古代から明治末期までタイムスリップ!古を知る、島根・石見の旅
島根の観光スポットと言えば、真っ先に思いつくのは出雲大社。地味な県だけにあまり知られてないかもしれないが、島根県は東西に細く、出雲大社がある出雲や松江と、石見銀山などがある石見は、言葉も違い、文化も異なる。石見地方は、島根県の中でも、ディープな世界に触れられる観光スポットが多く、中でも、古代から明治末期まで、各年代の歴史に触れることができる名所があるのが特徴。石見でいろいろな時代にタイムスリップできる。
「小豆原埋没林公園」
小豆原埋没林公園は約4000年前の火山の噴火によって埋もれた太古の森を展示している施設で、埋没林は杉や広葉樹が、大規模な火砕流や土石流よって地中に埋没し、密閉されて枯死したもの。中に入ると、10メートル前後の巨木が、数本立っており、それだけで壮観なのだが、聞けば聞くほどすごいのが、この埋没林だ。
展示されている埋没林は、4000年前の木々がほぼそのままの状態で残っており、火砕流や土石流で、一瞬にして森が覆われ、地中深くに封じ込められたことを物語っている。小豆原埋没林公園では現在、7本の埋没林が展示されているが、埋没林が直立状態で残存する幹は世界的にも数例と、非常に貴重だ。
埋没林が発見されたのは、34年前の1983年。水田の区画整理工事の際に発見された。よく分からず切ってしまい、数年放置された後、火山の研究者が地中に埋まる巨木の存在を知り、独自に調査。約4000年前の火山噴火による埋没林であることが判明した。小豆原埋没林公園の周辺には100本以上の埋没林があり、現在、30本を確認しているという。
展示されている埋没林は、10メートルほどの階段で下りると、根元を見ることができる。見た目には現代の樹木と何ら変わらず、4000年前のものと言われなければ、わからないのだが、根元から見上げた埋没林は、正面からとはまた違い、その大きさを感じられる。埋没林は触れることができるので、太古の昔の大自然を、手から感じ取ってみて欲しい。
「辛の崎(大崎鼻)」
「つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる 海石にぞ 深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふ」
飛鳥時代の歌人である柿本人麻呂は、700年代の初めに石見の国の国司として、現在の島根県江津市に赴任し、結婚し、子どもが生まれたとされている。妻子と別れ、上京する際に、その悲しみを詠った歌群「石見相聞歌」が万葉集に残されている。
石見相聞歌には、江津周辺の地名が詠みこまれており、一帯には歌碑がいくつかあって、観光名所となっている。中でも、辛の崎の万葉歌碑は、別れの寂しさを詠った2首の歌が刻まれており、近年、全国から多くの万葉ファンが訪れるという。
辛の崎の場所は、3つの説があったが、1987年に澤瀉久孝京都大学名誉教授が大崎鼻を辛の崎と比定した。同氏の筆跡による建立されたのが、大崎鼻にある歌碑だ。歌は万葉仮名で書かれている。
大崎鼻からは、雄大な海を一望できる。このパノラマを、柿本人麻呂も眺めたかもしれない。江津は、人麻呂が生きた約1,300年前とさほど変わらぬ風景が、今も残されていて、古代の世界にタイムスリップできるのが、魅力の一つだ。
「石見神楽」
石見神楽は、島根県の石見地方と広島県の安芸地方北部を中心に、伝統芸能として受け継がれている、神楽の様式の一つ。豊作・豊漁を願い、疫病を追い払う儀式として舞われたのが始まりで、演目のほとんどが、日本神話などが題材となっていて、神事でありながらも、エンターテインメント性が強いのが特徴だ。
大太鼓や小太鼓、横笛、銅拍子などによる軽快なお囃子に合わせ、金糸や銀糸を織り込んだ、豪華な衣装と表情豊かな面を付けた舞い手が、激しく動き回って演じる。その勢いに圧倒される。衣装は10キログラム以上あるものもあり、大道具や小道具など、道具類も作り込まれている。
演目は古事記や日本書紀など、神話をベースにしたものが約30種類ある。ほとんどが勧善懲悪のエンターテインメント性が強く、ストーリーも明快で、分かりやすい。最近では現代の風潮や流行に合わせた、オリジナルも演目もあるという。
神楽団体は浜田市などを中心に約100団体あり、隣県の広島にも数団体あると言う。かなり完成度の高いので、プロなのだと思っていたら、ほとんどの人たちが本業を別にもっていて、その合間を縫って稽古をし、舞台に立っているのだという。
