日本のがん治療が大きく変わる、研究の「現在地」
個別化医療や免疫療法に注目
がん治療の研究が進展している。外科手術や抗がん剤など標準化された治療から、患者の特徴に合わせた治療を選択する「個別化医療」や、患者の免疫を利用してがん細胞を攻撃する「免疫療法」など、次世代のがん治療が注目を集める。日本人の2人に1人ががんにかかると言われる中、これらの研究が進めば、がんの治療のあり方が大きく変わる可能性がある。
現在、いくつかのがんについては患者の遺伝子を調べて遺伝子異常に応じた薬を選択するという治療が行われている。例えば日本人の場合、約50%の肺がん患者にEGFR(上皮増殖因子受容体)遺伝子の変異が生じる。
このタイプのがん患者には、EGFRを狙って細胞増殖シグナルの伝達を阻害する薬剤を使う。こうしたがん細胞特有の分子を治療標的として利用する治療薬は、「分子標的薬」と呼ばれる。大腸がんや乳がんなどですでに薬が開発され、治療に使われている。分子標的薬は患者の遺伝子から、がんのタイプに最適な薬として使うため、治療効果が高い。
さらに近年の研究では、特定のがんに多いとされる遺伝子異常が数%ではあるものの、他のがんでも見られることが分かってきた。そこで、大腸や胃などがんのできる場所によって薬を選ぶのではなく、遺伝子の異常そのものから薬を選択するという新しいアプローチが検討され始めた。
がん患者の数百の遺伝子を一度に調べられる「パネル検査」では、患者の遺伝子異常を基に効果的な治療法を見つけることが期待される。現在は先進医療として、外科手術や抗がん剤といった標準治療で効果のなかった患者を対象に検査が行われている。
国立がん研究センター先端医療開発センターの山本昇新薬臨床開発分野長は、パネル検査によって、「標準治療が奏功せず、検査で見つかった遺伝子異常に適した薬があれば、治験などの治療選択肢が見つかる可能性がある」と指摘する。
さらに、「全遺伝情報(ゲノム)データを長期的に集めることで、新たな標的を見つけ出し、新薬開発つなげることが重要だ」と主張する。現在使われる分子標的薬は種類が限られているため、薬の開発で選択肢を増やすことが求められる。
また東京大学大学院医学系研究科の織田克利准教授らは10月、東大独自のパネル検査「東大オンコパネル」(TOP)を始めたと発表した。TOPでは、一般的に検査するデオキシリボ核酸(DNA)のほか、検査の難しいリボ核酸(RNA)をそれぞれ450以上の遺伝子について調べるため、がんの特徴をより詳しく捉えられるのが特徴だ。
ただ、織田准教授は「治療におけるゲノムの活用はまだ急進的な概念だ。検査結果に基づいて治験を含む治療につなげるために、医療現場の体制作りも重要だ」と話している。
2018年のノーベル生理学医学賞の授与テーマにつながったがん免疫療法。これを実現したのが京都大学の本庶佑特別教授と米国のジェームズ・アリソン博士の研究だ。
両氏は免疫のブレーキ役になる分子「PD―1」と「CTLA―4」をそれぞれ発見した。これらの分子の働きを防ぎ、免疫ががんを攻撃する機能を発揮させる「オプジーボ」や「ヤーボイ」という医薬品の開発につながった。
免疫力を高めてがんを攻撃する研究が難航する中、逆転の発想で免疫を阻害する要素自体を取り除くがん免疫療法が実現した。
本庶特別教授はがん免疫療法の現状を、「感染症でペニシリンが発見されたような段階」に例える。画期的な治療法が誕生したと同時に、一般的な治療として定着するには多くの課題があることを物語る。
がん免疫療法は患者自身の病気に対する防衛能力を引き出す利点があるが、免疫の攻撃力が過剰になってしまえば、副作用が起きてしまう。オプジーボによる治療効果の低い患者もいる。本庶特別教授は現在、細胞内の小器官ミトコンドリアの働きに注目し、薬が効く条件や効果を高める方法を探っている。
免疫細胞自体の研究も注目だ。大阪大学免疫学フロンティア研究センターの坂口志文教授が発見した、過剰な免疫反応を抑える「制御性T細胞」も、がん免疫療法への活用が見込まれる。がん組織内でのみ制御性T細胞の働きを抑えられれば、免疫の働きを活発化できる。
