【ペロブスカイト太陽電池誕生】episode13 EPFLの出会い
英オックスフォード大学のヘンリー・スネイスと研究交流を始める6年前。桐蔭横浜大学の博士課程に在学していた2003年の村上拓郎は、海外で研究する憧れからスイス連邦工科大学ローザンヌ校のマイケル・グレッツェル研究室を目指す。(敬称略)
桐蔭横浜大学博士課程の村上拓郎は、その機会を生かそうと考えていた。2003年、場所は関西を走るタクシーの車内だ。同乗者には指導教官の宮坂力ともう一人、光化学に関する国際会議の招待講演者として来日したスイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)教授のマイケル・グレッツェルがいた。『博士号を取得したら海外で研究したい。色素増感太陽電池の権威であるグレッツェル先生の下だったらいい』-。そう考えていた村上にとって与えられた来日中の「鞄持ち」という役回りはグレッツェルと親密になり、博士号取得後の所属先の足がかりを掴む好機と捉えられた。
「彼が君のところに行きたいと言っているのだけど、どうだろう」
口を開いたのは宮坂だ。宮坂は村上の意向を事前に聞いており、優秀な学生だった村上に箔を付けさせたいという親心もあった。そこで学会などを通して既知の仲だったグレッツェルに、切り出したのだった。
「そうだな。丁度、ポストがあると思うよ」
間もなくグレッツェルは答えた。
『決まった…のか?』-。あまりにあっけなく、契約書もないやりとりに村上の脳裏には疑問が浮かんだが、2年後の所属先はそうして決まった。
村上は小学生のころ、石油を代替する新エネルギーの開発を目指す国家プロジェクト「サンシャイン計画」に関するテレビ番組を観て、太陽エネルギーや人工光合成に関心を抱いた。そのころには漠然と研究者になる将来をイメージしていたという。その後、桐蔭横浜大学に進学し、医用材料を専門とする川島徳道に師事して博士課程に進むころ、小学生の時に関心を抱いたテーマを追求できる機会に巡り会う。富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)を辞めた宮坂力が教授に着任し、色素増感太陽電池の研究を始めたのだ(#2)。
そこで村上は宮坂の下で研究をしたいと考え、川島に相談する。すると川島は川島研と宮坂研の両方で研究する「二足のわらじ」を勧めてくれた。そして午前は川島研で活性酸素に関わる研究に、午後は宮坂と色素増感を用いた光蓄電型太陽電池「光キャパシタ」の研究に、それぞれ取り組む日々が始まった。
「2つの研究室の掛け持ちは決して大変ではありませんでした。研究が面白かったですからね」
「二足のわらじ」を履いていたころ、村上は川島にもう1つ、重要な相談をする。
「ドクター(博士号)を取ったら海外に行きたいのですが、どこがいいでしょうか」
「それはもう、EPFLに決まっているだろう。最高にいいところだぞ、避暑地で。色素増感太陽電池の権威もいるだろ」
川島の明快な回答に、村上は「確かに」とうなずいた。そしてEPFLのグレッツェル研に行きたい意向を宮坂に伝えると、実際にグレッツェルに働きかけてくれたのだった。
村上は「鞄持ち」の日から約1年後の04年、グレッツェル研を初めて訪ねた。米国とスペインでそれぞれ開かれた国際会議に、宮坂と出席した帰りに一人で立ち寄った。解消したい不安が2つあったからだ。
「研究室の雰囲気を前もって知りたかったですね。研究者同士がギスギスしている所だったら嫌じゃないですか。それとタクシーの中のやりとりで本当に所属が決まったと理解していてよいかを改めて確認したくて」
後者の不安は杞憂に終わった。グレッツェルに念押しすると「大丈夫だと言っているだろう」と笑われた。一方、前者の不安は好印象に変わった。多様な国籍の若い研究者50-60人が席を並べており、互いに切磋琢磨しているように感じられた。
