APECの女性起業家グランプリに日本代表の矢島さん
日本の伝統を次世代につなぐ「和える」での活動が評価される
先日、ベトナムで開催された「APEC女性と経済フォーラム(WEF)」のサイドイベント「APEC Business Efficiency and Success(BEST) AWARD」で、日本代表の矢島里佳氏(29、株式会社「和える」代表取締役 )が「APEC BEST AWARD(大賞)」と「Best Social Impact賞」をダブル受賞した。
「APEC BEST AWARD」は、APEC域内における女性起業の関心を高めることなどを目的に、昨年から実施されている。矢島氏が経営する「和える」は、日本文化を現代のニーズに溶け込ませた商品の開発・販売を行い、次世代につなげていくという活動を行っており、そのコンセプトとビジネスモデルが世界共通のベストプラクティスと評価され、受賞に至った。
丹後ちりめんや天橋立でも有名な京都府与謝野町。3年前の選挙で当時、全国最年少町長として当選した山添藤真氏(35)。一方、株式会社「和える」代表取締役の矢島里佳(29)さんは、伝統産業を子どもたちを伝えたいという思いで2011年に起業。今、二人は伝統産業の再興、地方の活性化で協働を始めようとしている。 次世代を担う政治家と起業家が地方の未来について語り合った。
ーまずなぜ町長に?
山添 私たちの町に必要なものは、一歩踏み出す勇気です。昭和50年代以降、地場産業の織物産業が衰退していく過程で、精神的な豊かさが削がれていったのではないかと感じます。一人ひとりが一歩踏み出すことに躊躇した時代があった。私が地元に戻ってきた時もそう感じました。困難な、選挙に出ることによって、少しでも町の人たちの挑戦を後押しできればと考えました。
矢島 精神的な豊かさという言葉がありましたが、町長から見てどう弱って見えたのですか。私は以前から「文化資本」と「経済資本」を“和える”ことが、これからの豊かさだと唱えています。文化と経済の双方が両輪で育み合うことが必要で、そのバランスが大切だと考えています。
山添 私たちの世代は、親の世代から「この地域に帰ってこなくていいよ」と言われて育ちました。この言葉に疲弊した心の在り様が見て取れます。子どもたちにずっとそばにいて欲しいというのは親の願いだと思いますが、地場産業の衰退を予見していたことから、子どもたちにそう言わざるを得なかった。私は次世代には「与謝野町は幸せに暮らせる地域だから」と伝えていきたいですね。町長に就任して以降も、IターンやUターンが極端に増えているわけではありません。しかし、合計特殊出生率はこの3年で伸びているので、暮らしやすさは向上しているのかな、と思っています。
矢島 私自身、伝統産業業界に10年間ほど携わってきて、全国の「糸へん」産業、技術はあるのですが、再興させる点では一番難しいと感じます。まず織物は元来着物がベースなので、そもそも日本人が民族衣装を纏わなくなったことで一気に需要が落ちたわけですが、その後も、なかなか洋装の世界にシフトできていません。その一つの要因として、着物は毎日洗うことを想定して作られていないことが大きいと感じます。洋装が主流になってくると、洗うということが日常で行われるため、洗いにくいというのは一つ大きな壁になっているように感じます。
山添 丹後ちりめんの「糸へん」産業でいうと、これまでも和装分野への生地供給がほとんどで、今も全体としては変わっていません。個別事業者の活動としては、洋装、インテリア等に挑戦する取り組みも見られますが、産地全体でみるとごくわずか。現在の生活様式に産業が適応しきれていません。
矢島 能動的に主導権を持って変えていくという状況を、生み出してきれていないのですね。織物に限らず伝統産業全体に言えることでもあるのですが。
ー今、矢島さんから「能動」というキーワードが出ました。前へ一歩でることができなかったのは、地域の人の気質もあったのでしょうか?そうではなく、リーダーがもっと旗を振る必要があったのでしょうか。
山添 織物産業の地域内同業者は、取引先もそう大きく異ならないこと等から、ある種の閉鎖性を生み出したのかもしれません。周りが気になり、言いたいことも言いにくく、未来を見据えた決断と実行に取り組めなかった。そのような状況で、政治も新しい選択肢を見出すことは難しかったように思います。
