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「鉄で国を興す」先人たちが込めた熱き思いとは?

伊藤博文ら明治の元勲たちが触れたであろう床や壁、116年の時を経た今も残る!
「鉄で国を興す」先人たちが込めた熱き思いとは?

旧官営八幡製鉄所旧本事務所

 新日鉄住金は世界文化遺産候補「明治日本の産業革命遺産」を構成する、旧官営八幡製鉄所関連施設を報道関係者に公開した。創業2年前の1899年(明32)に完成した旧本事務所、旧鍛冶工場、修繕工場、遠賀川水源地ポンプ室4施設で、修繕工場とポンプ室は現在も稼働している。

 長官室が置かれた和洋折衷の重厚な旧本事務所は老朽化が進んだため、内部は鉄骨を使った補強工事が施された。初代首相の伊藤博文ら視察に訪れた明治の元勲たちが触れたであろう床や壁は、116年の時を経た今も残る。また国内最古の鉄骨建造物として稼働を続ける修繕工場では、1908年に導入された15トンクレーンが製品を運んでいた。現在は北九州市が設置した眺望スペースから旧本事務所外観を遠望するだけだが、新日鉄住金は世界遺産に登録が決まれば「眺望スペースからの写真撮影や、市と協力したバスツアーを検討する」計画。(北九州)

 <追記>
  「近代化産業遺産群」世界文化遺産へ―日本の重工業化に貢献
 (2015年05月06日付一部抜粋)

 ■官営八幡製鉄所/鉄鋼の輸入依存脱却―国内の9割以上賄う

 世界遺産登録の見通しとなった官営八幡製鉄所が、明治の産業発展に果たした役割は大きかった。明治時代も半ばに入ると、鉄道敷設や機械・造船業の興隆、大規模な建築物の建設などが相次ぎ、鉄鋼需要は急増。1894年(明27)の日清戦争開戦もあり、明治政府はその大半を輸入に依存していた事態を解消すべく、96年に官営製鉄所建設を決定した。

 立地場所は原料となる石炭の産地に近い福岡県の八幡村(当時)。豊富な工業用水や労働力、軍事的防御に適した地形、地元の熱心な誘致なども決め手となった。1901年に東田第一高炉が完成し、火入れが行われたが、当初はトラブル続きで、一時は休止にまで追い込まれた。日露戦争の始まった04年にようやく操業は軌道に乗り、安定した生産が始まった。

 その後は30年までに高炉や各種工場、工業用水確保のための貯水池など、3度にわたる拡張工事が行われ、生産量も年々拡大。14年の第1次世界大戦開戦を機に加速した重工業の発展を支えた。製鉄所そのものも機械や鉄道、電力・ガス、化学、窯業、建築・土木など広範なすそ野産業を擁するため、その周辺で産業集積が進んだ。

 八幡製鉄所の成功を受け、民間による鉄鋼業への参入も少しずつ始まった。北海道・室蘭や神戸、大阪などに製鉄所が建設され、兵庫県・尼崎には多数の鉄鋼産業が立地した。そうした中でも、八幡製鉄所は群を抜く存在で、明治期は国内の鋼材生産の9割以上を1カ所で賄っていた。文字通り、明治の産業の屋台骨を一手に引き受けた。港湾や鉄道、貯水池など産業インフラも整い、多くの重工業が集積。そのスケールの大きさは現在の北九州市が国内4大工業地帯の一角を占めていたことからも明らかだ。
日刊工業新聞2015年06月17日 1面
村上毅
村上毅 Murakami Tsuyoshi 編集局ニュースセンター デスク
日本で近代製鉄技術が確立して100年余り。国と産業界、大学が連携して鉄鋼技術を発展させてきた取り組みは、まさに日本の産業発展の歴史だ。追記の記事は、以前の特集でまとめた記事の抜粋であり、ぜひ読んでほしい記事。

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