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「G-SHOCK」を作った男の頭の中とアイデア発想の極意
連載・発想のスイッチの入れ方 #01/カシオ計算機・伊部菊雄
世界で累計1億個以上を売り上げ、今なお成長を続ける腕時計「G-SHOCK」。それはカシオ計算機に入社して当時6年目の社員だった伊部菊雄さんが1981年に書いたたった1行の提案書から生まれた。「落としても壊れない丈夫な時計」―。この提案書はなぜ生まれたのか、そしてかつてない耐衝撃性を実現する構造アイデアはどのように発想したのか。G-SHOCK開発の経験が反映された現在の自身のアイデア発想法とともに伊部さんに聞いた。(聞き手・葭本隆太/写真・高山基成)
高校の入学祝いとして父に買ってもらい、社会人になってからも大切に使っていた腕時計が(仕事場である)羽村技術センター(東京都羽村市)の床に落ちてバラバラになったことがきっかけです。ショックではあったのですが、「時計は落とすと壊れる」という常識を目の前で体験し、「あぁ本当に壊れるのだ」という感動が残りました。その感動を1行に落とし込み、会社に出したら世の中にない(製品)ということで開発にゴーが出ました。
―当時の提案書には構造案などを盛り込む欄がありますが、なぜ1行だけで出したのでしょうか。
理屈ではなく(目の前で実際に壊れたことの)感動が大きくて何も考えずに「丈夫な時計はいいな」という単純な思いで出しました。企画が通ったと聞いて初めて我に返った感じです。(1行で出した提案書は)その一回きり。当時は設計担当として技術提案を積極的にするよう指示を受けていました。その中で基礎実験をしてスケジュールをしっかり立てた提案書を出しています。(そう考えると)G-SHOCKは別次元でした。
―そのころの腕時計は薄型化を推進する時代だったと伺います。「丈夫な時計」はそれに逆行する製品になると思うのですが、ターゲットのイメージはあったですか。
羽村技術センターの目の前で道路工事をされていた5人の作業員たちです。削岩機などを扱うと壊れるからだと思うのですが、誰も腕時計をしていなくて不便だろうと思いました。彼らのような人たちに絶対に役立つはずという強い思いがありました。ただ、それを明確にしたのも企画が通った後でした。
―腕の高さをイメージして「落としても壊れない」を実現する場合は1階の高さでも十分だと思うのですが、なぜ3階だったのでしょうか。
1階の高さではインパクトがないと思いました。そこで自分の仕事場があった3階のトイレから下をのぞいてその高さにインパクトを感じ、後先考えずに実験を始めました。ただ、(どれくらいの厚みのあるゴムを貼り付けたら壊れないかを)実験した結果(落下の衝撃に耐えられる製品は時計に巻いたゴムの厚みで)ソフトボール大になってしまい、自分がとんでもない提案をしたと気付きました。
―それから小型化をどのように実現したのですか。
とにかく(ケースカバーやゴムガードリンクなど)五つの部品で衝撃を吸収させようと思い「5段階吸収構造」を考えました。これでG-SHOCKの原型サイズにはなりましたが、電子部品がたった一つだけ壊れる現象に陥りました。液晶を強くするとコイルが切れ、コイルを強化すると水晶が割れるようなモグラたたき状態になり、にっちもさっちもいかなくなりました。自分の中では99%無理だという状況に追い込まれました。
そこで自分が納得できるあきらめ方を探しました。それは月曜から日曜まで「7日間×24時間」解決策を考え続けて出なければあきらめる方法です。日曜に後片付けをして週明けの月曜には(無謀な企画を提案して迷惑をかけた責任について)会社におわびし、火曜に辞表を出す計画も作っていました。(それでも解決策は出ず)土曜日には「寝なければ朝は来ないので起きていればよい」などとも考えました。しかし、その日も疲れて寝てしまい日曜の朝がきても何も浮かんでいませんでした。
―解決策がひらめいたきっかけは。
目の前の小さな女の子がついていたボールでした。ベンチでそれをぼおっと見ていた時に頭の中で裸電球が「ピカッ」と突然光りました。ボールの中に時計の大事なエンジン部分が浮いて見え、時計の小さな空間の中に浮いたに近いような状態を作ればよいと考えました。瞬時に点で支える構造が浮かびました。
―なぜその時にその発想が浮かんだのでしょうか。
