バブル崩壊の渦中からクラウドサービスの立役者へ
インターネットでつながった遠くのサーバーコンピューターを活用し、企業や個人の利用者がパソコンやスマートフォンでさまざまなサービスを受けられる技術や仕組みである、クラウドコンピューティング(Cloud Computing)。2006年にグーグルはクラウドの仕組みを使い、SaaS(サービスとしてのソフトウェア)の形で、「Google Apps for Business(G Suite)」の提供を開始しました。
株式会社サテライトオフィスを立ち上げた原口豊氏(現・代表取締役社長)は08年にGoogle Apps の国内販売代理店第1 号として「GoogleEnterprise Partner」の契約を結び、顧客のニーズに対応する機能をアドオン(拡張機能)ソフトウェアとして次々に開発し、リリース。リーズナブルな料金で、しかも痒いところに手が届くようなアプリケーションソフトウェアをどこにいても使えるようにしました。
原口社長は97年に自主廃業に追い込まれた山一證券(その後05年に解散)のシステム部門出身者。当初から独立の野心を持っていたわけでもなく、名門企業からいきなり放り出され、不安を抱えながらもビジネスを立ち上げました。それが紆余曲折を経て米グーグルのビジネス向けクラウドサービスに出会い、成功の糸口をつかみます。
どん底の時にいかに先の変化を見据えて戦略を練り、次のブームに先んじるか、あるいは強みを発揮できる独自のマーケットを見つけられるか―。
変化の激しい時代を生き抜き、逆境をばねに成功を引き寄せる術についてまとめた書籍『雲海を翔る クラウドベンチャー“サテライトオフィス”の成長力』(日刊工業新聞社編)の第一章から抜粋し、紹介します。
システム部門は「24時間戦えますか」
時はバブル経済のまっただ中。1990年3月に東京理科大学工学部経営工学科を卒業した原口豊は同年4月、意気揚々として当時4大証券の一角を占めていた山一證券に入社し、情報システム部に配属された。
大型の汎用コンピューター(汎用機)に代わって、企業などへのパソコンの導入が急速に進んでいった時代。ウィンドウズパソコンはまだ市場に出ておらず、コマンドベースの基本ソフトウェア(OS)である「MS-DOS」全盛で、企業向けでもグループウェアの「Lotus Notes(ロータスノーツ)」などが幅を利かせていた。
理系とはいえ、原口は大学でそれほどパソコンに馴染みがあったわけではない。それが山一に入るとパソコンを1人1台割り当てられ、「さすが大企業は違う」と期待に胸を膨らませ、「早いところ、エクセルとワードを覚えよう」と心に決めた。
そもそも、株にそれほど興味があったわけではない。そんな彼が、なぜ山一證券に入社したのか? 実は原口は千葉県船橋市の出身。実家からわずか数百メートルのところに山一のセンター(研修所)があり、幼い頃から山一のブランドに親しみを感じていた。
加えて1980年代後半から、銀行の第3次オンラインシステム構築が始まり、金融機関はそのほとんどが情報システム部門で理系人材を求めていた。原口自身も情報システムの仕事に魅力を感じていたし、前述のように山一の拠点に自宅が近く馴染みがある。しかも給料がいい。
何度も繰り返すが、バブルの絶頂期である。日本全体で新卒者を取り合う、空前の売り手市場。大企業はどこも大量一括採用を行っていて、原口の同期も1000人ぐらいいた。今では想像することさえ難しいが、会社の人事部が東京ディズニーランドの近くにある人気ホテル、シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル(千葉県浦安市舞浜)の1フロアを全部借り上げ、新入社員研修を行っていたほどだ。
当時の山一證券は株式、債券、投資信託、公社債投信のMMF(マネー・マネジメント・ファンド)が事業の柱。原口は情報システム部門に配属され、子会社の山一情報システムに出向することになった。そして会社が破綻するまで、その子会社に所属していた。
給料は良いと聞いていたが、入社してみて早速バブル景気に驚くことになる。部長はじめ中間管理職クラスへのボーナス支給は年4回。入社した時にも、周りでは「30歳前に年収1000万円を超える」という話があちこちから漏れ聞こえてくる。これはすごいぞと思っていた矢先、入社翌年の1991年にバブルが弾けた。
天地がひっくり返るとは、このことだろうか。給料は上がらないし、会社の業績も落ちていく。聞いていたのとは大違いで、バブルの恩恵にあずかることもあまりなかった。しかも、情報システム部門は第3次オンラインシステム構築のため、他の部門と違って年がら年中忙しい。平日でも午前2時、3時の退社は当たり前。土・日曜日も全部出社した。そのちょっと前に話題になったテレビCMのキャッチフレーズ「24時間戦えますか」を地でいくようなブラック企業ぶり。通常勤務の月150時間に加え残業は最大で月350時間にも及び、残業代が給料を上回ることもしばしばだった。
実家からの電話で知った自主廃業
ところが、事態はさらに暗転する。野村證券、大和證券、日興證券とともに、日本の4大証券の一角を担っていた山一證券だが、バブル崩壊による損失の先送りで巨額の簿外債務が発覚。1997年11月には、自主廃業を表明という最悪の事態にまで追い込まれてしまう。
