幻の戦闘機「震電」を作った鉄工所のベンチャー精神
渡辺鉄工、一品一様のモノづくり継承
第2次世界大戦の最中、今では「幻の戦闘機」と呼ばれる戦闘機が日本で作られた。米軍のB―29爆撃機の迎撃を期待されながらも実戦投入を前に終戦を迎えたことが幻と言われる理由だ。その「震電(しんでん)」を作った渡辺鉄工は福岡市内の住宅や学校も隣接する町中にある。
創業は1886年(明19)で昨年130周年を迎えた。事業の柱の一つがリムラインと呼ばれる自動車用ホイールの生産設備で国内シェアは90%以上という。
海外でも日系メーカーを中心に採用され、米国やアジア各国への輸出も行っている。また防衛省に納めている水上魚雷発射管に関しては国内唯一のメーカーという顔も持つ。
受注はオーダーメードが基本。設計から製作、据え付けまで一貫して行い、顧客の要望に応える一品一様のモノづくりを強みとしている。
同社は、福岡の老舗建材総合商社である渡辺藤吉本店の付属工場の独立によって始まった。2代目社長の渡辺福雄が1904年に陸軍に荷馬車を売り込んだことがきっかけで軍関係の取引が始まる。21年には海軍の指定工場となり、飛行機製造や魚雷発射管の製造を請け負った。
ただ、戦時の資料は連合国軍総司令部(GHQ)が回収して会社にはほとんど残っていない。それでも同社は従業員が覚えている話を聞き取るなどして歴史を明らかにしてきた。
現社長の渡辺剛は「創業時に水揚げポンプを作っていたことも福雄の自伝で知ったくらい」と、とじた部分がほどけそうな古びた本を慎重に扱いながら話す。それだけに渡辺は会社の歴史を知ることに敏感だ。偶然目にした大学の研究文献から社史に関わる可能性がある記述を見つけ出すこともある。
「震電」には当時最高の性能が求められた。悪化をたどる戦況の一変を期待され、国の命運を賭けた開発とも言えた。その性能を実現するには、蓄積された技術を生かすだけでなく新たなことに挑戦するベンチャー精神が不可欠だった。
実戦の有無にかかわらず、その開発と製作の経験、そしてベンチャー精神は今も引き継がれている。
終戦後の渡辺鉄工は旋盤設備を生かし62年に鋼板処置装置のスリッターラインの製造に乗り出す。続いて67年にはリムラインの製造を始めた。ユーザーの業界がはっきり分かれた製品群は経営の多角化となり景気のあおりを受けづらい体質を築いた。
社長の渡辺は現在、福岡市機械金属工業会(福岡県篠栗町)の副会長を務める。同会には若手メンバーを中心とした新商品研究会「BLABO(ブラボ)」がある。共同開発などを通じて会員の連携を深めるために発足。月1回集まり、職場や家庭で困ったことを持ち寄り、新製品開発のアイデアを練る。
福岡市を中心とする福岡地区は商業の色が濃く、北九州地区と比べると製造業のイメージは弱い。そこで渡辺は、福岡市が力を入れている創業支援の中でブラボがモノづくり分野で力になれないかとも考えている。
ブラボメンバーの共同開発成果には金属製のポケットチーフといった遊び心ある一般向け製品や産業用のパイプ切断機がある。同切断機は工作機械商社のノムラ(福岡市中央区)と渡辺鉄工が共同開発した。渡辺は開発に仲間との切磋琢磨(せっさたくま)があるとし「身近にお互いを高め合える存在がいることはうれしい」とブラボの存在に感謝している。
渡辺は年1回、国士館大学経営学部の学生に講義する。就職活動で大手志向が強い学生に大手でなくても優れた会社があることや財務の重要性などを話す。業界紙を読んで情報を集めることやインターンシップ(就業体験)への参加などを勧め、「ワンマン社長には気をつけた方がいい」と笑う。
渡辺には4歳と2歳の子どもがいる。渡辺鉄工は同族経営が続くが渡辺自身にこだわりはない。「経営者には向き不向きが絶対にある。実力がないのに継がせようとは思わない」と言い切る。
そして次期社長には全知全能を求めず「できないことをきちんと理解している人がいい」と希望する。当然、自分の子どもにバトンタッチするのが理想だ。
渡辺は今後の夢について「何かあったら渡辺鉄工にお願いしようと言われる会社になりたい」と語る。リムラインやスリッターラインの製造で顧客の要望に応えてきた。今後は培った技術をさらに深掘りし新規案件にも果敢に挑戦する意欲がみなぎっている。これからも異業種交流会など社外を飛び回り、パートナー企業を増やしていく考え。