矢島 はじめから集団全体で変わるのは正直難しいと思っていて、まず個々人が変わることから始めるのが実は早いと感じています。2人になれば集団になり、それが3人、4人……と増えていけば、いつの間にか社会全体の動きになり始めます。人間は本能的に生き残る、守るために設計されています。でも実は、保守的になり過ぎることで守れなくなるという逆説的な事が起きてきている。それは過渡期に起こりやすい。どうなるか分からない中で舵を切るのは、経営者として非常にリスクがあるのもわかります。けれども今、大きく舵を切らないと継承できなくなる、ギリギリの時代。私は今、明治維新ぐらいの大きな変革の時代を生きているという感覚です。
ー矢島さんのように外部から地域活性化に刺激を与えることは重要ですが、最初の1人、2人は地元の人が旗を振るべきですよね。
矢島 そうですね、やはり外からの人だけでも上手く行かないですし、かと言って、中の人だけでもうまくいくとは限りません。やはり、地域内外の人が共に取り組んでいる地域は、とてもイキイキしているところが多いように感じます。「よそ者、若者、馬鹿者」とよく言われますが、これは本当にそうだなぁと感じます。私もこの内のどれかであり続けたいと思っています。
ー町長は当選した時、全国最年少でしたよね。若さという売りは自分の中でインセンティブとしてあったのですか。
山添 選挙中は全国最年少町長というのを知らなくて、選挙が終わった次の日に新聞記者の方に聞いて驚きました。1700以上の市町村があり、もっと若い人がいるはずだと思っていたので、悲しい気持ちになりました。大きな責任を負っていますが、プレッシャーを感じることなく、日々楽しみながら仕事ができる所以のひとつは、若さにあるのかもしれません。
ー矢島さんがこの市町村や首長と一緒に仕事をしてみたいと思う基準は何ですか。
矢島 そんな偉そうな立場じゃないですけれど、町を愛している職員さんがお仕事をされている地域、首長になることを目的とされていない方が首長になられている地域ですかね。自分の町をもっともっと輝かせたいという感覚がある方。その上で、どのように輝かせられるかと考えた時に、起業することもできるし、会社員として企業の中だからこそできることもあるし、一つの選択肢として首長という職業も存在するのだと思うのです。山添町長は、町長に就任されてから、この3年間いかがでしたか。
山添 住民基点のまちづくりが重要だと改めて感じています。特に産業政策においてはスタートの段階で住民の熱意がいかに宿っているかによって、事業の進捗が異なります。行政が主導しすぎた産業施策はだいたい上手くいきません。住民の意志や想いをベースに置かなければなりません。
矢島 確かに。行政側が「みんなやろうよ!」と音頭を取りすぎてしまうと、結局主体者が不在になりがちで、誰もやらないという結果につながってしまう。上手くいかない自治体の典型例ですよね。やはり必要なのは元気な民間事業者。自分も楽しみながら地域を想うプレーヤーがどれだけいるかが重要だと思います。職業柄多くの地域を訪問しましたが、元気な自治体には“主体性を持った面白い大人”が必ずいるのです。
ー主体性を持った面白い大人とは年齢的にはどのくらいの世代なのでしょうか。
矢島 30、40代です。彼ら彼女らが引っ張って、その背中を20代が見る。そこにさらに年配の方々が助言をしたり、各世代のつなぐぎの役割を果たす。いわゆる“成功している自治体”ではどこの場所でも、この世代間のサイクルがうまく循環してできあがっているように感じます。
山添 過去から脈々と受け継がれている伝統を、人口構造の中でしっかりと循環させること。この世代間の関係が仕組みとして成立しているのは非常に大事です。与謝野町は人口2万2千人超、面積108平方キロメートルでとても良い規模だと思います。みんなの顔が見える範囲。1人を介せばいろんな人たちがつながる。そう思える「感覚」がとても重要だと思っています。
矢島 私はいろんな地域を回っていて、1万5千~3万人規模の街が感覚的に心地よいですね。近すぎないけど遠すぎない、みんなで頑張れるような気がする距離感。財源や地域を引っ張るプレーヤーが現われるための人口を考えてみると、それくらいの人口に収まっていることが多いのです。
ーさきほど行政が出過ぎるのは良くない、というお話をされていましたが、逆に強い思いで進めてきたことは何ですか。
山添 「ゴミ袋の有料化」です。与謝野町の美しい自然を、次世代につないでいくことを考えると、ゴミの排出量を減らし、豊かな生活環境を整えなければなりません。そのための施策の一つでしたが、先日議会で否決となりました。住民の負担が増大することが主な理由です。
矢島 えっ、否決になったのですか……?
