【ペロブスカイト太陽電池誕生】episode4 ペクセルに来た二人
宮坂力が立ち上げた大学発ベンチャー「ペクセル・テクノロジーズ」。その創業期に池上和志と手島健次郎は入社した。彼らはペクセルにそれぞれ大きな価値をもたらす。(敬称略)
『桐蔭横浜大学大学院工学研究科・特任研究員公募/色素増感を用いる光蓄電型太陽電池「光キャパシタ」の研究を担当するとともに、NEDOプロジェクトの特任研究員としてペクセル・テクノロジーズ社にも所属し開発研究を推進、担当する』―。日本化学会の学会誌『化学と工業』2004年12月号に掲載されたその求人に池上和志は、望みをつないでいた。
大学関係の仕事を求めて就職活動をしていたが、採用に至らず04年が終わろうとしている。「これが駄目だったらもう大学関係の仕事はあきらめようか」。筑波大学技官の任期満了が翌年3月に迫っていた。
池上は、高校時代に読んだ夏目漱石の『三四郎』をきっかけに研究者を志した。同著に登場する大学の研究員が地下室で光の研究をしており、その姿に漠然と憧れた。だから進学した筑波大で研究室を選ぶときは暗い研究室を探した。たどり着いた場所が、有機光化学を専門とする新井達郎助教授の研究室だった。暗幕がかかり赤い電気が灯る暗室のような研究室で、自ら有機化合物を合成し、レーザー装置を使ってその光応答を解析する研究を続け、博士号を取得した。
その後、任期3年を務めた筑波大技官の仕事では中・高校生を相手に科学教室の講師も務め、それにもやりがいを感じていた。だから科学を教えられる大学の職であれば、文系理系を問わずに応募していた。そうした中で見つけたのがペクセルの求人だった。
色素増感太陽電池の研究で「宮坂力」の名はすでに有名だったが、池上は知らなかった。求人の専門分野として「物理化学」が記載されており、自分の知見が生かせると期待して応募した。数十人の応募者との競争を勝ち抜き、採用が決まった。
それにしてもなぜ自分が採用されたのだろうか。あるとき池上はその理由を宮坂に聞いたことがある。答えは「君だけが時間を守ったから」。面接は30分で、これまでの研究の内容と今後の抱負を説明するよう求められたが、応募者のうち池上だけがちょうど30分で終えたというのだ。
冗談か本気かは未だによくわからないが、池上は「それ以来、講演を行うときなどは時間をきっちり守っています。宮坂先生はあまり守らないですけどね」と笑う。(宮坂は池上を採用した理由について筆者の取材に「光化学を理解しており、学生にその分野を指導してくれると期待したから」と答えている。)
能力がお金に変わる
ペクセルで池上が初めに与えられた仕事は、光を当てて物質の特性を測定する「レーザー分光」のための装置の立ち上げだった。宮坂はそれを人工網膜の研究(#2)に使おうと考えていた。ただ、注文した装置はすぐに届かない。そこで池上は色素増感太陽電池を研究する宮坂研の学生のために、その性能を効率よく測定できるソフトウエアを作った。研究室には当時、シリコン太陽電池の性能を測定するソフトウエアしかなかった。学生たちはそれを使って色素増感太陽電池の性能を測定していたが、二つの太陽電池の特性の違いからとても不効率な作業になっていた。
ゴールデンウィークに自宅でプログラムを書き上げ、学生たちに提供すると「とても使いやすい」と喜んでくれた。それを見た宮坂が提案した。
「ペクセルの商品として販売したらいいよ」
実際に6月に販売を始めたところ、注文が入った。その年だけで20社以上に納品した。池上は自分の能力をお金に換えられたことが新鮮で、やがて商品開発にのめり込んでいく。それから多くの商品を企画し、ペクセルの売り上げを支えてきた。09年に取締役に就任し、今や筆頭株主でもある。(桐蔭横浜大学でも講師、准教授を経て20年に教授に就任している)
「納品で多様な企業に足を運びました。そこで、研究者の視点で製品を説明できることが付加価値になると気付きました。また、そうした現場で研究者の声を直接吸い上げ、製品開発に生かす作業を続けました」
一方、入社当時は生活が苦しかった。駆け出しのベンチャー企業だったペクセルは、給与面などの待遇が良くなかったのだ。
「妹の初任給よりも安い給料で『博士号まで取って何をしているのか』と父に怒られました。企業としての信用力が低いから賃貸住宅を借りるのには苦労しましたし、クレジットカードは作れなかったですしね」。
それでもペクセルを辞めたいと思ったことは一度もなかった。「目の前で研究されている技術が世の中を変えるのだろう」。フィルム基板を使ったフレキシブルな色素増感太陽電池に、そうワクワクしていたからだ。
当時のワクワクを思い出すとき、池上の頭にはある情景が浮かぶ。05年3-9月に愛知県名古屋東部丘陵を舞台に開催され、2200万人以上が来場した「愛・地球博」。その展示エリアの一角にあった緑化壁だ。
生活にデバイスが溶け込む
05年7月某日の深夜。愛・地球博の会場では雨が降り続いていた。池上はペクセルの同期である手島健次郎とともに裏口から会場に立ち入り、宮坂研から自動車の荷台に乗せて運んだフィルム型色素増感太陽電池を設置していた。30cm幅のそれを緑化壁の葉っぱと交わるように設置し、裏側に配線ケーブルを伸ばした。発電量も計測できるようにした。
愛・地球博での展示は、桐蔭横浜大学の教授だった涌井雅之が会場演出総合プロデューサーを務めていた縁で得た機会だった。ペラペラの色素増感太陽電池を緑化壁の葉っぱと交わるようにセットするアイデアは宮坂の発案だ。
翌朝、色素増感太陽電池を展示した緑化壁を確認したとき、池上はその太陽電池に存在感を感じなかった。それが未来を思わせた。
「発電デバイスが人間の生活に調和して溶け込んでいく世界みたいなものを感じました」
宮坂は愛・地球博での展示について「同期入社の池上さんと手島さんという人間同士が親密になるイベントだった」と懐かしむ。池上も「自動車に乗って二人きりで現地に行きましたからね。確かに手島さんとより打ち解ける機会でした」と振り返る。
池上にとって手島は、もともと嫉妬心を抱く対象だった。自分の専門は光化学で、宮坂が専門とする電気化学は畑違いだった。宮坂の下で研究する内容も提案できていなかった。一方、手島は電気化学分野の大御所である千葉大学の小林範久教授の研究室出身だった。しかも、入社当時から宮坂の下でどのような研究をしたいのか、具体的なビジョンを持っているように見えた。
ペクセルに入社してすぐの05年4月だ。桐蔭横浜大に所属する若手研究者らが集まり、大学院生の前でそれぞれの研究を紹介する機会があった。池上はそこで過去の研究の話をしたが、手島はこれからの研究の話をしていた。
「宮坂研の色素増感太陽電池と、自分が発光特性を研究してきた〝材料〟を組み合わせられるのではないかと思っています」(※1)
手島が研究してきたという材料を池上は聞いたことがなかった。それは「ペロブスカイト」という名だった。
※1/05年4月に行われたという研究紹介の場は池上の証言に基づく。手島健次郎は筆者の取材に「覚えていない」と語っている。
証言者:池上和志・宮坂力・手島健次郎
主な参考・引用文献/『化学と工業』(2004年12月号)『大発見の舞台裏で!―ペロブスカイト太陽電池誕生秘話』(宮坂力)