まったくわかりません。ボールだったからなのか別のものでも浮かんでいたのか。数カ月間頭が爆発するぐらいに考え、窮地に追い込まれた状況が続いたことが「ピカッ」につながったのかもしれません。ひらめいたという経験は他にもあるのですが、頭の中の電球が光ったのは初めてでその後にもありません。「寝なければ朝は来ない」と考えるほど追い込まれる精神状態は(何度も)経験したくないですけどね。
―実際にその解決策がうまくいったのですね。
月曜に実験したら案の定でした。ただ、理解できないのは日曜の午後は会社に戻って実験をせずにルンルン気分で自宅に帰っているんです。解決策が浮かんだ瞬間に(自分の中で絶対にうまくいく)確信があったのかもしれません。あとは自分にはそれ以上の解決策は思いつかないという考えがあったのだと思います。
―追い込まれた状況が続く中でも挑戦を持続できたモチベーションはどこにあったのですか。
「1行の重み」と「役に立つ」の2点しかありません。よくネットから情報を持ってきて美辞麗句を並べた(部下などの)きれいな企画書を見ますが、「その企画を一言で言ってほしい」と求めると出ない事例があります。きれいな企画書を作ることに一生懸命になって(本当に必要な)本質がなくなっている。一方、G-SHOCKには(「落としても壊れない丈夫な時計」という)本質がありました。(明確なターゲットとしてイメージした工事作業員という)役に立つ相手がいたことも大きな原動力でした。
―G-SHOCKは米国市場で盛り上がり、日本に逆輸入されブームになりました。その過程をどのように見ていましたか。
客観視していました。(道路工事現場の人などを対象にした)ニッチな商品で売れるとは思っていなかったですし、1行の提案書に対して自分が実現できて十分という気持ちがあり、それで完結していました。
―日本市場では一度ブームが終焉しましたが、大在庫を抱える中で会社は製品として残す判断をしました。
「丈夫である」はいつの時代も通じるコンセプト。それが結果的に残す方向につながったと思います。それから(会社は)G-SHOCKは単なる流行品ではなく、開発ストーリーを持ち「丈夫である」というベースがあって進化を続けている商品だということを理解して買ってもらわないといけないという意識に変わりました。その取り組みの一つが私が開発ストーリーを話すことになるイベント「ショック・ザ・ワールド」です。08年に始まりました。
―「ショック・ザ・ワールド」を含め伊部さんが海外で開発ストーリーを話される際は現地の母国語でなさるのが有名です。なぜ母国語を使おうと考えたのですか。
私がG-SHOCKの開発で学んだことは「Never Never Never Give up(決して・決して・決して・あきらめない)」だと伝えています。その私が(海外でのプレゼンテーションのために)あきらめずに努力できることとして(現地語の使用を)考えました。通訳を介すと私が本当に伝えたい思いを伝えてくれるかは検証できないということもあり、始めました。
これまでに30カ国以上・10言語以上で行いました。(言語は)約4カ月間勉強しますが、本当にきつい。ただ、今では(母国語でプレゼンすると各地で)認識してもらっており、仮に母国語で話さないとなると大変な失礼に当たるのでギブアップができません。
―G-SHOCKはこれからどう進化しますか。
目の前では丈夫であることをベースに最新の技術が入り、進化し続けていますし、これからも新しい技術に対応した商品は出ていきます。一方で私個人は妄想があります。G-SHOCKは地球上の環境には陸でも海でも空でも耐えうる商品が出ていますが、将来は誰でも宇宙に行ける時代になると思います。その環境の中で私と私の友達の宇宙人が手にできる製品が開発できればよいと思っています。
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連載「発想のスイッチの入れ方」を始めます。ビジネスの現場においてアイデアが求められる機会は多いですが、その発想に苦慮される方も多いのではないでしょうか。ではベストセラー商品などを生み出した人たちはどのようにその商品のアイデアを発想したのでしょう。彼ら自身のアイデア発想法などとともに聞きました。ぜひヒントにしてみてください。
なぜ1行だったのか