山添 私たちが繰り返し申し上げたのは、この議案はゴミの減量が第一の目的であるということ。議員の方からは、「財源確保」だったら賛成するというご意見をいただいたのですが、施策の立案意思を貫きました。
矢島 思考過程の違いですね。ゴミ袋の有料化で少しでもゴミの排出量を減らそうと、自然と住民のみなさんが考えはじめる環境を、山添町長は醸成しようとされた。結果として、気がつくと住民一人ひとりが、未来に美しい与謝野町を繋ぐことに貢献しているシステムが構築される。けれども、財源確保のための有料化となると、むしろゴミの排出量を増やしてほしいという意図になってしまう。一見すると有料化するという事実は変わらないのですが、どちらの目的のためにその政策が実施されるのかで、その後に現れる結果に天と地の差が出て来ると思います。
私自身の仕事は首長さんと似ていると最近感じています。未来のビジョンを描くというよりは未来を見に行くこと、見えている未来を仲間たちに伝えるのが私の仕事だと思っています。その未来が具体的に現場で共有されればされるほど、仕事の進みが早くなり、欲しい未来に早く近づくのです。もう一つ、過去を知ることも大事。未来を見るためには、過去の歴史に目を向けなければならない。それをどう現在につなげるか。この感覚で私は経営をしています。
山添 その通りだと考えます。未来を創造する意志を、私たちがどれほど育めるかで、地域は大きく変化します。地場産業に関しても新たな取り組みを進めています。20代、30代の織物職人を支援する取り組みです。与謝野町で蓄積してきた感性や技術をオープンにするとともに、他産地に赴き、職人さんから技術を学び、課題も共有することで、新しい織物の価値を発信していこうというものです。私が好きな町に、スペインのサンセバスチャンという場所があります。食の都で、飲食店がひしめきあっているのですけれど、あそこはレシピを公開しお互いを高め合う風土がある。つまり、個人としての独立性と公共性が共存している。私たちの町もそうあり続けたい。丹後ちりめんの創業はそのような精神から始まっています。先駆者が習得してきた技術を、学びたい人には惜しげもなく教えていった。そこで個人としても独立していくし、公共としても豊かになっていく。そういう地域は居て、とても心地よい。
ーそれは職人さんから声が上がったのですか?
