県外、海外の企業や機関にも、参加して秋田に来ていただいています。そこに地元企業が参入していける仕組みづくりを支援するのが、県の仕事」と語る。新産業の振興というと、行政機関は多額の補助金を出すのが一般的。しかし、中島副知事によると、今回の風力発電プロジェクトでは行政経費はそれほど使われていない。秋田県は補助金というよりも、規制緩和など政策で民間を支援している。「スピードある事業展開のためには、事業環境の良さが重要です。“こうでなければならない”ではなく“県として何ができるだろうか”という姿勢で事業者の皆様からのご相談に応じています」(中島副知事)
ウェンティ・ジャパンのメンバーは、県内の住民説明会で、反対派に会ったことがない。他県では必ず反対派が存在する。「県がビジョンを明確に伝えて、シンポジウムなどでも広い層に経済効果を説明してくれているおかげで、地域再生に繋がるという認識が住民に共有されているんです。“早くやれ!”とは言われても“やめろ”と言われたことはありません」とメンバーは嬉しそうに語る。
<次ページ:地域創生に人生を賭ける>
秋田の風力発電導入量は、単年では3年連続で全国1位。総量でもまもなく青森を抜いて全国トップに躍り出ようという、驚くべき勢いを見せている。単にクリーンエネルギーを作ろうということではない。衰退しきった地域をいかに再生させられるか。消滅危険地域として警告を受けるほどの危機に瀕した秋田を新産業創出によって再生してみせる、地元住民の決意のプロジェクトだ。
取り組みを始めて数年。産官学の歯車がしっかりと噛み合い、いま、秋田を未来に繋ぐエンジンが回り始めている。GEもここに関わる企業として、秋田の「地域創生の実際」を紹介すべく現地を取材してきた。
突き動かすのは「危機感」
取材先の全ての人が口にしたのは「危機感」。秋田の人口は今年100万人を切る。かつて地元を支えた石油産業と非鉄鉱業は時代の変化とともに縮小、目立った産業がない状態に。負のスパイラルに、歯止めが必要だった。「今ある資源のなかから産業振興を図り、雇用拡大に繋げよう」と県は、東日本大震災が起きる以前から新エネルギー産業戦略を練り、2011年5月に発表した。
「秋田の再生に何よりも大事なのは、質のよい雇用の創出。いくら子育て支援をしたところで、十分な給与水準が期待できないところには誰も残りません。リーマンショック後、有効求人倍率は0.28にまで落ち込みました。アルバイトも含めて、4人に1人、仕事があるかどうかという状況です。現在は1.3近くに回復したものの、県はとてつもない危機感に直面しました。何に対する危機か。自分たちの子や孫が地元に残れる環境が欲しい、という想いです」と中島英史副知事はこう話す。
東日本大震災のあと、社会の目が新エネルギーへ向いたとき、地元企業や銀行も、改めて秋田の環境を見直した。日本でも屈指の強風が吹き、海岸線には平地がある。そんな特性もあって、秋田にはその頃すでに約100基の風車があり、風力発電は全国4、5位の導入量があった。しかし、蓋を開けてみると、そのほとんどは県外資本によるものでしかなかった。
「資源はあるが、資本は外からやってきて、吸い取られていく。まるで植民地でした。秋田の強みを活かして、とにかく産業を創出する必要がありました。そして、そこから生み出す利益を、県内に還元できる仕組みが必要だったのです」北都銀行の斉藤永吉頭取は、こう振り返る。「人口が減る、雇用がなくなる、若者が県外へ出ていってしまう。これではどうなる・・・!風を秋田の新産業にしよう!」切迫した危機感と共に出発した。地方銀行が成長するのは地方の成長があってのこと。北都銀行は、風力を秋田の中心的産業に育てようとアイデアを練った。
斉藤頭取は、銀行の仕事はかつてとは大きく変わった、と言う。人口減少、マイナス金利、バーゼルⅢ。「金融機関を取り巻く環境は厳しいものの、そうした時代の変化をチャンスとして捉えていかなければなりません。地域のリスクはとる。自分たちがディベロッパーとなって事業を興し、そこに資金ニーズを作る。マッチングを仕掛けて中小企業に事業機会をつくっていく。裾野を広げていかなければならない。地域のリスクは、我々がとる。そうでなければ、地方銀行の生きる道はありません。」
