徳川家康の施策「清洲越し」が名古屋にもたらした3つの産業資源
戦国ブームの中、ビジネスの場でもときおり武将の合戦エピソードが話題にされる。しかし、彼らは殺伐とした合戦に日々明け暮れていたわけではなく、平時は地域の発展に力を注ぐ領国経営者だった。戦国乱世を鎮め、太平の世の礎を築いた徳川家康もこの例にもれず、故郷愛知でも多くの施策を打っている。これらは後の起業家たちによって有用な産業資源として活用され、日本を代表する数々のものづくり産業へと結実する。(文=堀部徹哉<富士精工内部監査室室長・郷土史家>)
清洲越し~木工産業の発展
今日の愛知ものづくり産業へとつながる家康の施策、その一つ目は「清洲越し」である。
家康は江戸幕府を開いた後、大坂城(豊臣氏)包囲網強化と水害対策のため、それまでの尾張の主城である清洲(愛知県清須市)に代わる新城の築城と遷府を計画する。この際に選ばれたのが熱田台地のへりに位置する名古屋で、慶長15年(江戸初頭)に築城と城下の町割りが始まった。慶長17年頃から数年がかりで遷府が行われ、6万の人、100の寺社、67の町がまるごと清洲から名古屋へと移住した。
この清洲越しをきっかけに、三つの重要な産業資源が名古屋にもたらされた。一つ目は“人”。普請を請け負った西国大名が領国から招いたり、清洲から移住してきたりした職人たちである。二つ目は“素材”。初代尾張藩主・徳川義直が父・家康から拝領した信濃の木曽山(良質な木材)である。三つ目は“インフラ”。木曽の木材を運搬するために開削された運河・堀川と木材管理のために設営された白鳥貯木場である。こうして名古屋に木の技(木材を削って諸製品をつくりだす技)が成立し、家屋、橋梁<きょうりょう>、水道施設など城下のインフラ整備が進んでいった。
やがてこの技は日用品製作にも展開され、庶民生活を支える製品が多数誕生している。寺請制度の確立により必要となった仏壇仏具、生活水準の向上に伴い需要の高まった箪笥<たんす>や曲物(桶や樽)、芸能文化の発展とともに普及をみた和楽器(三味線や太鼓)などである。ここで注目したいのは、江戸後期以降、木を削る技が専門業者(職人)だけでなく、尾張藩士の内職(職芸)としても蓄積されたこと。その結果、ものづくりの担い手が広く育ち、後に近代的な諸産業が成立する素地となった。
明治時代を迎えると、名古屋(愛知)に根づいた木の技は、起業家のアイデアのもと、近代的な製品づくりへと展開される。
例えば西洋楽器。三味線製作を職芸とした尾張藩士出身の鈴木政吉(鈴木バイオリン製造)によりバイオリン(明治中期)やマンドリン(明治後期)が、名古屋の明笛奏者・森田吾郎により大正琴(大正時代)が、名古屋の玩具業者・加藤庄太郎らによりトイピアノ(昭和初期)が生み出された。
また、明治時代の機械製品とは、フレームやボディーには木材を、ギアやシャフトといった可動部品には鉄材を使った木鉄混製が主流だった。こうした分野にも木の技は展開され、明治中期には、名古屋初の時計工場・時盛社による西洋時計(ボディに木曽ヒノキを使用)、国内初の民間鉄道車両会社・日本車輛製造による鉄道車両(ボディに木曽ケヤキを使用)、静岡・湖西市出身の発明家・豊田佐吉による動力織機などが誕生している。
あるいは明治末期、名古屋の木桶職人・浅野吉次郎によって合板(べニア板)が開発され、洋風家具や洋楽器の素材、国産航空機のボディー材やプロペラ材などとして使われた。戦後は名古屋の実業家・正村竹一(正村商会)が考案したパチンコ台のボディー材にもなっている。
名古屋が国内有数の大都市となったこともあり、これまで清洲越しは、家康の手がけた都市建設の成功例の一つとして評価されることが多かったように思う。一方で、これをきっかけに複数の地場産業が育ち、これらのノウハウが後の国内基幹産業(機械分野)に展開されたという事実も見逃せない。こうした点をふまえると、家康が日本の産業史上に刻んだ功績の一つという評価も必要であろう。