山添 そうです。若手の職人さんが中心となっています。40代以上の方々は名のある職人さんたちが多く、グローバルに展開していこうという意識が案外強い。グローバル展開や、クリエイターと職人さんが協働する動きが全国的に広がる中で、実は若い世代は全く別の道を考えていたのです。世界に進出したいわけでも、クリエイターとものづくりを共有したいわけでもない。彼らには「300年の歴史を受け継ぎ、次の300年の歴史をつくる事業がしたい」という想いがありました。日本の産地の中で自分たちにどういう強みがあって、弱みがあるのか。お互いを知り、学び、各産地が補完し合う関係にならなければならない。そのために他の産地とも交流し、情報や課題をみんなで共有し織物業を次世代につないでいこう、という考えです。
ークリエイターとのコラボや、グローバル展開などが意外と失敗している例も多いです。
矢島 よくある自治体の失敗例ですよね。「デザイナー、クリエイターを呼んできて、モノを作りました。けれども、デザインしてそこで仕事が終わるとなると、誰も出口の責任を持てないため、職人さんのもとに在庫が残る。」というような。そのような失敗事例を数多く見聞きしてきてたことが、今の和えるのビジネスモデルに繋がっています。ですから、“0から6歳の伝統ブランドaeru”では、私たち和えるが主体者となり、責任を持って商品の企画、開発販売までを行います。職人さんに和えるのオリジナル商品をお作り頂き、全て買い取りさせて頂き、自らの責任で出口も作り皆様にお届けする。三方よしの循環が生まれるビジネスモデルを大切にしています。
山添 若手の職人さんが「そういう事業をやっても在庫を抱えない、売らないでは、ビジネスとしてフィフティーフィフティーの関係じゃない」と言ったことがとても印象に残っています。今ある取引先と、太い関係を構築する方が優先だと。新しいことも芽はあるかもしれないが、“太さ”をどう持つかが大事だと。若い職人さんが地盤をしっかり考えていたことにとても感銘を受けました。若手がこのような発想にたどり着くのは、先輩職人、今の40代が地場産業を盛り上げようと挑戦する背中を見てきたからです。ここにも世代間のサイクルは生まれています。
ー「平成の大合併」があって与謝野町も3つの町が一つになりました。自治体にとって良い面も悪い面もあったと思いますが。
山添 地方のまちづくりの環境が整ってきたように感じます。根本の要因は一人ひとりの価値観の変容です。「売り家と唐様で書く三代目」という川柳があります。これは先代の財産を失う三代目の生き方を皮肉った川柳なんです。しかし、この三代目というのは、自然や愛する人たち、文化を大切にする生き方です。今や私たちは成熟した社会の中で、皮肉ではなく、そういう生き方ができるようになり始めているように感じます。人の価値観が変容していく中で、働き方改革も含めていい流れになってきたなと実感しています。これから日本国内の地域は必ず良いカタチに継承されていくでしょう。市町村合併においては、将来世代から「正しい選択だった」と評価されるように、それぞれの基礎自治体が最善を尽くすことが重要だと思います。
矢島 価値観の変容は「和える」でも、とても大事な要素です。働くことを通して、一人ひとりの価値観が変容していくような組織の在り方、お客様、社会との関わり方、ビジネスモデルの生み出し方をしていきたい。地域社会も同じですよね。与謝野町をはじめ、全国の自治体の方々と一緒になって、「次世代の子どもたちが、人生の豊かさを感じられる日本」を残したいと思っています。
【略歴】
●与謝野町長
山添 藤真(やまぞえ とうま)
1981年生まれ。江戸時代から続く丹後ちりめん織元の長男として育つ。2000年京都府立宮津高校卒業後、フランスに留学。2004年フランス国立建築大学パリ・マケラ校に入学し、都市設計から住宅政策まで、幅広く建築を学ぶ。2008年フランス国立社会学科高等研究員パリ校、2年次終了。2010年から2014年まで与謝野町議会議員を経て、2014年4月与謝野町長就任。
●株式会社「和える」代表取締役
矢島 里佳(やじま りか)
1988年生まれ。職人と伝統の魅力に惹かれ、19歳の頃から全国を回り始め、大学時代に日本の伝統文化・産業の情報発信の仕事を始める。「日本の伝統を次世代につなぎたい」という想いから、大学4年時である2011年3月、株式会社和えるを創業、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。世界経済フォーラム(ダボス会議)「World Economic Forum - Global Shapers Community」メンバー、2015年日本政策投資銀行「女性新ビジネスプランコンペティション女性起業大賞」受賞。>
「APEC BEST AWARD」は、APEC域内における女性起業の関心を高めることなどを目的に、昨年から実施されている。矢島氏が経営する「和える」は、日本文化を現代のニーズに溶け込ませた商品の開発・販売を行い、次世代につなげていくという活動を行っており、そのコンセプトとビジネスモデルが世界共通のベストプラクティスと評価され、受賞に至った。
【対談】山添藤真×矢島里佳
丹後ちりめんや天橋立でも有名な京都府与謝野町。3年前の選挙で当時、全国最年少町長として当選した山添藤真氏(35)。一方、株式会社「和える」代表取締役の矢島里佳(29)さんは、伝統産業を子どもたちを伝えたいという思いで2011年に起業。今、二人は伝統産業の再興、地方の活性化で協働を始めようとしている。 次世代を担う政治家と起業家が地方の未来について語り合った。
ーまずなぜ町長に?