ブレーキの解除だけでなく、免疫反応の攻撃を担う「キラーT細胞」の働きも重要だ。京都大学iPS細胞研究所の金子新准教授らは、がんを安定して攻撃するキラーT細胞をiPS細胞(人工多能性幹細胞)から作ることに成功した。がん細胞からの刺激を特定して受け取る分子を組み込むことで、有効な攻撃ができるようになる。
がん免疫療法には現在、大きく分けて「ブレーキを弱め、免疫を活動しやすくする」「免疫自体の攻撃力を高める能力を確保する」の二つの方法がある。さらに複数の方法を組み合わせることができれば、がん免疫療法がより広く使えるようになる。
【がん研究会がんプレシジョン医療研究センター所長・中村祐輔氏】
―次世代のがん治療のあり方は。
「標準治療により生存率は上がっているが、これは『多くの人にとってベターな治療法』として確立されたものだ。血液検体などの『リキッドバイオプシー』を活用した早期診断に加え、患者個人に合わせた個別化治療と臨床研究を組み合わせ、根底から変えていくべき時期にきている」
―がん免疫療法の位置付けはどう見ますか。
「米国は免疫療法の開発にシフトしている。治験だけでも80種類以上実施していると聞く。免疫療法の最大の価値は、がん細胞だけを攻撃する免疫細胞を活性化する点だ。さらにこの先、がん細胞を見つけるようにデザインしたリンパ球を人工的に作って体内に導入するという方法が、数年内にがん治療の主流となるだろう」
「日本で免疫療法の研究が進まないのは、海外の知見を待っているような状況だからだ。日本人に多いがんは日本で治療法を確立する必要がある。しかし、『エビデンスがない』という理由で新たな使い方をしようとしない。オプジーボは患者本人の免疫が重要だ。標準治療や手術をして患者の免疫が弱まる前に、まずはオプジーボを投与するといった使い方を試すべきだ」
―ゲノムは今後、どのように活用していくべきでしょうか。
「ベストな医療を提供することと、医療の無駄をなくすことの二つの意味でゲノムの活用は重要だ。米国では10年前からゲノムデータを集めてきた。その結果、遺伝子異常を基にした創薬を先取りし、分子標的薬の開発につながった。抗がん剤の多くは効果に個人差がある。日本も、ゲノムの活用で最適な治療の提供が実現できるという信念を持って進めることが必要だ」
(文=安川結野、大阪・安藤光恵)
現在、いくつかのがんについては患者の遺伝子を調べて遺伝子異常に応じた薬を選択するという治療が行われている。例えば日本人の場合、約50%の肺がん患者にEGFR(上皮増殖因子受容体)遺伝子の変異が生じる。
このタイプのがん患者には、EGFRを狙って細胞増殖シグナルの伝達を阻害する薬剤を使う。こうしたがん細胞特有の分子を治療標的として利用する治療薬は、「分子標的薬」と呼ばれる。大腸がんや乳がんなどですでに薬が開発され、治療に使われている。分子標的薬は患者の遺伝子から、がんのタイプに最適な薬として使うため、治療効果が高い。
さらに近年の研究では、特定のがんに多いとされる遺伝子異常が数%ではあるものの、他のがんでも見られることが分かってきた。そこで、大腸や胃などがんのできる場所によって薬を選ぶのではなく、遺伝子の異常そのものから薬を選択するという新しいアプローチが検討され始めた。
がん患者の数百の遺伝子を一度に調べられる「パネル検査」では、患者の遺伝子異常を基に効果的な治療法を見つけることが期待される。現在は先進医療として、外科手術や抗がん剤といった標準治療で効果のなかった患者を対象に検査が行われている。
国立がん研究センター先端医療開発センターの山本昇新薬臨床開発分野長は、パネル検査によって、「標準治療が奏功せず、検査で見つかった遺伝子異常に適した薬があれば、治験などの治療選択肢が見つかる可能性がある」と指摘する。
さらに、「全遺伝情報(ゲノム)データを長期的に集めることで、新たな標的を見つけ出し、新薬開発つなげることが重要だ」と主張する。現在使われる分子標的薬は種類が限られているため、薬の開発で選択肢を増やすことが求められる。
また東京大学大学院医学系研究科の織田克利准教授らは10月、東大独自のパネル検査「東大オンコパネル」(TOP)を始めたと発表した。TOPでは、一般的に検査するデオキシリボ核酸(DNA)のほか、検査の難しいリボ核酸(RNA)をそれぞれ450以上の遺伝子について調べるため、がんの特徴をより詳しく捉えられるのが特徴だ。