―G-SHOCKは「落としても壊れない丈夫な時計」という1行の提案書で始まったと聞きました。高校の入学祝いとして父に買ってもらい、社会人になってからも大切に使っていた腕時計が(仕事場である)羽村技術センター(東京都羽村市)の床に落ちてバラバラになったことがきっかけです。ショックではあったのですが、「時計は落とすと壊れる」という常識を目の前で体験し、「あぁ本当に壊れるのだ」という感動が残りました。その感動を1行に落とし込み、会社に出したら世の中にない(製品)ということで開発にゴーが出ました。
―当時の提案書には構造案などを盛り込む欄がありますが、なぜ1行だけで出したのでしょうか。
理屈ではなく(目の前で実際に壊れたことの)感動が大きくて何も考えずに「丈夫な時計はいいな」という単純な思いで出しました。企画が通ったと聞いて初めて我に返った感じです。(1行で出した提案書は)その一回きり。当時は設計担当として技術提案を積極的にするよう指示を受けていました。その中で基礎実験をしてスケジュールをしっかり立てた提案書を出しています。(そう考えると)G-SHOCKは別次元でした。
―そのころの腕時計は薄型化を推進する時代だったと伺います。「丈夫な時計」はそれに逆行する製品になると思うのですが、ターゲットのイメージはあったですか。
羽村技術センターの目の前で道路工事をされていた5人の作業員たちです。削岩機などを扱うと壊れるからだと思うのですが、誰も腕時計をしていなくて不便だろうと思いました。彼らのような人たちに絶対に役立つはずという強い思いがありました。ただ、それを明確にしたのも企画が通った後でした。
電子部品がたった一つだけ壊れる
伊部さんは会社のゴーサインを受け、提案書に盛り込んだ「落としても壊れない丈夫さ」の実現に向けて基礎実験を始める。ただ、羽村技術センターの3階のトイレの窓からコンクリートに自由落下させるという方法で始めた実験はいくつもの課題に直面する。―腕の高さをイメージして「落としても壊れない」を実現する場合は1階の高さでも十分だと思うのですが、なぜ3階だったのでしょうか。
1階の高さではインパクトがないと思いました。そこで自分の仕事場があった3階のトイレから下をのぞいてその高さにインパクトを感じ、後先考えずに実験を始めました。ただ、(どれくらいの厚みのあるゴムを貼り付けたら壊れないかを)実験した結果(落下の衝撃に耐えられる製品は時計に巻いたゴムの厚みで)ソフトボール大になってしまい、自分がとんでもない提案をしたと気付きました。
―それから小型化をどのように実現したのですか。
とにかく(ケースカバーやゴムガードリンクなど)五つの部品で衝撃を吸収させようと思い「5段階吸収構造」を考えました。これでG-SHOCKの原型サイズにはなりましたが、電子部品がたった一つだけ壊れる現象に陥りました。液晶を強くするとコイルが切れ、コイルを強化すると水晶が割れるようなモグラたたき状態になり、にっちもさっちもいかなくなりました。自分の中では99%無理だという状況に追い込まれました。
そこで自分が納得できるあきらめ方を探しました。それは月曜から日曜まで「7日間×24時間」解決策を考え続けて出なければあきらめる方法です。日曜に後片付けをして週明けの月曜には(無謀な企画を提案して迷惑をかけた責任について)会社におわびし、火曜に辞表を出す計画も作っていました。(それでも解決策は出ず)土曜日には「寝なければ朝は来ないので起きていればよい」などとも考えました。しかし、その日も疲れて寝てしまい日曜の朝がきても何も浮かんでいませんでした。
頭の中で裸電球が光った
日曜は予定通り会社に出勤し、午前に後片付けをした。社員食堂が休みだったため外で昼食を取り、仕事場に戻る前に技術センター隣の公園に立ち寄ってベンチに座った。待望の瞬間はその時に訪れる。突然、衝撃を吸収する解決策がひらめいた。―解決策がひらめいたきっかけは。
目の前の小さな女の子がついていたボールでした。ベンチでそれをぼおっと見ていた時に頭の中で裸電球が「ピカッ」と突然光りました。ボールの中に時計の大事なエンジン部分が浮いて見え、時計の小さな空間の中に浮いたに近いような状態を作ればよいと考えました。瞬時に点で支える構造が浮かびました。
―なぜその時にその発想が浮かんだのでしょうか。
