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【ペロブスカイト太陽電池誕生】episode9 きっかけ

宮坂力が起業したペクセル・テクノロジーズに手島健次郎が入社したことで色素増感太陽電池とペロブスカイトの接点は生まれた。では、その2つを組み合わせる研究はいつどのようにして始まったのか。(敬称略)

『色素増感太陽電池の研究で有名な教授がくる。とんちんかんなことを言ったらどうしよう』-。東京工芸大学大学院に進学した小島陽広は緊張していた。2005年夏、神奈川県厚木市にある同大厚木キャンパスの会議室。桐蔭横浜大学から宮坂力を迎え入れ、東京工芸大教授の白井靖男やペクセル・テクノロジーズに仕事場を移していた手島健次郎とともに、東京工芸大と桐蔭横浜大による共同研究について話し合っていた。その席で、色素増感太陽電池の知見をベースに、ペロブスカイトを使った太陽電池を研究する方針は固まった。

もっとも、この日のことについて、宮坂や手島は覚えていないという。ただ、いずれもこの頃からペロブスカイトを使った太陽電池を研究するため、小島が桐蔭横浜大の宮坂研に外部研究生として出入りを始めたと記憶している。では、その具体的なきっかけはどのように生まれたのか。つまりペロブスカイトを使って太陽電池を作ろうというアイデアはいつ誰が発案したのか。

小島は、手島がそうしたアイデアをもともと持っており、かつ太陽電池の研究に小島が高い関心を持っていたことから、ペクセルへの転職をきっかけに、小島がペロブスカイト材料を使った太陽電池を研究できるように環境を整えてくれたと認識する。また、手島と同じく05年4月にペクセルに入社した池上和志も「ペクセルに入社したタイミングで、手島さんはすでにペロブスカイトを使った太陽電池の研究が念頭にあったのでは」と証言している(#4)。

一方、手島はペクセルへの転職を検討したり、入社を決めたりした背景に、ペロブスカイトを使って太陽電池を作ろうという意図はなかったと振り返る。ペクセルは当時、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の「光充電型色素増感太陽電池」プロジェクトを受託しており、手島はその特任研究員として入社した。そのため、「入社後もペロブスカイト材料を使った太陽電池を自らが研究する考えはありませんでした」と語る。あくまで指導していた学生の小島が太陽電池の研究に高い関心を持っていたことから、宮坂研究室をつないだ認識だという。

ただ、東京工芸大でペロブスカイトの発光特性を研究している時に太陽電池の材料として応用できるイメージはあったかを問うと、手島は「組成の条件に依存しますが、よく光り、発光寿命が長い印象がありました。発光寿命が長いということは電子とホールが分かれた状態で、長い時間存在できるということです。そのため、電子を外に取り出せる(太陽電池の材料として機能する)のではないかというイメージはありました」とも答えている。

宮坂はペロブスカイトとの出会いをこう記憶している。

「手島くんに太陽電池の研究に関心がある学生がいるので会ってほしいと頼まれて紹介されたのが小島くんでした。そのとき小島くんに『ペロブスカイトという材料でとてもよく光ります』と紹介されました。初めて聞く材料だったので、よくわからないというのが正直な感想でした。ただ、手島くんが指導してきた研究テーマなので、チャンスを与えてもいいだろうと考えました。研究室では元々、学生の交流を積極的に行っていましたしね」

明確なきっかけは不明だが、手島がペクセルに転職したことでペロブスカイトと色素増感太陽電池の接点は生まれた。そして元来、学生同士の交流に積極的だった宮坂が手島の提案を受け、小島を研究室に迎え入れたことで研究は始まった。小島は宮坂研で色素増感太陽電池の作り方を習い、やがて色素をペロブスカイトに置き換えた太陽電池の作製を始める。

電流計の針が動いた

電流計の針は確実に動いていた。太陽電池を組成するとペロブスカイトが電解液に溶けてすぐに駄目になってしまう。ただ、組成したその一瞬ではあるのだが、電圧は上がり、電流が流れたことを小島は確認した。ペロブスカイトを使った太陽電池の作製を始めてそう時間は経過していなかった。わずかな期間で得られた成果だったため、小島は嬉しさと同時に色素増感太陽電池の器の広さを感じたという。

「太陽電池の研究に憧れていた自分にとってこれほど面白いことはありませんでした。嬉しくて仕方がなかったですね。ただ当時は、色素増感太陽電池の仕組み自体も深く理解していなかったこともあり、仮にペロブスカイト以外の材料で試しても同じように発電するものなのかとも思いました」

