METI
「物事を進めるには価値観を共有することが必要。東京のような規模になると難しい」
多摩川精機・萩本副会長インタビュー「幕末には危機感を抱いた人々が地方から現れた」
人口が減少に転じ、超高齢社会となったわが国が、これからも成長し続けるには、地域経済の活性化が欠かせない。しかし従来のような公共事業や大都市圏からの工場誘致にはもはや頼れない。地域に根ざしたリーダーが自ら先頭に立ち、地域のプレーヤーを引っ張ってこそ地域経済に活力を取り戻すことができる。経済産業省の公式メディア「METI Journal」「METI Journal」の8月の連載は「地域の未来」。第1回目は、多摩川精機副会長の萩本範文さんのインタビュー。萩本さんは社長時代の10年前から長野県飯田市を航空機産業の町にしようと地元産業界をリードしてきた。そこには地域発の新しい成長のカタチが垣間見える。一部抜粋してお届けする。
-なぜ飯田市で航空機産業をと考えたのですか。
「日本の航空機産業と言えば自衛隊機だけだった。それも予算がしだいに削減され、このままでは日本からこの産業が消滅してしまうという危機感があった。一方で、世界的には航空需要の拡大で成長が見込める。自動車向けなど既存の事業が元気なうちに、新しい事業に挑戦しなければいけないと考えた」
「産業には浮き沈みがあり、いつまでも同じ仕事が続くことはない。航空機を次の産業に育てようと呼びかけた。(飯田市が強い)精密産業のサプライチェーンとも共通性があった。そこで『航空機産業を次代の産業に』と呼びかけ、2006年に『飯田航空宇宙プロジェクト(37社が参加)』の活動がスタート。共同受注組織『エアロスペース飯田』(10社が参加)も発足した」
-危機感の背景には、かつての飯田市の産業の盛衰が念頭にあったそうですね。
「飯田市は昭和初期に蚕糸産業で繁栄したが、1929年のニューヨーク株式市場大暴落や、レーヨンなど化学繊維の出現で衰退した。そのために多くの住民の旧満州(中国東北部)への移民を余儀なくされるなど、苦しい歴史を経験してきた。創業者の萩本博市が多摩川精機を興したのもそのため」
「1938年に東京・蒲田で創業し、42年に創業者の出身地である飯田市に工場を建て、地域振興に取り組んだ。『産業は回り舞台』というのが、私の持論だ。同じ産業が栄え続けることはない。飯田では蚕糸産業の衰退という苦難の歴史を皆が共有し、忘れていない」
-航空機産業の創出を訴えてきましたが、手応えは。
「まだまだ緒に就いたばかりだ。新産業の気運をどう高めるかという、基本的な部分が課題というのは変わっていない。リーマン・ショックで高まった危機感が、アベノミクスで景気が好転し、薄れているように感じる。危機にある時は、皆が何とかしようと感じるものだが、目の前の仕事が忙しくなると、目先のことばかりで、長期的なことを考えなくなってしまう]
「自動車向けの仕事が増えれば、そちらに寄りかかってしまう。最近の経営者は先のことを考えず、近視眼的になってしまっている人が多いのではないか。新しい〝舞台〟を成功させるためには、大道具や小道具をそろえ、役者を雇い、シナリオを作り上げて練習させることでようやく表に出せる。それだけの根気がいる。そうしたことを言い続けている」
-飯田市に航空機産業を根付かせるための展望は。
「まだ10年はかかるだろう。長期レンジで臨む必要がある。しかし人は年をとる。だから新しい世代のリーダーを育てなければならない。新しいリーダーは何かを起こせる人でなければならない」
「幕末には吉田松陰のように、危機感を抱いた人々が地方から現れた。何か物事を進めるには価値観を共有することが必要だが、飯田ぐらいの規模だとそれが可能だ。東京のような規模になると難しい」
-リーダーが登場することの重要性は、80年代の米国を見て感じたそうですね。
「米国は80年代、経済がどん底に落ちた。だが、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが登場し、IT産業が立ち上がって再生した。一方、日本は米国に勝ったと満足してしまった上、中国など新興国を甘く見ていたことが、停滞を招いたのだろう」
「私は1995年に日本再生を謳ったシンポジウムに参加し、日本にもシリコンバレーモデルを作ろうと活動した。米国の復活を間近で見ていたからだ。しかし、日本には米国を復活させたようなリーダーが見当たらない」
<全文は「METI Journal」でお読みになれます>