経営や営業の現場から遠いところにいた原口は、ひたひたと迫り来る会社の危機をつゆほども知らず、情報システム部門で相変わらず忙しい日々を送っていた。汎用機システムの要件定義、プログラム開発、運用テスト…などに明け暮れ、自主廃業のことも会社がつぶれる当日までまるで知らなかった。
しかも自分の会社の経営破綻を知ったのは、実家からの1本の電話。1997年11月24日のことだ。受話器を取るなり、電話の向こうにいる母親が言った言葉は「すぐNHKニュースを見なさい」。テレビをつけると野澤正平社長(当時)が自主廃業決定について記者会見をしていて、テレビカメラを前に号泣しながら頭を下げていた。
「私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから」という、バブル崩壊を象徴する有名なシーンを前に、原口は頭が真っ白になった。よもや会社がつぶれるなどとは想像もしていなかったからだ。
証券会社に勤める身とはいえ、原口は株式に詳しいわけでも、自社の経営に興味があったわけでもなかった。自主廃業を発表する1年前の山一の株価は3000円。1週間前には額面の50円にまで下落していたが、それでもおかしいとは感じなかった。それどころか、ずいぶん手頃な値段になったので、呑気にも「自社株を買い増そうかな」と思っていたくらいだ。
自主廃業は、倒産した会社の事業の存続・再生を目指す会社更生法と違って、会社そのものが存在しなくなってしまう。今なら新しい職を見つけて別の会社に転職ということになるのだろうが、その当時、転職はあまり一般的ではなかった。企業はどこも終身雇用を制度化していた半面、中途採用をあまりしていなかったのだ。ちょうど次男が生まれた頃で、このままでは家族4人、路頭に迷ってしまう。どうやって食べていったらいいのか…。何度も何度も思い悩んだが、良いアイデアは思い付かなかった。
自主廃業が決まった後でも、1000人いた同期の間では当初、「被害者意識も悲壮感もあまり感じられなかった」と原口は言う。その理由は、「みんな、会社が何とかしてくれるだろうと思っていたから」。それが次第にどうにもならないと分かると、野村や大和といったライバルの大手証券会社に自力で転職する者も出てきたが、従業員の大多数や店舗は米メリルリンチが設立したメリルリンチ日本証券に移籍・譲渡された。
原口のいた山一情報システムの社員も日本フィッツという会社に移籍し、その後、日本フィッツはCSK(現SCSK)に買収され、その子会社となった。その直前には、会社の隅々で「君はどっちの会社に行く?」「こっちに来いよ」といった会話が交わされ、殺伐とした雰囲気だったのを原口は覚えている。
手持ち資金150万円で起業
さて、自分はこれからどうするか。情報システム部門で原口は、米ユニシスの汎用コンピューター「UNIVAC(ユニバック)」を使い、COBOLやFORTRANといったプログラミング言語でプログラムを組んでいた。マイクロソフトの「Excel」「Word」「Access」、それにLotus Notes といったパッケージソフトウェアを使いながら、社内業務の生産性改善にも努めていた。
システムエンジニア(SE)として何よりうれしかったのは、こうした超大規模システムに間近に接しながら、それを活用するための知識やチームづくりのノウハウを身につけられたこと。新しい技術に対する好奇心も、いつの間にか養われていった。それが現在のサテライトオフィスを作る土台ともなった。
自分は会社でも異端児だったし、他の会社に拾われるのではなく、自分で新しいことをやりたい…。こうして原口は独立への思いを強めていくが、とはいえ会社を立ち上げることが不安で不安で、泣きたくなったのも一度や二度ではない。心配なのはまず開業資金。貯金の大半は会社の株を買うのに使ってしまい、買った株は持株会が持っている。つまり山一が廃業すれば株式の価値はゼロ。頼りは銀行預金の150万円しかない。
それでももはや選択肢はないと追い詰められ、起業を決断する。千葉県船橋市のワンルームマンションを借り、1998年7月にサテライトオフィスの前身となる「有限会社ベイテックシステムズ」を立ち上げた(1999年に株式会社化)。手持ちの150万円と、大学の先輩が紹介してくれたエンジェル投資家に300万円を出資してもらい、合計450万円の資本金でスタートした。メンバーは自分を入れてわずか3人。1人は原口の実妹の光子、もう1人は山一時代の新入社員の同僚だった。
(「雲海を翔る クラウドベンチャー“サテライトオフィス”の成長力」p.18-24より抜粋)
<書籍紹介>
書名:雲海を翔る クラウドベンチャー“サテライトオフィス”の成長力
編者名:日刊工業新聞社
判型:四六判
総頁数:180頁
税込み価格:1,650円
<販売サイト>
Amazon
Rakuten ブックス
日刊工業新聞ブックストア
<目次(一部抜粋)>
序章 2020年度優秀経営者顕彰で「優秀経営者賞」 ―独自のビジネスモデルを確立―
第1章 山一破綻 ―ワンルームマンションからのスタート―
第2章 クラウドと出会う ―リモートワーク時代を先読みし、社名をサテライトオフィスへ―
第3章 雲の向こうへ ―急拡大するクラウド市場が主戦場―
第4章 グローバル展開 ―ベトナムを拠点に東南アジアへ―
第5章 さらなる飛躍 ―株式公開を見据え、新規事業も模索―
第6章 いかに「とんがるか」が小規模企業の生きる道 ―代表取締役・原口豊インタビュー―