ニュースイッチ

愛知の陶磁器産業の性格を決定づけた!?、家康の「竈屋呼び戻し」がもたらしたもの

家康、愛知ものづくり産業の端緒を開く #2陶器産業

家康の施策、二つ目は「竈<かまど>屋呼び戻し」。すなわち、瀬戸窯の復興である。

日本六古窯の一つに数えられる瀬戸窯は、平安末期より国内唯一の人工施釉陶器(灰釉<かいゆう>陶器。鎌倉時代からは鉄釉陶器も)を焼いてきたハイブランド窯だった。ところが室町末期になると、窯元たちが隣国・美濃へと集団移住する「瀬戸山離散」がおこって窯の数が減少、停滞期を迎えた。(織田信長の美濃進出に伴い移動したとされる)

そんな中、慶長15年(江戸初頭)頃から家康は、かつて美濃に移住した窯元たちの瀬戸への呼び戻しを行った(竈屋呼び戻し)。この年より城下町名古屋の建設が始まっており、呼び戻しの目的は城下に供給する日用陶器の生産拠点を設けるためだったという。こうして瀬戸に戻った窯元には、窯場の除地(税金免除)や諸役免除の特権が与えられ、尾張藩の御用窯として保護が加えられた。また、この頃から従来の大窯に代わる連房式登窯という最新式の窯の導入が進み始め、質のそろった陶器を大量生産する体制が整う。以上のように高度な技(人)と最新設備がそろったことで、瀬戸窯は家康の想定を超える規模へと成長、名古屋城下(広義では尾張藩内)にとどまらず、関東地方や東北地方の太平洋側も市場に加わっていった。

江戸中期には、新興勢力の肥前・有田磁器に市場を奪われ、瀬戸窯は再び停滞期を迎えてしまうが、文化年間(江戸後期)になると、その有田の技を移入した染付磁器の生産技法が確立され(磁祖・加藤民吉による)、再復興ののろしがあがる。ここに藩の支援も加わったことで、磁器生産は陶器生産をしのぐ規模となり、瀬戸製品の販路も西日本地方まで広がった。

江戸時代に瀬戸で焼かれた日用陶器類(瀬戸蔵ミュージアム)

明治時代を迎えると、瀬戸窯はさらなる展開をみせる。

当時、国内では西洋化に伴い“木から土”へ建材の置きかえが進んでおり、瀬戸の窯元たちも多彩な建築用陶磁器を実用化した。明治中期より生産の始まった西洋風デザインの本業タイル、染付を施した便器などが代表例である。

また、海外向け日用食器の開発も進んだ。東京出身の実業家・森村市左衛門は、日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)を名古屋に設立し、瀬戸の磁器の技を用いて白磁製ディナーセットの開発に取り組んだ(最終的には欧州の技術を導入して大正時代に製品化)。さらにこの技は工業用陶磁器(機械産業向け)の開発に生かされ、明治後期には日本陶器が送電用高圧碍子<がいし>を、昭和初期には日本碍子(現日本ガイシ)がスパークプラグを、日本陶器が工業用研削砥石を実用化している。

そして戦後、白磁製ディナーセットの技はファインセラミックスの研究にも使われた。以後、愛知の陶磁器産業界では一般消費財から生産財へと主力事業の転換が進むこととなる。まずは昭和40年代、エレクトロセラミックスが実用化されると、県下の関連各社によって、半導体パッケージ、センサー、ヒーターなどの生産が始まった。同50年代には、エンジニアリングセラミックスが実用化され、排ガス浄化フィルター、ベアリング用ボール、機械工具、医療用ポンプ部品などへと展開されている。さらに平成時代になると、バイオセラミックスの研究が進み、人工歯や人工骨などが製品化された。

戦後、愛知の土の技はファインセラミックス製品へと展開(写真はエレクトロセラミックスの事例。瀬戸蔵ミュージアム)

結果として家康は、大市場(大衆)向けの日用品を焼く窯として瀬戸窯を復興した。このことがその後の同窯、ひいては愛知の陶磁器産業の性格を決定づけたのではないか。もし家康が(比較的市場規模の小さい)ハイブランド窯として瀬戸窯を復興したならば、市場規模の大きい建築用陶磁器や工業用陶磁器を事業化するという展開も、ファインセラミックスを実用化して機械産業へと参入するという展開もみられなかったかもしれない。(文=堀部徹哉<富士精工内部監査室室長・郷土史家>)

ニュースイッチオリジナル

編集部のおすすめ