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今日、直木賞!直木三十五の知られざるベンチャー精神

第163回の直木賞が15日、発表される。多くのビジネスマンは、賞の名が作家、直木三十五(さんじゅうご)から取られた歴史は知っていても、彼がベンチャー精神あふれる実業家だったことを知る機会はおそらく少なかったのではないだろうか。

昭和5年(1930年)、直木は幕末の薩摩藩で起きたお家騒動をテーマにした「南国太平記」で一躍人気作家になる。昭和9年(1934年)に43歳でこの世を去るが、作家として小説を量産し始めるのは「南国ー」を世に出す前年から死ぬまでの5年ほどだ。

なぜ、晩年になって作品が増えたのかというと、それまでは、作家業より実業への関心が高かったからだ。原稿一枚いくらの売文生活を送る気はなく、よく言えば起業家精神にあふれていた。言葉を選ばなければ、一発当ててやろう、楽して稼ぎたい気持ちが非常に強かった。

直木は明治24年(1891年)、現在の大阪市中央区で生まれる。早稲田大学入学と同時に上京するも、後に妻となる女性と暮らし始め、授業料を使い込み中退。中退後も親を騙して4年間仕送りを続けてもらうも、無事に卒業したことにしてしまったため、働かざるをえなくなる。

とはいえ、就職難の時代でまともな働き口は見つからない。数社で腰掛け程度に働いた後に、大正7年(1918年)、出版社をほぼ同時に2社(春秋社、冬夏社)、仲間と始める。始めるといっても、自分のカネではなく、他人のカネだ。

直木は、無口で愛想がないが、希代の「人たらし」だった。春秋社設立も大学時代の友人が直木の魅力にとりつかれ、誘われた形だ。一銭も出していないのに取締役として参画した。そして、直木は別の友人を誘い込み、資本金をこれまた全て出させて、春秋社の姉妹会社(冬夏社)を立ち上げている。

春秋社では直木が企画した外国人作家の翻訳物は売れ行き順調だったが、派手な生活を好んだ直木は会社のカネまで使い込んで公私混同で豪遊するようになる。当然ながら、仲間の反感を買う。一銭も出資していないのに我が物顔ではたまらない。直木は社を追われ、大正8年(1919年)秋に冬夏社は春秋社と袂を分かつことになる。

冬夏社でも出資者である友人の許可無く、無断で会社の中に別の会社を立ち上げる。今でいう社内ベンチャーのようなものだ。もちろん、これもカネは自分では出していないのだが、文芸雑誌を勝手に出してしまう。友人に唖然とされ、縁を切られる。

余談だが、この友人は後に作家になる。皮肉にも、第二回の直木賞を受賞する鷲尾浩(雨工)である。鷲尾は直木の死後に「直木は、本当に忘恩の徒であった」と書き、酷評している。

その後、関東大震災が発生し、直木は出身地の大阪に戻り、出版社のプラトン社に社員として入社する。この頃はプラトン社で発行する雑誌に小説を書きながら、東京時代に仲良くなった菊池寛が創刊した「文藝春秋」に随筆を定期的に寄せている。

ここから出版社を辞めて、作家道を邁進するかとおもいきや、直木は勃興期にあった映画産業に商機を見いだす。当たれば、実入りが出版業界とは比べものにならないほど大きいことに惹かれたのだ。

当時、映画業界は大手映画会社が強固な配給、興行網を築いていたが、直木は製作主体のプロダクション主義を持ち込もうとした。そして、業界に新規参入していた牧野省三と知己を得て、タッグを組む。ちなみに、牧野の四女の子が俳優の長門裕之、津川雅彦兄弟である。

業界の慣習を打ち破ろうとした直木の発想は時代を先取りしていたが、既存の大手映画会社の壁は厚かった。いかんせん、資本力がない。自転車操業の経営は、じり貧状態に陥る。

不協和音が流れ始め、決定的な出来事が起こる。所属俳優である月形龍之介と牧野の娘が駆け落ちして、直木が月形の肩を持ったことで二人の仲は決裂する。

牧野と直木の遺恨はくすぶり続けた。牧野の息子で自身も映画監督のマキノ雅弘までも自著『映画渡世・天の巻』で直木を「金がほしいだけで何も書かない作家」「タカリ専門の男」「現在も続いている直木賞に、いったいどんな値打ちがあるのかと首をかしげずにはいられない」とこき下ろしている。

2年あまりの映画事業で借財だけが増えた直木に残された道は作家業だった。大阪時代も原稿料で食おうと思えば食えたが出費が多かった。それならば、作家業に専念すればどうにかなるはずでは。東京に再び出た直木が「南国太平記」を世に送り出すのはこの3年後である。

直木の経済感覚には出口を絞る発想はない。使いたいだけ使う。そのためには、入り口を増やせばいいと考える人間だったから、人気作家になっても懐に余裕は無かった。

身に付ける物は高級品志向で、当時としては珍しかった自家用車も菊池寛と共同で所有していた。専属の運転手も雇っていた。酒が飲めないのに料亭に通って、派手に金を使った。気に入った芸者がいれば東京から静岡まで通い詰めた。

昭和7年(1932年)の月収が2000円と本人は記している。庶民の月収が60円から70円の時代だ。それでも余裕がないのだから、いかに使っているかがわかる。書いて書いて書きまくった。新聞の連載小説をいくつか掛け持ちしても平然とこなした。最速で1時間に16枚(400字換算で6400字)書いたというから恐れ入る。

直木は新しい時代を切り開く精神に富んでいたのは間違いない。大正期に出版社を立ち上げ、短い期間とはいえ軌道に乗せ、活字に飽き足らず、映像メディアにも進出した。ただ、アイデアマンではあるものの組織を回す術は持ち合わせていなかった。金銭面も、どんぶり勘定で、最終的に帳尻があえばいいし、あわなかったら、あわなかったで仕方が無い。できないものはできないし、無い袖は振れない。こうした直木の気質を考えれば、事業が上手くいかなかったのも必然だったのかもしれない。だが、幸か不幸か、事業家として成功しなかったことが、直木を作家業に専念させ、後世に名を残すことになった。(文=栗下直也)

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