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「リケジョという言葉が嫌いだ」

基礎研究の現場で女性らしい考え方は必要ないし意味もない。
「リケジョという言葉が嫌いだ」

(c) PIXTA

**四本裕子さん(東大大学院総合文化研究科准教授)

 リケジョという言葉が嫌いだ。

 日本の大学で心理学を学び、米国の大学院に留学して視覚に関する数理モデルの研究で博士号を取得した。その後、ボストン近郊の病院や医学部に所属し、核磁気共鳴画像法(MRI)を使って脳の構造や機能の研究を5年ほど続けた。現在は東京大学の理系学科に所属して、ヒトの知覚や行動のメカニズムを脳の神経活動から説明すべく、基礎研究に取り組んでいる。

 私自身は、特に女性であることで困ったことや働きにくいと感じたことはない。少なくとも基礎研究の現場においては、「女性の視点」とか「女性らしい考え方」は、必要ないし意味もない。

 一方で、理系の基礎研究において、女性研究者の数が少ないという事実に戸惑う。女性研究者の数が少ないということは、その分、優秀な人材が他の業界に流れているということである。

 日本の女子学生たちが理系よりも文系に進路を求める傾向は、リケジョなどというジェンダーステレオタイプに基づく言葉にも表れているように、理系分野で働く女性を特別視する日本社会からの影響によるものではないだろうか。

 米国時代の指導教員と、アカデミアにおけるジェンダーについて話した際、リケジョという言葉とその意味について、彼は「そんな差別的な言葉が使われているのか!」と驚いていた。私自身の研究や仕事を取り上げていただく際も、しばしば女性であることを強調される。その言葉の裏に、「珍しい理系の女性」「少数派」という意味が含まれていると感じることが多い。

 自分は研究者として仕事しているだけなのに、いちいちジェンダーを強調されることを不快に感じる。社会やメディアの取り上げ方に含まれる言外の意味が、結果として若い世代の意思決定に影響する可能性は大いにある。別に特別でなくても、キラキラでなくても、凜としていなくても、職業として研究者を選べばよい。

 女性の理系研究者を特別なものとして扱う時代が終わり、興味を持った内容を、自然に自由に追求して、当たり前の選択をした結果が職業となる時代がくることを願っている。

〈プロフィル〉
98年東大文卒。05年米ブランダイス大院博士修了。ボストン大、マサチューセッツ総合病院、ハーバード大、慶大勤務を経て、12年より現職。博士(心理学)
※企画協力・日本女性技術者フォーラム(JWEF)
日刊工業新聞2016年10月18日
明豊
明豊 Ake Yutaka 取締役デジタルメディア事業担当
新聞での本連載企画のタイトルが「凛としていきる・理系女性の挑戦」。また日刊工業新聞では「リケジョ小町」という連載もしている。耳の痛い言葉の数々だが、四本さんのおっしゃっていることはほんとに正論。「理系の基礎研究において、女性研究者の数が少ない」、「優秀な人材が他の業界に流れている」という問題意識はこちら側も同じく持っており、ジェンダーステレオタイプにならないようにいろいろな角度から見ていきたい。

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