創業131年の歴史を持つ同社。幻と呼ばれた戦闘機を完成させたベンチャー精神は、省人化機械などで現実のニーズに応える製品を生み出していく。
(敬称略)
(文=西部・増重直樹)
創業は1886年(明19)で昨年130周年を迎えた。事業の柱の一つがリムラインと呼ばれる自動車用ホイールの生産設備で国内シェアは90%以上という。
海外でも日系メーカーを中心に採用され、米国やアジア各国への輸出も行っている。また防衛省に納めている水上魚雷発射管に関しては国内唯一のメーカーという顔も持つ。
受注はオーダーメードが基本。設計から製作、据え付けまで一貫して行い、顧客の要望に応える一品一様のモノづくりを強みとしている。
同社は、福岡の老舗建材総合商社である渡辺藤吉本店の付属工場の独立によって始まった。2代目社長の渡辺福雄が1904年に陸軍に荷馬車を売り込んだことがきっかけで軍関係の取引が始まる。21年には海軍の指定工場となり、飛行機製造や魚雷発射管の製造を請け負った。
ただ、戦時の資料は連合国軍総司令部(GHQ)が回収して会社にはほとんど残っていない。それでも同社は従業員が覚えている話を聞き取るなどして歴史を明らかにしてきた。
現社長の渡辺剛は「創業時に水揚げポンプを作っていたことも福雄の自伝で知ったくらい」と、とじた部分がほどけそうな古びた本を慎重に扱いながら話す。それだけに渡辺は会社の歴史を知ることに敏感だ。偶然目にした大学の研究文献から社史に関わる可能性がある記述を見つけ出すこともある。
「震電」には当時最高の性能が求められた。悪化をたどる戦況の一変を期待され、国の命運を賭けた開発とも言えた。その性能を実現するには、蓄積された技術を生かすだけでなく新たなことに挑戦するベンチャー精神が不可欠だった。
実戦の有無にかかわらず、その開発と製作の経験、そしてベンチャー精神は今も引き継がれている。
終戦後の渡辺鉄工は旋盤設備を生かし62年に鋼板処置装置のスリッターラインの製造に乗り出す。続いて67年にはリムラインの製造を始めた。ユーザーの業界がはっきり分かれた製品群は経営の多角化となり景気のあおりを受けづらい体質を築いた。
福岡からモノづくりの輪広げる
社長の渡辺は現在、福岡市機械金属工業会(福岡県篠栗町)の副会長を務める。同会には若手メンバーを中心とした新商品研究会「BLABO(ブラボ)」がある。共同開発などを通じて会員の連携を深めるために発足。月1回集まり、職場や家庭で困ったことを持ち寄り、新製品開発のアイデアを練る。
福岡市を中心とする福岡地区は商業の色が濃く、北九州地区と比べると製造業のイメージは弱い。そこで渡辺は、福岡市が力を入れている創業支援の中でブラボがモノづくり分野で力になれないかとも考えている。
ブラボメンバーの共同開発成果には金属製のポケットチーフといった遊び心ある一般向け製品や産業用のパイプ切断機がある。同切断機は工作機械商社のノムラ(福岡市中央区)と渡辺鉄工が共同開発した。渡辺は開発に仲間との切磋琢磨(せっさたくま)があるとし「身近にお互いを高め合える存在がいることはうれしい」とブラボの存在に感謝している。
渡辺は年1回、国士館大学経営学部の学生に講義する。就職活動で大手志向が強い学生に大手でなくても優れた会社があることや財務の重要性などを話す。業界紙を読んで情報を集めることやインターンシップ(就業体験)への参加などを勧め、「ワンマン社長には気をつけた方がいい」と笑う。
渡辺には4歳と2歳の子どもがいる。渡辺鉄工は同族経営が続くが渡辺自身にこだわりはない。「経営者には向き不向きが絶対にある。実力がないのに継がせようとは思わない」と言い切る。
そして次期社長には全知全能を求めず「できないことをきちんと理解している人がいい」と希望する。当然、自分の子どもにバトンタッチするのが理想だ。
渡辺は今後の夢について「何かあったら渡辺鉄工にお願いしようと言われる会社になりたい」と語る。リムラインやスリッターラインの製造で顧客の要望に応えてきた。今後は培った技術をさらに深掘りし新規案件にも果敢に挑戦する意欲がみなぎっている。これからも異業種交流会など社外を飛び回り、パートナー企業を増やしていく考え。
創業131年の歴史を持つ同社。幻と呼ばれた戦闘機を完成させたベンチャー精神は、省人化機械などで現実のニーズに応える製品を生み出していく。
(敬称略)
(文=西部・増重直樹)
日刊工業新聞2017年6月20日/21日/22日/23日「不撓不屈」より抜粋