【略歴】
萩本範文(はぎもと・のりふみ)1944年(昭和19年)長野県生まれ。68年に名古屋工業大学を卒業後、多摩川精機に入社。98年に3代目の社長に就任した。2014年に副会長に。多摩川精機は高精度センサーやモーター、ジャイロを手がける。もともと航空機関連は防衛向けが主流だったが、最近は民間向けにも力を入れており、ボーイングとは直接取引にも成功している。>
-なぜ飯田市で航空機産業をと考えたのですか。
「日本の航空機産業と言えば自衛隊機だけだった。それも予算がしだいに削減され、このままでは日本からこの産業が消滅してしまうという危機感があった。一方で、世界的には航空需要の拡大で成長が見込める。自動車向けなど既存の事業が元気なうちに、新しい事業に挑戦しなければいけないと考えた」
「産業には浮き沈みがあり、いつまでも同じ仕事が続くことはない。航空機を次の産業に育てようと呼びかけた。(飯田市が強い)精密産業のサプライチェーンとも共通性があった。そこで『航空機産業を次代の産業に』と呼びかけ、2006年に『飯田航空宇宙プロジェクト(37社が参加)』の活動がスタート。共同受注組織『エアロスペース飯田』(10社が参加)も発足した」
苦難の歴史を共有
-危機感の背景には、かつての飯田市の産業の盛衰が念頭にあったそうですね。
「飯田市は昭和初期に蚕糸産業で繁栄したが、1929年のニューヨーク株式市場大暴落や、レーヨンなど化学繊維の出現で衰退した。そのために多くの住民の旧満州(中国東北部)への移民を余儀なくされるなど、苦しい歴史を経験してきた。創業者の萩本博市が多摩川精機を興したのもそのため」
「1938年に東京・蒲田で創業し、42年に創業者の出身地である飯田市に工場を建て、地域振興に取り組んだ。『産業は回り舞台』というのが、私の持論だ。同じ産業が栄え続けることはない。飯田では蚕糸産業の衰退という苦難の歴史を皆が共有し、忘れていない」
-航空機産業の創出を訴えてきましたが、手応えは。
「まだまだ緒に就いたばかりだ。新産業の気運をどう高めるかという、基本的な部分が課題というのは変わっていない。リーマン・ショックで高まった危機感が、アベノミクスで景気が好転し、薄れているように感じる。危機にある時は、皆が何とかしようと感じるものだが、目の前の仕事が忙しくなると、目先のことばかりで、長期的なことを考えなくなってしまう]
「自動車向けの仕事が増えれば、そちらに寄りかかってしまう。最近の経営者は先のことを考えず、近視眼的になってしまっている人が多いのではないか。新しい〝舞台〟を成功させるためには、大道具や小道具をそろえ、役者を雇い、シナリオを作り上げて練習させることでようやく表に出せる。それだけの根気がいる。そうしたことを言い続けている」
米国の復活を参考に
-飯田市に航空機産業を根付かせるための展望は。
「まだ10年はかかるだろう。長期レンジで臨む必要がある。しかし人は年をとる。だから新しい世代のリーダーを育てなければならない。新しいリーダーは何かを起こせる人でなければならない」
「幕末には吉田松陰のように、危機感を抱いた人々が地方から現れた。何か物事を進めるには価値観を共有することが必要だが、飯田ぐらいの規模だとそれが可能だ。東京のような規模になると難しい」
-リーダーが登場することの重要性は、80年代の米国を見て感じたそうですね。
「米国は80年代、経済がどん底に落ちた。だが、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが登場し、IT産業が立ち上がって再生した。一方、日本は米国に勝ったと満足してしまった上、中国など新興国を甘く見ていたことが、停滞を招いたのだろう」
「私は1995年に日本再生を謳ったシンポジウムに参加し、日本にもシリコンバレーモデルを作ろうと活動した。米国の復活を間近で見ていたからだ。しかし、日本には米国を復活させたようなリーダーが見当たらない」
<全文は「METI Journal」でお読みになれます>
萩本範文(はぎもと・のりふみ)1944年(昭和19年)長野県生まれ。68年に名古屋工業大学を卒業後、多摩川精機に入社。98年に3代目の社長に就任した。2014年に副会長に。多摩川精機は高精度センサーやモーター、ジャイロを手がける。もともと航空機関連は防衛向けが主流だったが、最近は民間向けにも力を入れており、ボーイングとは直接取引にも成功している。>