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【ペロブスカイト太陽電池誕生】episode12 誕生

東京大学大学院の博士課程に進んだ小島陽広は変換効率や安定性のさらなる向上に挑む。そして2009年にペロブスカイト太陽電池に関する初の論文を世に出す。(敬称略)

「これは使える」ー。東京大学大学院の博士課程に進んだ小島陽広は、桐蔭横浜大学の宮坂研で目当ての溶媒をようやく見つけた。小島は太陽電池に使うペロブスカイト膜を作るために2つの化合物を研究していた。黒色をした「ヨウ化鉛メチルアンモニウム(CH3NH3PbI3)」と、黄色の「臭化鉛メチルアンモニウム(CH3NH3PbBr3)」だ。黄色の化合物は、溶かせる溶媒が論文で紹介されていたが、小島の本命は黒色の化合物だった。吸収する光の波長が広いといった物性がすでに報告されており、変換効率が向上するだろうと考えられた。

ただ、いろいろな溶媒を試しても、溶けてくれずに使えない。そうした中で見つけた1本が「γ-ブチロラクトン」だった。宮坂研では光発電と蓄電の機能を一体化させた「光キャパシタ」を研究しており、そのために揃えていた溶媒だった。

「宮坂研がいろいろな研究テーマを持っていたからこそ、見つけられた溶媒でした」

化合物を溶かす溶媒が見つけられたら、今度はできたペロブスカイト膜を溶かさない電解液の探索だ。小島にとって博士課程の3年間はそうして最適な溶媒や電解液の組成を探索し、実験を積み重ねて変換効率と安定性を高める時間だった。

その期間においては自分の研究に自信が持てない時期もあった。例えば電解質の固体化だ。ペロブスカイトは電解液に溶けてしまう安定性のなさが大きな課題だった。それを解決するために電解質の固体化は不可欠だと小島は認識していた。だから挑戦するのだが、うまくいかなかった。2008年にハワイで開かれた電気化学に関わる国際会議「PRiME2008」で固体化した実験結果を発表したものの、変換効率は1%に満たなかった。

「電解質の固体化の研究は学会の発表止まりで、論文にしませんでした。電解液を使ったものの変換効率を超えていたら論文にしていたでしょう。今思えば、博士課程を無事に終えられるだろうかというプレッシャーがあり、自分に自信を持てない時期でした」

それでも、論文をまとめる頃には、変換効率が3.8%まで上がっていた(電解質は液体)。

後に電解質の固体化に成功し、変換効率が10%を超えて研究が活発になるペロブスカイト太陽電池の歴史を今振り返ると、3.8%という変換効率は「まだまだ低かった」と評価される。09年当時の色素増感太陽電池の最高効率(約11%)と比べても、確かに見劣りはする。

ただ、小島の認識は違った。小島は色素の代わりに別の材料を用いた太陽電池の分野において、どの水準まで変換効率を高められるかをテーマに据え、関連の論文を読み漁っていた。当時、光を吸収する材料として高分子や量子ドットなど色素以外を最適と考えて研究するジャンルがすでに確立しており、硫化鉛などを使ったものが3%程度で最高効率だったという。それが、小島の目標だった。だから、色素以外の材料を使って実現した3.8%という変換効率には達成感があった。

「シリコン太陽電池の変換効率もいきなり25%が出たわけではありません。原理が考案された当初は6%程度でした。色素増感太陽電池も7.1%です。その中で最初に出した約4%は決して悪い数字ではないと考えていました」

手島健次郎がその研究成果について振り返る。

「研究を始めた頃に比べれば、よくここまで上がったという印象でした。しっかりしたデータもとれていましたし、これでいい論文が書けるなと思いました」。

宮坂力の評価も同様だった。

「これまで誰も使っていない材料ですから、3-4%という変換効率はよい水準まできたと感じていました」

『より多くの研究者に取り組んでもらうためにはどうすればよいだろう』-。小島は論文の構成を練っていた。ペロブスカイトと太陽電池という二つの技術領域を初めて融合させた成果を正確に残す。宮坂と手島にそれぞれ指導を受けた小島にとって、論文を書く意味はそこにあった。そして、博士課程への進学を決断させるほど高いポテンシャルを感じたペロブスカイトを使った太陽電池について知ってもらい、他の研究者が追試できるようなしっかりしたデータを揃えて提示することを強く意識していた。

「言い方はおかしいかもしれませんが、他の研究者に引き継ぐような気持ちでした」

かくして2009年に『Organometal Halide Perovskites as Visible-Light Sensitizers for Photovoltaic Cells(太陽電池用の可視光増感剤としての有機金属ハロゲン化物ペロブスカイト)』と題してペロブスカイトを使った太陽電池の作製に成功したことを伝える論文は完成した。この論文はアメリカ化学会が発行する権威ある学術誌『米国化学会誌』に掲載された。

「博士課程に進学した意味である、責任を持って正しいデータを報告するという目標を達成できました」

さらなる喜びは約2年後にやってくる。

論文を発表した後、海外の研究機関や国内の大学などから作り方の問い合わせは複数来ていた。その中に、韓国成均館大学教授のナムギュ・パクがいた。パクは11年に小島の論文を初めて追試し、電解液の最適化などを進めて変換効率6.5%を実現した。

『こんな電解液の組成があったのか。まだまだ詰めるべきところがあったな』。博士課程を終えた後、ペクセル・テクノロジーズに入社していた小島は、パクが発表した論文にそう感じた。ただそれ以上に、自身の博士論文に込めた「他の研究者に引き継ぐ」という思いが叶った嬉しさで、心は満たされていた。

次の展開へ

ところで、桐蔭横浜大を舞台にしたペロブスカイト太陽電池誕生の物語にはまだ少し続きがある。時計の針を2年前に戻す。

09年の終わり頃、桐蔭横浜大学である会合が開かれていた。主催は、同大専任講師の村上拓郎と英オックスフォード大学講師のヘンリー・スネイスだ。二人は科学技術振興機構(JST)と英国工学・物理科学研究会議(EPSRC)の共同支援を受けて研究交流をしており、その一環で実施したワークショップ後に懇親会を開いた。宮坂や小島をはじめとする宮坂研究室やペクセルのメンバーも招かれ、宮坂はそこで『米国化学会誌』に掲載されたばかりの小島の論文を紹介した。

「あの研究は君が手掛けたのかい。おめでとう」。

小島はスネイスに声をかけられたことを覚えている。この懇親会を起点に、ペロブスカイト太陽電池の物語は次の展開に動き出す。

証言者:小島陽広・宮坂力・手島健次郎・村上拓郎
引用・参考文献:『大発見の舞台裏で-ペロブスカイト太陽電池誕生物語』(宮坂力)
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