まったくわかりません。ボールだったからなのか別のものでも浮かんでいたのか。数カ月間頭が爆発するぐらいに考え、窮地に追い込まれた状況が続いたことが「ピカッ」につながったのかもしれません。ひらめいたという経験は他にもあるのですが、頭の中の電球が光ったのは初めてでその後にもありません。「寝なければ朝は来ない」と考えるほど追い込まれる精神状態は(何度も)経験したくないですけどね。
―実際にその解決策がうまくいったのですね。
月曜に実験したら案の定でした。ただ、理解できないのは日曜の午後は会社に戻って実験をせずにルンルン気分で自宅に帰っているんです。解決策が浮かんだ瞬間に(自分の中で絶対にうまくいく)確信があったのかもしれません。あとは自分にはそれ以上の解決策は思いつかないという考えがあったのだと思います。
―追い込まれた状況が続く中でも挑戦を持続できたモチベーションはどこにあったのですか。
「1行の重み」と「役に立つ」の2点しかありません。よくネットから情報を持ってきて美辞麗句を並べた(部下などの)きれいな企画書を見ますが、「その企画を一言で言ってほしい」と求めると出ない事例があります。きれいな企画書を作ることに一生懸命になって(本当に必要な)本質がなくなっている。一方、G-SHOCKには(「落としても壊れない丈夫な時計」という)本質がありました。(明確なターゲットとしてイメージした工事作業員という)役に立つ相手がいたことも大きな原動力でした。
いつの時代も通じるコンセプト
G-SHOCKは83年に発売された。国内では約10年の売れない期間があったが、米国で先に火が付く。アイスホッケーのパック代わりにG-SHOCKをスティックで打つというCMが注目され、テレビ番組でG-SHOCKの耐衝撃性が検証され、トラックでひいても壊れなかったことが話題を呼んだ。その後に米国で流行の時計として逆輸入され、日本でブームが起きる。ブームは90年代中盤から後半の一時だったが、その後の丁寧なブランディング戦略などによって再成長する。世界年間出荷個数はかつてのブーム時を13年に上回り、以来過去最高を毎年更新し続けている。18年は約950万個に上った。―G-SHOCKは米国市場で盛り上がり、日本に逆輸入されブームになりました。その過程をどのように見ていましたか。
客観視していました。(道路工事現場の人などを対象にした)ニッチな商品で売れるとは思っていなかったですし、1行の提案書に対して自分が実現できて十分という気持ちがあり、それで完結していました。
―日本市場では一度ブームが終焉しましたが、大在庫を抱える中で会社は製品として残す判断をしました。
「丈夫である」はいつの時代も通じるコンセプト。それが結果的に残す方向につながったと思います。それから(会社は)G-SHOCKは単なる流行品ではなく、開発ストーリーを持ち「丈夫である」というベースがあって進化を続けている商品だということを理解して買ってもらわないといけないという意識に変わりました。その取り組みの一つが私が開発ストーリーを話すことになるイベント「ショック・ザ・ワールド」です。08年に始まりました。
―「ショック・ザ・ワールド」を含め伊部さんが海外で開発ストーリーを話される際は現地の母国語でなさるのが有名です。なぜ母国語を使おうと考えたのですか。
私がG-SHOCKの開発で学んだことは「Never Never Never Give up(決して・決して・決して・あきらめない)」だと伝えています。その私が(海外でのプレゼンテーションのために)あきらめずに努力できることとして(現地語の使用を)考えました。通訳を介すと私が本当に伝えたい思いを伝えてくれるかは検証できないということもあり、始めました。
これまでに30カ国以上・10言語以上で行いました。(言語は)約4カ月間勉強しますが、本当にきつい。ただ、今では(母国語でプレゼンすると各地で)認識してもらっており、仮に母国語で話さないとなると大変な失礼に当たるのでギブアップができません。
―G-SHOCKはこれからどう進化しますか。
目の前では丈夫であることをベースに最新の技術が入り、進化し続けていますし、これからも新しい技術に対応した商品は出ていきます。一方で私個人は妄想があります。G-SHOCKは地球上の環境には陸でも海でも空でも耐えうる商品が出ていますが、将来は誰でも宇宙に行ける時代になると思います。その環境の中で私と私の友達の宇宙人が手にできる製品が開発できればよいと思っています。
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