その若い研究者たちの中に1人、日本人がいた。06年の電気化学会第73回大会の会場で小島陽広に声をかける(#10)前の伊藤省吾である。
村上のグレッツェル研への所属が契約書のない「口約束」で決まったように、伊藤がグレッツェル研に所属した経緯もまた面白い。そこで、ペロブスカイト太陽電池の物語において重要な舞台となるグレッツェル研の雰囲気を含めてそれを紹介したい。伊藤は、グレッツェル研に所属した経緯を語るとき、むしろ分厚い「契約書」を思い出す。
『なんだこれ』-。02年12月ころ、伊藤の自宅に分厚い封書が突然届いた。中にはフランス語で書かれた3㎝ほどの厚みを持つ冊子が入っていた。2ヶ月前に茨城県つくば市で会ったインド人研究者、ラビ・チャンピから届いた封書で、その冊子の文字を読み進めると、どうやらそれは雇用契約書のようだった。
伊藤は当時、地球環境産業技術研究機構(RITE)で光触媒をテーマに研究しており、つくば市ではそれに関するシンポジウムに出席していた。その会場で、スイス連邦工科大学ローザンヌ校のグレッツェル研に所属するラビ・チャンピが発表した「光触媒による水の浄化」の研究が目にとまり、本人に声をかけた。
「面白い研究をしていますね。…ところで、もしタイミングが合ったらポスドクで雇ってもらえないでしょうか」
半分冗談で口にした採用要請だったが、幸いなことに前向きに考えてくれていたのだ。
そうして伊藤はRITEを退職し、03年2月に博士研究員としてグレッツェル研に着任する。実はグレッツェル研を訪ねるのは2度目だった。1度目は大阪大学の柳田祥三教授の下で色素増感太陽電池を研究していた2年ほど前だ。グレッツェルは当時、色素増感太陽電池で変換効率10%を超える成果を発表しており、それを再現したくて1週間滞在してレクチャーを受けた。再訪問した伊藤をグレッツェルは覚えていた。伊藤が振り返る。
「どうやら私が来ることを知らなかったらしく、久しぶりに顔を合わせたときは『なぜここにいるのか。しかも光触媒の研究で』と非常に驚いていました」
その後、光触媒の研究プロジェクトは1年で終わるが、伊藤は色素増感太陽電池の研究者として残りたいとグレッツェルに相談し、半年の雇用契約を得る。それから「米国やインド、中国、韓国など世界中から多様な研究者が集まり、ときに研究テーマを奪い合う弱肉強弱の場所」で約2年半、研究を続けた。
「研究室で〝生き残るため〟にとにかくよく実験しました。他の研究者と比べると、相当な長時間労働で。その結果として非常に性能がよい酸化チタン電極を作製できました。また、研究開始当初にグレッツェル先生にいくつか課題を提示されたのですが、それらはパラメーターを少し動かす程度のつまらないものだったので、自ら課題を設定して取り組み、より意味のあるデータを提示しました」。
ちなみに村上はグレッツェルの印象を「アジア人に厳しいが、日本人にはそうではない。おそらく色々と指示しなくても自ら動くからでしょう」と語っている。そうグレッツェルに印象づけたのは伊藤かもしれない。
さて、05年4月にグレッツェル研に着任した村上はカーボンを使った電極の作製をテーマに研究を始め、伊藤の助けも借りながら半年ほどで現地の生活に慣れていく。グレッツェル研の同僚5―6人とランチを共にしたり、お酒を交わしたりすることも日常になっていった。
その同僚の中に、背の高いベジタリアンの研究者がいた。英国ケンブリッジ大学から博士研究員として留学していたヘンリー・スネイスだ。スネイスは色素増感太陽電池の電解質を液体から固体に変える研究をしていた。村上とスネイスはほぼ同じ時期にグレッツェル研に所属し、時にお酒を交わしながらそれぞれ2年間のポスドク生活を終えて母国に戻る。
村上にとってそのころのスネイスは「同僚のワンオブゼムだった」。しかし、やがて特別な存在に変わる。
証言者:村上拓郎、伊藤省吾、宮坂力
主な参考・引用文献:『大発見の舞台裏で!―ペロブスカイト太陽電池誕生秘話』(宮坂力)『日経サイエンス・2023年2月号』