発電性能の正確な評価(I-Vカーブ/太陽電池が実際に作動している状態での電流Iと電圧Vの関係をグラフ化したもの)も宮坂研の測定装置を使って記録できた。手島はその報告を受けたときのことを覚えている。

「ペロブスカイトは電解液にすぐに溶けてしまうのでまともにI-Vを測定できません。測定できたデータを見せられたときはすごいなと思いました」

宮坂への報告は、研究室における2ヶ月に1度の報告会の場だった。宮坂は小島の報告にそこまで大きな驚きは感じなかったという。

「人工網膜の素子で研究した感光性材料でも応答が得られた(#2)くらいですから、ペロブスカイトもなんらかの応答はあるのかもしれないと思っていました。ただ、それでも難しい材料とは思いました。やはりとても不安定で、色素増感太陽電池に比べると変換効率も見劣りしていましたから」。

それから、小島はペロブスカイトに適した電解液の探索や、ペロブスカイトの原料の組成やその比率の最適化を進めていく。いかに安定性を高めるか。変換効率の向上も大きな課題だった。

2次元→3次元

東京工芸大厚木キャンパスにある10号館の実験室で小島は黙々と実験を進めていた。小島は太陽電池を研究する前、二次元(平面)構造のペロブスカイトにおいて、平面が二層重なった場所や三層重なった場所、四層重なった場所などがランダムに混じることで表れる光物性を調べていた。だから、太陽電池を作製する際も層厚がランダムに混じった二次元のペロブスカイトの膜を用いていた。そうした研究を通してある考察が浮かんだ。

「今でも正しいのかどうかは不明なのですが、電子とホールは層厚が厚い場所に移動し再結合して発光するイメージを持っていました。層厚が厚い場所に電子とホールが落とし込まれるなら平面の『層』が重なったものではなく、いっそ三次元(立体)構造を用いた方がよいのではと考えました」

小島が実験の状況を逐一伝えていたという手島は、太陽電池向けとして三次元の方が優位かもしれないと感じた別のきっかけを記憶している。

「ペロブスカイトの組成において(有機物である)メチルアミンの割合を増やすと三次元構造ができやすくなり、同時にメチルアミンの割合が多いほど変換効率が良さそうという実験結果が出ていました」

その後、小島は3次元の方が、吸収する光の波長が広いといった報告などを既存の論文で確認し、太陽電池の構成に3次元のペロブスカイトを用いるようになる。

ここで手島がペロブスカイトと出会ったCRESTの研究を思い出してほしい(#7)。そのタイトルは「自己組織化量子閉じ込め構造」だ。研究対象の中心は量子井戸を構成する二次元のペロブスカイトで、量子井戸が自動的にできる面白さに着目しつつ、その量子井戸における光物性を調査することに主眼が置かれていた。三次元のペロブスカイトは主にその比較対象と捉えられていた。その流れを受けた小島も二次元のペロブスカイトの発光特性を研究し、だからこそ、太陽電池を構成する際もそのまま二次元のペロブスカイトを使っていた。

ペロブスカイト太陽電池といえば、今では三次元のペロブスカイトを用いるのが一般的なのだが、小島の研究における二次元から三次元への飛躍は一つのブレークスルーだった。

小島はこうした研究を通して、色素の代わりにペロブスカイトを用いて太陽電池を機能させられるという一定の成果を出し、近く開催される学会でそれを発表することになった。06年4月に東京都八王子市の首都大学東京で開かれる第73回電気化学会がデビューの場に決まった。

証言者:小島陽広・手島健次郎・宮坂力・池上和志
主な参考・引用文献:『大発見の舞台裏で!―ペロブスカイト太陽電池誕生秘話』(宮坂力)/『電気化学会・第73回大会講演要旨集』
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葭本隆太
葭本隆太 Yoshimoto Ryuta デジタルメディア局DX編集部 ニュースイッチ編集長
ペロブスカイトは電解液にすぐに溶けて駄目になってしまうので、小島さんはI-Vカーブの測定には相当苦労されました。池上さんは宮坂研の学生らと共にその測定を手伝ったことを覚えているそうです。すぐに駄目になってしまう太陽電池なので、学生たちは自分が取り組む研究よりも成果は出ないと見込んで、気軽に手伝えていたのではとも話していました。

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