神楽だけで生計が立つわけでないとのことだったので、伝統芸能の伝承は大変なのかと思いきや、若い人が次々と入ってくるので、後継問題などは全くないという。浜田市は神楽が常に身近にあり、子どもの頃から、見たり、舞ったり、ということが日常的に行われるのだとか。石見神楽をやるのが当たり前という環境の中で、今後も伝統はしっかり受け継がれていきそうだ。
「石見銀山」
石見銀山は鉱山遺跡としては、アジアで初めて登録された世界遺産だ。
石見銀山は、1500年代に鉱脈が発見され、江戸から明治にかけて、銅の採掘が行われてきた。16世紀半ばから17世紀前半の最盛期には、日本の銀が世界の産出量の3分の1を占め、その多くが石見銀山から採掘されたものだったという。
石見銀山には間歩と呼ばれる、銀の坑道が700以上あるとされている。中でも、最大の間歩である大久保間歩は、入り口から約160メートルを公開している。世界遺産登録10周年を機に地下採掘場跡まで延長され、坑内最大の地下空間「福石場」の見学が可能になった。
とにかく坑道の中は真っ暗。あちこちに水たまりがあり、足元も非常に悪い。江戸や明治の時代には電気がないので、ろうそくの細い明かりで作業したのだと言うから驚きだ。掘削は手作業で、一人の作業者が1日で30センチメートル掘り進めればよい方だったという。高所部では、岩壁と岩壁を細い棒を二本渡しただけの足場で移動し、作業していたようで、当時の作業の壮絶さを実感する。
巨万の富を生む石見銀山には、多くの人が働いており、諸説あるものの、最盛期には山の頂上に、集合住宅も建てられ、数万人が住み、山の入り口には、関所もあったという。
石見銀山には、見所や歴史を丁寧に説明してくれる「石見銀山ガイドの会」があり、有料で、案内してくれる。案内してくれたガイドさんによると、「産業遺産の魅力を分かってもらうのはとても難しい」とのこと。確かに暗い穴の中をひたすら歩く石見銀山の価値を、ガイドなしに理解するのは至難の業だと感じた。石見銀山では、産業遺産としての歴史的価値を伝えるため、観光客になるべくガイドを利用するように勧めている。
また、石見銀山の麓に位置する大田市大森町は、銀山とともに発展した街だ。赤瓦と土壁の家が軒を連ね、代官所跡や商家、古民家など、当時の繁栄を伝える町並みが残っている。現在は、趣のある建物をそのまま利用し、古民家のカフェや銀細工のショップなどになっており、石見銀山を観光の前後に立ち寄りたいスポットだ。
太古の自然の奥深さを知る
「小豆原埋没林公園」
小豆原埋没林公園は約4000年前の火山の噴火によって埋もれた太古の森を展示している施設で、埋没林は杉や広葉樹が、大規模な火砕流や土石流よって地中に埋没し、密閉されて枯死したもの。中に入ると、10メートル前後の巨木が、数本立っており、それだけで壮観なのだが、聞けば聞くほどすごいのが、この埋没林だ。
展示されている埋没林は、4000年前の木々がほぼそのままの状態で残っており、火砕流や土石流で、一瞬にして森が覆われ、地中深くに封じ込められたことを物語っている。小豆原埋没林公園では現在、7本の埋没林が展示されているが、埋没林が直立状態で残存する幹は世界的にも数例と、非常に貴重だ。
埋没林が発見されたのは、34年前の1983年。水田の区画整理工事の際に発見された。よく分からず切ってしまい、数年放置された後、火山の研究者が地中に埋まる巨木の存在を知り、独自に調査。約4000年前の火山噴火による埋没林であることが判明した。小豆原埋没林公園の周辺には100本以上の埋没林があり、現在、30本を確認しているという。
展示されている埋没林は、10メートルほどの階段で下りると、根元を見ることができる。見た目には現代の樹木と何ら変わらず、4000年前のものと言われなければ、わからないのだが、根元から見上げた埋没林は、正面からとはまた違い、その大きさを感じられる。埋没林は触れることができるので、太古の昔の大自然を、手から感じ取ってみて欲しい。
平安時代にタイムスリップして万葉集の世界観に浸る
「辛の崎(大崎鼻)」
「つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる 海石にぞ 深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふ」
飛鳥時代の歌人である柿本人麻呂は、700年代の初めに石見の国の国司として、現在の島根県江津市に赴任し、結婚し、子どもが生まれたとされている。妻子と別れ、上京する際に、その悲しみを詠った歌群「石見相聞歌」が万葉集に残されている。