山添 私たちの町に必要なものは、一歩踏み出す勇気です。昭和50年代以降、地場産業の織物産業が衰退していく過程で、精神的な豊かさが削がれていったのではないかと感じます。一人ひとりが一歩踏み出すことに躊躇した時代があった。私が地元に戻ってきた時もそう感じました。困難な、選挙に出ることによって、少しでも町の人たちの挑戦を後押しできればと考えました。
矢島 精神的な豊かさという言葉がありましたが、町長から見てどう弱って見えたのですか。私は以前から「文化資本」と「経済資本」を“和える”ことが、これからの豊かさだと唱えています。文化と経済の双方が両輪で育み合うことが必要で、そのバランスが大切だと考えています。
「糸へん」産業の難しさ
山添 私たちの世代は、親の世代から「この地域に帰ってこなくていいよ」と言われて育ちました。この言葉に疲弊した心の在り様が見て取れます。子どもたちにずっとそばにいて欲しいというのは親の願いだと思いますが、地場産業の衰退を予見していたことから、子どもたちにそう言わざるを得なかった。私は次世代には「与謝野町は幸せに暮らせる地域だから」と伝えていきたいですね。町長に就任して以降も、IターンやUターンが極端に増えているわけではありません。しかし、合計特殊出生率はこの3年で伸びているので、暮らしやすさは向上しているのかな、と思っています。
矢島 私自身、伝統産業業界に10年間ほど携わってきて、全国の「糸へん」産業、技術はあるのですが、再興させる点では一番難しいと感じます。まず織物は元来着物がベースなので、そもそも日本人が民族衣装を纏わなくなったことで一気に需要が落ちたわけですが、その後も、なかなか洋装の世界にシフトできていません。その一つの要因として、着物は毎日洗うことを想定して作られていないことが大きいと感じます。洋装が主流になってくると、洗うということが日常で行われるため、洗いにくいというのは一つ大きな壁になっているように感じます。
山添 丹後ちりめんの「糸へん」産業でいうと、これまでも和装分野への生地供給がほとんどで、今も全体としては変わっていません。個別事業者の活動としては、洋装、インテリア等に挑戦する取り組みも見られますが、産地全体でみるとごくわずか。現在の生活様式に産業が適応しきれていません。
矢島 能動的に主導権を持って変えていくという状況を、生み出してきれていないのですね。織物に限らず伝統産業全体に言えることでもあるのですが。
保守的になり過ぎると守れない
ー今、矢島さんから「能動」というキーワードが出ました。前へ一歩でることができなかったのは、地域の人の気質もあったのでしょうか?そうではなく、リーダーがもっと旗を振る必要があったのでしょうか。
山添 織物産業の地域内同業者は、取引先もそう大きく異ならないこと等から、ある種の閉鎖性を生み出したのかもしれません。周りが気になり、言いたいことも言いにくく、未来を見据えた決断と実行に取り組めなかった。そのような状況で、政治も新しい選択肢を見出すことは難しかったように思います。
矢島 はじめから集団全体で変わるのは正直難しいと思っていて、まず個々人が変わることから始めるのが実は早いと感じています。2人になれば集団になり、それが3人、4人……と増えていけば、いつの間にか社会全体の動きになり始めます。人間は本能的に生き残る、守るために設計されています。でも実は、保守的になり過ぎることで守れなくなるという逆説的な事が起きてきている。それは過渡期に起こりやすい。どうなるか分からない中で舵を切るのは、経営者として非常にリスクがあるのもわかります。けれども今、大きく舵を切らないと継承できなくなる、ギリギリの時代。私は今、明治維新ぐらいの大きな変革の時代を生きているという感覚です。
「よそ者、若者、馬鹿者」
ー矢島さんのように外部から地域活性化に刺激を与えることは重要ですが、最初の1人、2人は地元の人が旗を振るべきですよね。
