【連載】「沖縄 産業の島へ♯01」アジア経済の中心、アジアのゲートウェー
日刊工業新聞社那覇支局開設記念特集より
第2次世界大戦後、沖縄の工業化は製糖から始まった。県民の意向を受け、当時の政府方針を変えさせた立役者は米国民政府の職員だったサムエル・C・オグレスビー氏。県外品の輸入制限など大胆な手法も用いたことで、食品分野を中心にセメントや鉄筋、合板など製造加工業が確立。産業の礎が築かれた。同氏は各方面への折衝や経営者への親身なアドバイスを行い、沖縄の産業発展に尽力し、現在も「沖縄産業の恩人」と呼ばれる。
そして1972年の本土復帰後、沖縄は観光地として地位を高めていく。県外と海で隔てられた沖縄は、温暖な気候や風土などから独特の文化を味わえる土地として、むしろ距離の遠さが強みになった。
一方でその距離は、沖縄の工業発展において障壁になった。原材料や製品の輸送にかかるコストは製品競争力を低下させ、県外市場は文字通り遠かった。
だが、21世紀に入り、状況は大きく変わる。グローバル化の進行と新興国の急速な発展でアジア市場の地図は広がった。2009年に全日本空輸(ANA)が、沖縄県と共同で那覇空港を国際物流ハブ拠点化。日本では南端の沖縄を、アジアにおいては中心と認識を変え、国際航空貨物の中継地点とした。
この那覇空港のハブ拠点化は、政府の沖縄振興策や沖縄県の自立経済実現に向けた施策効果もあり、沖縄で新たなビジネスを生むハブ(基点)にもなっている。沖縄には産業発展において解決すべき課題もある。しかし、飛躍に向けた課題解決と、バイオや医療、モノづくりといった成長分野のビジネスの胎動が各所で見られることは確かだ。
この特集では、アジアに対する日本のゲートウェーとして国内で存在感を強めながら、同時にアジアの中で優位性を高める沖縄経済について見ていく。
(全4回、次回は7月16日に掲載)
そして1972年の本土復帰後、沖縄は観光地として地位を高めていく。県外と海で隔てられた沖縄は、温暖な気候や風土などから独特の文化を味わえる土地として、むしろ距離の遠さが強みになった。
一方でその距離は、沖縄の工業発展において障壁になった。原材料や製品の輸送にかかるコストは製品競争力を低下させ、県外市場は文字通り遠かった。
だが、21世紀に入り、状況は大きく変わる。グローバル化の進行と新興国の急速な発展でアジア市場の地図は広がった。2009年に全日本空輸(ANA)が、沖縄県と共同で那覇空港を国際物流ハブ拠点化。日本では南端の沖縄を、アジアにおいては中心と認識を変え、国際航空貨物の中継地点とした。
この那覇空港のハブ拠点化は、政府の沖縄振興策や沖縄県の自立経済実現に向けた施策効果もあり、沖縄で新たなビジネスを生むハブ(基点)にもなっている。沖縄には産業発展において解決すべき課題もある。しかし、飛躍に向けた課題解決と、バイオや医療、モノづくりといった成長分野のビジネスの胎動が各所で見られることは確かだ。
この特集では、アジアに対する日本のゲートウェーとして国内で存在感を強めながら、同時にアジアの中で優位性を高める沖縄経済について見ていく。
(全4回、次回は7月16日に掲載)
日刊工業新聞2015年07月15日 特集「沖縄 産業の島へ」より抜粋