石見相聞歌には、江津周辺の地名が詠みこまれており、一帯には歌碑がいくつかあって、観光名所となっている。中でも、辛の崎の万葉歌碑は、別れの寂しさを詠った2首の歌が刻まれており、近年、全国から多くの万葉ファンが訪れるという。
辛の崎の場所は、3つの説があったが、1987年に澤瀉久孝京都大学名誉教授が大崎鼻を辛の崎と比定した。同氏の筆跡による建立されたのが、大崎鼻にある歌碑だ。歌は万葉仮名で書かれている。
大崎鼻からは、雄大な海を一望できる。このパノラマを、柿本人麻呂も眺めたかもしれない。江津は、人麻呂が生きた約1,300年前とさほど変わらぬ風景が、今も残されていて、古代の世界にタイムスリップできるのが、魅力の一つだ。
市民に根付く伝統芸能
「石見神楽」
石見神楽は、島根県の石見地方と広島県の安芸地方北部を中心に、伝統芸能として受け継がれている、神楽の様式の一つ。豊作・豊漁を願い、疫病を追い払う儀式として舞われたのが始まりで、演目のほとんどが、日本神話などが題材となっていて、神事でありながらも、エンターテインメント性が強いのが特徴だ。
大太鼓や小太鼓、横笛、銅拍子などによる軽快なお囃子に合わせ、金糸や銀糸を織り込んだ、豪華な衣装と表情豊かな面を付けた舞い手が、激しく動き回って演じる。その勢いに圧倒される。衣装は10キログラム以上あるものもあり、大道具や小道具など、道具類も作り込まれている。
演目は古事記や日本書紀など、神話をベースにしたものが約30種類ある。ほとんどが勧善懲悪のエンターテインメント性が強く、ストーリーも明快で、分かりやすい。最近では現代の風潮や流行に合わせた、オリジナルも演目もあるという。
神楽団体は浜田市などを中心に約100団体あり、隣県の広島にも数団体あると言う。かなり完成度の高いので、プロなのだと思っていたら、ほとんどの人たちが本業を別にもっていて、その合間を縫って稽古をし、舞台に立っているのだという。
神楽だけで生計が立つわけでないとのことだったので、伝統芸能の伝承は大変なのかと思いきや、若い人が次々と入ってくるので、後継問題などは全くないという。浜田市は神楽が常に身近にあり、子どもの頃から、見たり、舞ったり、ということが日常的に行われるのだとか。石見神楽をやるのが当たり前という環境の中で、今後も伝統はしっかり受け継がれていきそうだ。
江戸・明治の産業の息吹を感じる
「石見銀山」
石見銀山は鉱山遺跡としては、アジアで初めて登録された世界遺産だ。
石見銀山は、1500年代に鉱脈が発見され、江戸から明治にかけて、銅の採掘が行われてきた。16世紀半ばから17世紀前半の最盛期には、日本の銀が世界の産出量の3分の1を占め、その多くが石見銀山から採掘されたものだったという。
石見銀山には間歩と呼ばれる、銀の坑道が700以上あるとされている。中でも、最大の間歩である大久保間歩は、入り口から約160メートルを公開している。世界遺産登録10周年を機に地下採掘場跡まで延長され、坑内最大の地下空間「福石場」の見学が可能になった。
とにかく坑道の中は真っ暗。あちこちに水たまりがあり、足元も非常に悪い。江戸や明治の時代には電気がないので、ろうそくの細い明かりで作業したのだと言うから驚きだ。掘削は手作業で、一人の作業者が1日で30センチメートル掘り進めればよい方だったという。高所部では、岩壁と岩壁を細い棒を二本渡しただけの足場で移動し、作業していたようで、当時の作業の壮絶さを実感する。
巨万の富を生む石見銀山には、多くの人が働いており、諸説あるものの、最盛期には山の頂上に、集合住宅も建てられ、数万人が住み、山の入り口には、関所もあったという。
石見銀山には、見所や歴史を丁寧に説明してくれる「石見銀山ガイドの会」があり、有料で、案内してくれる。案内してくれたガイドさんによると、「産業遺産の魅力を分かってもらうのはとても難しい」とのこと。確かに暗い穴の中をひたすら歩く石見銀山の価値を、ガイドなしに理解するのは至難の業だと感じた。石見銀山では、産業遺産としての歴史的価値を伝えるため、観光客になるべくガイドを利用するように勧めている。
また、石見銀山の麓に位置する大田市大森町は、銀山とともに発展した街だ。赤瓦と土壁の家が軒を連ね、代官所跡や商家、古民家など、当時の繁栄を伝える町並みが残っている。現在は、趣のある建物をそのまま利用し、古民家のカフェや銀細工のショップなどになっており、石見銀山を観光の前後に立ち寄りたいスポットだ。
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