矢島 そうですね、やはり外からの人だけでも上手く行かないですし、かと言って、中の人だけでもうまくいくとは限りません。やはり、地域内外の人が共に取り組んでいる地域は、とてもイキイキしているところが多いように感じます。「よそ者、若者、馬鹿者」とよく言われますが、これは本当にそうだなぁと感じます。私もこの内のどれかであり続けたいと思っています。
ー町長は当選した時、全国最年少でしたよね。若さという売りは自分の中でインセンティブとしてあったのですか。
山添 選挙中は全国最年少町長というのを知らなくて、選挙が終わった次の日に新聞記者の方に聞いて驚きました。1700以上の市町村があり、もっと若い人がいるはずだと思っていたので、悲しい気持ちになりました。大きな責任を負っていますが、プレッシャーを感じることなく、日々楽しみながら仕事ができる所以のひとつは、若さにあるのかもしれません。
住民の熱意がいかに宿っているか
ー矢島さんがこの市町村や首長と一緒に仕事をしてみたいと思う基準は何ですか。
矢島 そんな偉そうな立場じゃないですけれど、町を愛している職員さんがお仕事をされている地域、首長になることを目的とされていない方が首長になられている地域ですかね。自分の町をもっともっと輝かせたいという感覚がある方。その上で、どのように輝かせられるかと考えた時に、起業することもできるし、会社員として企業の中だからこそできることもあるし、一つの選択肢として首長という職業も存在するのだと思うのです。山添町長は、町長に就任されてから、この3年間いかがでしたか。
山添 住民基点のまちづくりが重要だと改めて感じています。特に産業政策においてはスタートの段階で住民の熱意がいかに宿っているかによって、事業の進捗が異なります。行政が主導しすぎた産業施策はだいたい上手くいきません。住民の意志や想いをベースに置かなければなりません。
矢島 確かに。行政側が「みんなやろうよ!」と音頭を取りすぎてしまうと、結局主体者が不在になりがちで、誰もやらないという結果につながってしまう。上手くいかない自治体の典型例ですよね。やはり必要なのは元気な民間事業者。自分も楽しみながら地域を想うプレーヤーがどれだけいるかが重要だと思います。職業柄多くの地域を訪問しましたが、元気な自治体には“主体性を持った面白い大人”が必ずいるのです。
世代間のサイクルがうまく循環
ー主体性を持った面白い大人とは年齢的にはどのくらいの世代なのでしょうか。
矢島 30、40代です。彼ら彼女らが引っ張って、その背中を20代が見る。そこにさらに年配の方々が助言をしたり、各世代のつなぐぎの役割を果たす。いわゆる“成功している自治体”ではどこの場所でも、この世代間のサイクルがうまく循環してできあがっているように感じます。
山添 過去から脈々と受け継がれている伝統を、人口構造の中でしっかりと循環させること。この世代間の関係が仕組みとして成立しているのは非常に大事です。与謝野町は人口2万2千人超、面積108平方キロメートルでとても良い規模だと思います。みんなの顔が見える範囲。1人を介せばいろんな人たちがつながる。そう思える「感覚」がとても重要だと思っています。
矢島 私はいろんな地域を回っていて、1万5千~3万人規模の街が感覚的に心地よいですね。近すぎないけど遠すぎない、みんなで頑張れるような気がする距離感。財源や地域を引っ張るプレーヤーが現われるための人口を考えてみると、それくらいの人口に収まっていることが多いのです。
個人としての独立性と公共性が共存
ーさきほど行政が出過ぎるのは良くない、というお話をされていましたが、逆に強い思いで進めてきたことは何ですか。
山添 「ゴミ袋の有料化」です。与謝野町の美しい自然を、次世代につないでいくことを考えると、ゴミの排出量を減らし、豊かな生活環境を整えなければなりません。そのための施策の一つでしたが、先日議会で否決となりました。住民の負担が増大することが主な理由です。
矢島 えっ、否決になったのですか……?