ただ、織田准教授は「治療におけるゲノムの活用はまだ急進的な概念だ。検査結果に基づいて治験を含む治療につなげるために、医療現場の体制作りも重要だ」と話している。
がん攻撃の力、薬で引き出す
2018年のノーベル生理学医学賞の授与テーマにつながったがん免疫療法。これを実現したのが京都大学の本庶佑特別教授と米国のジェームズ・アリソン博士の研究だ。
両氏は免疫のブレーキ役になる分子「PD―1」と「CTLA―4」をそれぞれ発見した。これらの分子の働きを防ぎ、免疫ががんを攻撃する機能を発揮させる「オプジーボ」や「ヤーボイ」という医薬品の開発につながった。
免疫力を高めてがんを攻撃する研究が難航する中、逆転の発想で免疫を阻害する要素自体を取り除くがん免疫療法が実現した。
本庶特別教授はがん免疫療法の現状を、「感染症でペニシリンが発見されたような段階」に例える。画期的な治療法が誕生したと同時に、一般的な治療として定着するには多くの課題があることを物語る。
がん免疫療法は患者自身の病気に対する防衛能力を引き出す利点があるが、免疫の攻撃力が過剰になってしまえば、副作用が起きてしまう。オプジーボによる治療効果の低い患者もいる。本庶特別教授は現在、細胞内の小器官ミトコンドリアの働きに注目し、薬が効く条件や効果を高める方法を探っている。
免疫細胞自体の研究も注目だ。大阪大学免疫学フロンティア研究センターの坂口志文教授が発見した、過剰な免疫反応を抑える「制御性T細胞」も、がん免疫療法への活用が見込まれる。がん組織内でのみ制御性T細胞の働きを抑えられれば、免疫の働きを活発化できる。
ブレーキの解除だけでなく、免疫反応の攻撃を担う「キラーT細胞」の働きも重要だ。京都大学iPS細胞研究所の金子新准教授らは、がんを安定して攻撃するキラーT細胞をiPS細胞(人工多能性幹細胞)から作ることに成功した。がん細胞からの刺激を特定して受け取る分子を組み込むことで、有効な攻撃ができるようになる。
がん免疫療法には現在、大きく分けて「ブレーキを弱め、免疫を活動しやすくする」「免疫自体の攻撃力を高める能力を確保する」の二つの方法がある。さらに複数の方法を組み合わせることができれば、がん免疫療法がより広く使えるようになる。
専門家インタビュー「がん治療を根底から変える」
【がん研究会がんプレシジョン医療研究センター所長・中村祐輔氏】
―次世代のがん治療のあり方は。
「標準治療により生存率は上がっているが、これは『多くの人にとってベターな治療法』として確立されたものだ。血液検体などの『リキッドバイオプシー』を活用した早期診断に加え、患者個人に合わせた個別化治療と臨床研究を組み合わせ、根底から変えていくべき時期にきている」
―がん免疫療法の位置付けはどう見ますか。
「米国は免疫療法の開発にシフトしている。治験だけでも80種類以上実施していると聞く。免疫療法の最大の価値は、がん細胞だけを攻撃する免疫細胞を活性化する点だ。さらにこの先、がん細胞を見つけるようにデザインしたリンパ球を人工的に作って体内に導入するという方法が、数年内にがん治療の主流となるだろう」
「日本で免疫療法の研究が進まないのは、海外の知見を待っているような状況だからだ。日本人に多いがんは日本で治療法を確立する必要がある。しかし、『エビデンスがない』という理由で新たな使い方をしようとしない。オプジーボは患者本人の免疫が重要だ。標準治療や手術をして患者の免疫が弱まる前に、まずはオプジーボを投与するといった使い方を試すべきだ」
―ゲノムは今後、どのように活用していくべきでしょうか。
「ベストな医療を提供することと、医療の無駄をなくすことの二つの意味でゲノムの活用は重要だ。米国では10年前からゲノムデータを集めてきた。その結果、遺伝子異常を基にした創薬を先取りし、分子標的薬の開発につながった。抗がん剤の多くは効果に個人差がある。日本も、ゲノムの活用で最適な治療の提供が実現できるという信念を持って進めることが必要だ」
(文=安川結野、大阪・安藤光恵)