マツダ100年、オート3輪の進化をけん引した「GA型」の自慢は歯車だった
マツダは30日、会社設立100周年を迎える。創業当時の社名「東洋コルク工業」の通り、コルク製造からスタートし、さく岩機や工作機械、オート3輪に参入。戦前は軍の小銃生産も担っていた。戦後は何度か経営危機を迎え、一時は米フォードモーターの傘下に入りながらも、ロータリーエンジンに代表される独自技術へのこだわりが強い自動車メーカーとして生き残ってきた。時代を彩ったマツダ車を例にとり、100年のモノづくりを振り返る。
東洋工業(現マツダ)がオート3輪に参入したのは1931年(昭6)発売の「マツダ号DA型」。実質的な創業者の松田重次郎は、社長に就いて経営立て直しを引き受けつつ、機械、特に自動車分野への進出を急いだ。かたや大阪の発動機製造(現ダイハツ工業)は、前年に「ダイハツ号HA型」でオート3輪に参入している。戦後に製品が3輪トラックへと進化する過程にかけて、両社はトップシェアを競う最大のライバル同士となる。
7車種目に当たる「GA型」を発売したのは参入から7年後の38年4月。緑色に塗装した計器盤から「グリーンパネル」の愛称がつけられ、オート3輪では同社最大のヒットとなった。
31年には本社工場を、広島市中心部の吉島地区から郊外府中村(現府中町)へと移転した。このため45年8月の原爆投下にあっても爆心地から遠く、物的被害は多くなかった。3代目の社長で、当時専務だった松田恒次が京都から山陰、九州にわたって部品メーカーを行脚。被爆からわずか4か月後の45年12月、オート3輪の生産再開にこぎ着けたが、その月に生産した10台もこのGA型である。
特徴は新開発の変速機を3速から4速にするなどで、燃費を20%改善したこと。操作機器を運転手前方にまとめて配置したのも売り。変速機のレバーは、従来機では運転手の左膝前方にあったのを、燃料タンクを貫通して運転手の目前に出てくるようにした。
この燃料タンクにモノづくりへのこだわりがうかがえる。ガソリンタンクの中にエンジンオイルのタンクがある二重構造で、しかも中央部に変速機レバーが通せるよう長い穴が貫いている。この複雑な形状を、1枚の鉄板を切って折り曲げ、人手で全周溶接して仕上げている。「かなりの技術と手間を要する。よほど溶接技術に自信がないとできない」と、100周年に向けたレストアプロジェクトに携わった西田芳伸さんは説明する。
後輪にはカーブに合わせて左右輪の回転速度を変えるディファレンシャルギア(デフ、差動装置)を搭載。デフにはベベルギア(傘歯車)を使うが、その加工には高価な専用工作機械が必ずいる。「松田(恒次)さんは(中略)デファレンシャルのギヤをスパイラルベベル(曲がり歯傘歯車)にしたいと力説されたのを記憶している。(中略)それからほどなく、松田さんが、莫大(ばくだい)な資金を投じて、スパイラルベベルギヤとシャフトドライブを実現された」(松田恒次追想録より)。
実は初代DA型のDはデフのD。自社開発のエンジンや変速機よりも、歯車が自慢だったのかもしれない。
マツダ号GA型
●全長×全幅×全高=2800×1196×1240mm ●車両重量=580kg ●乗車定員=2人 ●最大積載量=500kg ●エンジン=空冷単気筒側弁式、排気量669cc「GA型」 ●最高出力=13.7馬力 ●変速機=4段手動変速機 ●総生産台数=1万7312台