山添 私たちが繰り返し申し上げたのは、この議案はゴミの減量が第一の目的であるということ。議員の方からは、「財源確保」だったら賛成するというご意見をいただいたのですが、施策の立案意思を貫きました。
矢島 思考過程の違いですね。ゴミ袋の有料化で少しでもゴミの排出量を減らそうと、自然と住民のみなさんが考えはじめる環境を、山添町長は醸成しようとされた。結果として、気がつくと住民一人ひとりが、未来に美しい与謝野町を繋ぐことに貢献しているシステムが構築される。けれども、財源確保のための有料化となると、むしろゴミの排出量を増やしてほしいという意図になってしまう。一見すると有料化するという事実は変わらないのですが、どちらの目的のためにその政策が実施されるのかで、その後に現れる結果に天と地の差が出て来ると思います。
私自身の仕事は首長さんと似ていると最近感じています。未来のビジョンを描くというよりは未来を見に行くこと、見えている未来を仲間たちに伝えるのが私の仕事だと思っています。その未来が具体的に現場で共有されればされるほど、仕事の進みが早くなり、欲しい未来に早く近づくのです。もう一つ、過去を知ることも大事。未来を見るためには、過去の歴史に目を向けなければならない。それをどう現在につなげるか。この感覚で私は経営をしています。
山添 その通りだと考えます。未来を創造する意志を、私たちがどれほど育めるかで、地域は大きく変化します。地場産業に関しても新たな取り組みを進めています。20代、30代の織物職人を支援する取り組みです。与謝野町で蓄積してきた感性や技術をオープンにするとともに、他産地に赴き、職人さんから技術を学び、課題も共有することで、新しい織物の価値を発信していこうというものです。私が好きな町に、スペインのサンセバスチャンという場所があります。食の都で、飲食店がひしめきあっているのですけれど、あそこはレシピを公開しお互いを高め合う風土がある。つまり、個人としての独立性と公共性が共存している。私たちの町もそうあり続けたい。丹後ちりめんの創業はそのような精神から始まっています。先駆者が習得してきた技術を、学びたい人には惜しげもなく教えていった。そこで個人としても独立していくし、公共としても豊かになっていく。そういう地域は居て、とても心地よい。
全く別の道を考えていた若手
ーそれは職人さんから声が上がったのですか?