代々悩まされてきた日本海からの強風。「風を原資に、県の未来につながる経済を創出できないか?」そう考えていたのは銀行だけではなかった。21年前、東京から地元秋田に戻って家業を継ぎ、さまざまな事業を手がけてきた佐藤裕之氏もそのひとりだ。
秋田の再生への強い想いを共有していた北都銀行と佐藤氏は、2012年、ラテン語で「風」を意味する名前を冠したウェンティ・ジャパン社を設立。日本一の強風が吹く秋田にあって、風力発電事業者として名乗りを上げた初の企業となり、佐藤氏が社長に就任した。多額の先行投資が必要となる風力発電事業は、それまで地元企業にとっては参入障壁が高すぎた。しかし、この年開始されたFIT制度がその壁を下げてくれた。翌2013年には、民間だけでなく自治体、アカデミアからの有志とともに秋田風力発電コンソーシアム「秋田風作戦」を設立。ウェンティ・ジャパンの佐藤社長が、会長職を引き受け、地元金融機関も中心的役割を果たした。
「風力発電は県内だけでも毎年約200億円の市場があります。中小企業でも手を出しやすい太陽光とは違って、風力発電は開発コストが大きい。我々のような小さな銀行が単独で巨額の資金提供はできなくともコーディネーションはできる、そう考えたわけです。プロジェクト・ファイナンスを勉強し、この6年間、外部からも人を招聘して体制を作ってきました。そうして今、県内の様々な発電事業者のご支援をしています」(斉藤頭取)
「県としても身を切る姿勢を示すことが必要でした」。こう語るのは、秋田県庁産業労働部 資源エネルギー産業課の黒崎亨主査。強風が砂を運ぶため、県の保安林として松林が長く続く沿岸部。秋田県は全国に先駆けて規制緩和を実施した。保安林解除を可能とするルールを整備したうえで、公有地を風力発電用用地として開放、2013年度には風力発電事業者の公募を行った。
保安林における風力発電への大規模な用地提供と公募は、秋田県が初の事例になる。「できるだけ地元にメリットをもたらしてくれる企業を主体としたい。県による公募であれば、そのあたりも交通整理ができます。審査基準は、いかに地域経済に還元できる可能性があるか、という点でした」(黒崎主査)
発電に足る風況があるのは、東北、北海道そして九州。これらの地域が手を抜けば、国のエネルギーミックスの実現は難しくなるだろう。しかし、現実問題として、エネルギーミックスの実現自体は地域にとって直接的にはあまり意味がない。「産業振興がともなって初めて、地域社会に意味が生まれます」(黒崎主査)
秋田県庁、資源エネルギー産業課の阿部泰久課長は「県外、海外の企業や機関にも、参加して秋田に来ていただいています。そこに地元企業が参入していける仕組みづくりを支援するのが、県の仕事」と語る。新産業の振興というと、行政機関は多額の補助金を出すのが一般的。しかし、中島副知事によると、今回の風力発電プロジェクトでは行政経費はそれほど使われていない。秋田県は補助金というよりも、規制緩和など政策で民間を支援している。「スピードある事業展開のためには、事業環境の良さが重要です。“こうでなければならない”ではなく“県として何ができるだろうか”という姿勢で事業者の皆様からのご相談に応じています」(中島副知事)
ウェンティ・ジャパンのメンバーは、県内の住民説明会で、反対派に会ったことがない。他県では必ず反対派が存在する。「県がビジョンを明確に伝えて、シンポジウムなどでも広い層に経済効果を説明してくれているおかげで、地域再生に繋がるという認識が住民に共有されているんです。“早くやれ!”とは言われても“やめろ”と言われたことはありません」とメンバーは嬉しそうに語る。
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