山添 そうです。若手の職人さんが中心となっています。40代以上の方々は名のある職人さんたちが多く、グローバルに展開していこうという意識が案外強い。グローバル展開や、クリエイターと職人さんが協働する動きが全国的に広がる中で、実は若い世代は全く別の道を考えていたのです。世界に進出したいわけでも、クリエイターとものづくりを共有したいわけでもない。彼らには「300年の歴史を受け継ぎ、次の300年の歴史をつくる事業がしたい」という想いがありました。日本の産地の中で自分たちにどういう強みがあって、弱みがあるのか。お互いを知り、学び、各産地が補完し合う関係にならなければならない。そのために他の産地とも交流し、情報や課題をみんなで共有し織物業を次世代につないでいこう、という考えです。
ークリエイターとのコラボや、グローバル展開などが意外と失敗している例も多いです。
矢島 よくある自治体の失敗例ですよね。「デザイナー、クリエイターを呼んできて、モノを作りました。けれども、デザインしてそこで仕事が終わるとなると、誰も出口の責任を持てないため、職人さんのもとに在庫が残る。」というような。そのような失敗事例を数多く見聞きしてきてたことが、今の和えるのビジネスモデルに繋がっています。ですから、“0から6歳の伝統ブランドaeru”では、私たち和えるが主体者となり、責任を持って商品の企画、開発販売までを行います。職人さんに和えるのオリジナル商品をお作り頂き、全て買い取りさせて頂き、自らの責任で出口も作り皆様にお届けする。三方よしの循環が生まれるビジネスモデルを大切にしています。
山添 若手の職人さんが「そういう事業をやっても在庫を抱えない、売らないでは、ビジネスとしてフィフティーフィフティーの関係じゃない」と言ったことがとても印象に残っています。今ある取引先と、太い関係を構築する方が優先だと。新しいことも芽はあるかもしれないが、“太さ”をどう持つかが大事だと。若い職人さんが地盤をしっかり考えていたことにとても感銘を受けました。若手がこのような発想にたどり着くのは、先輩職人、今の40代が地場産業を盛り上げようと挑戦する背中を見てきたからです。ここにも世代間のサイクルは生まれています。
三代目の生き方と価値観の変容
ー「平成の大合併」があって与謝野町も3つの町が一つになりました。自治体にとって良い面も悪い面もあったと思いますが。
山添 地方のまちづくりの環境が整ってきたように感じます。根本の要因は一人ひとりの価値観の変容です。「売り家と唐様で書く三代目」という川柳があります。これは先代の財産を失う三代目の生き方を皮肉った川柳なんです。しかし、この三代目というのは、自然や愛する人たち、文化を大切にする生き方です。今や私たちは成熟した社会の中で、皮肉ではなく、そういう生き方ができるようになり始めているように感じます。人の価値観が変容していく中で、働き方改革も含めていい流れになってきたなと実感しています。これから日本国内の地域は必ず良いカタチに継承されていくでしょう。市町村合併においては、将来世代から「正しい選択だった」と評価されるように、それぞれの基礎自治体が最善を尽くすことが重要だと思います。
矢島 価値観の変容は「和える」でも、とても大事な要素です。働くことを通して、一人ひとりの価値観が変容していくような組織の在り方、お客様、社会との関わり方、ビジネスモデルの生み出し方をしていきたい。地域社会も同じですよね。与謝野町をはじめ、全国の自治体の方々と一緒になって、「次世代の子どもたちが、人生の豊かさを感じられる日本」を残したいと思っています。
【略歴】
●与謝野町長
山添 藤真(やまぞえ とうま)
1981年生まれ。江戸時代から続く丹後ちりめん織元の長男として育つ。2000年京都府立宮津高校卒業後、フランスに留学。2004年フランス国立建築大学パリ・マケラ校に入学し、都市設計から住宅政策まで、幅広く建築を学ぶ。2008年フランス国立社会学科高等研究員パリ校、2年次終了。2010年から2014年まで与謝野町議会議員を経て、2014年4月与謝野町長就任。
●株式会社「和える」代表取締役
矢島 里佳(やじま りか)
1988年生まれ。職人と伝統の魅力に惹かれ、19歳の頃から全国を回り始め、大学時代に日本の伝統文化・産業の情報発信の仕事を始める。「日本の伝統を次世代につなぎたい」という想いから、大学4年時である2011年3月、株式会社和えるを創業、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。世界経済フォーラム(ダボス会議)「World Economic Forum - Global Shapers Community」メンバー、2015年日本政策投資銀行「女性新ビジネスプランコンペティション女性起業大賞」受賞。>
METI Journal2017年08月28日