アビガンはなぜ「特効薬」の座から滑り落ちたのか
「うたかた」という美しい言葉が日本語にある。『広辞苑』によると、「はかなく消えやすいことのたとえにつかう」とある。多くは、不老不死が叶わぬ人間の短い命に重ねて使われるが、近代科学の結晶とも言えるクスリにも、実は当てはまる。夢の特効薬と期待されて登場しながら、予期せぬ副作用などで市場からの退場をたちまち迫られた薬剤は枚挙に暇がない。今年の春、俄かに人口に膾炙した「アビガン」も、以降の形跡を辿る限り、うたかたのクスリで終わりそうな気配が強まっている。
新型コロナウイルスが引き起こす同ウイルス感染症の拡大が、国内外で一向に止まらない。特に国内の状況は、社会や経済への影響を最小限にしながら、感染拡大防止の効果を結果として最大化した「日本モデル」の勝利と胸を張ったのも束の間。わずかに都内に残っていた“燃えさし”から、再び全国へ伝播していく展開となっている。
突如、蘇った
幸いにして、足元の重症化率・死亡率が外国と比べて低く、人々のコロナ禍慣れも加わって、今年2月下旬から5月上旬くらいにかけて、世の中に張りつめていた緊迫感、切迫感のようなものはない。有効なワクチンや特効薬が依然として存在しないという不安も、本格的な「第2波」に襲われるまでは高まってこないのではないかと思われる。だが、春先は違った。新型コロナ感染症に効くクスリが闇雲に求められ、その狂乱の中でアビガンが突如、蘇った。
蘇ったと綴ったのは他でもない。アビガンはドラッグビジネス的には一度、「終わった」クスリだったからだ。開発したのは、感染症領域の創薬に伝統的に強かった旧富山化学工業(現、富士フイルム富山化学)と白木公康・富山大学名誉教授。「T705」の開発コードで、新しいインフルエンザ治療薬を目指して治験が進められた。当時、鳥インフルエンザウイルスH7N9型が猛威を振るい、さらに、代表的なインフルエンザ治療薬であったスイス・ロシュ社製の「タミフル」は耐性ウイルスを出現させやすいという点が医療現場から憂慮されていた。
そうしたなか、T705は純国産で、しかも薬理メカニズム的に耐性ウイルスの発生がまず考えられないことから、富山化学並びに同社と資本提携していた富士フイルムホールディングス(HD)の関係者は画期的な新薬になると、大いに期待を寄せていた。しかし、こうした想定の歯車は大きく狂い始める。
T705の動物実験で確認された「初期胚の致死並びに催奇形性の確認」という副作用への懸念が、治験の最終段階になっても払拭できなかったのだ。それでも富山化学は2011年に「A型またはB型インフルエンザウイルス感染症」の効能効果で医薬品医療機器総合機構(PMDA)に製造販売承認を申請する。
PMDAでは3年間という異例の審査期間を経た後、「新型又は再興型インフルエンザウイルス感染症(ただし、他の抗インフルエンザウイルス薬が無効又は効果不十分なものに限る。)」という効能効果でもってアビガンを承認した。
同時に留意事項として、国が必要と判断した場合にのみ患者への投与が検討されること、厚生労働大臣の要請がない限り製造販売を行わないこと、通常のインフルエンザウイルス感染症に使用されないよう厳格な流通管理が実施されること、などが富山化学に課せられた。要は、既存のインフルエンザ治療薬が全て効かなくなった時、国の保管・監視のもと、“最終防衛兵器”という形でのみ使ってよいという位置付けであった。
インフルエンザが流行する毎冬ごとに国民に多用される“ポスト・タミフル”になれば、という関係者の夢ははかなく破れた。同時に、アビガンの開発に投じた費用を回収するすべもなくなった富山化学は、富士フイルムHDのTOB(株式公開買い付け)を受け、非上場子会社として生き延びる道しか残されていなかった。
これらの経緯から、承認後、アビガンはアフリカで流行したエボラ出血熱の治療用に一瞬脚光を浴びた以外は、治療の現場では忘れ去られたクスリになった。19年には物質特許が切れたが、後発医薬品の製造販売に乗り出すジェネリックメーカーが皆無だったということが、このクスリの製薬業界内部での評価と立ち位置を証明していると言える。
首相周辺の前のめり
こうした過去を持つアビガンを、いきなり表舞台へと引きずり出したのは、安倍晋三首相と彼を輔弼(ほひつ)する“官邸官僚”だった。中国で緊急避難的に実施された新型コロナ患者へのアビガンの投与結果が「良好」らしいとの情報が伝わるや否や、2月29日に安倍首相自らが会見で、「アビガン」「カレトラ」「ベクルリー」の3つのクスリが新型コロナ感染症に対する有力な治療薬の候補だと挙げ、アビガンについては国の備蓄分を使って患者への投与をスタートしたと表明した。
そしてこの後、「溺れる者は藁をも掴む」の例えではないが、安倍首相周辺のアビガンに対する前のめり感は増していく。3月28日の会見で安倍首相は、「すでに症状の改善に効果が出ているとの報告もある」と強調したうえで、「正式承認に向けた治験プロセスを開始する」と踏み込んだ。4月7日の緊急事態宣言の発令後に開いた会見では、「アビガンの備蓄量を現在の3倍の200万人分まで拡大する」と宣言。20年度補正予算の中にアビガンの増備として139億円を付けた。さらに、緊急事態宣言の延長を決めた5月4日には、「今月中の承認をめざしたい」とまで言い切った。
有事とはいえ、クスリの科学的開発プロセスを無視する言動を国のトップが行った背景には、まずは純国産の特効薬を作りたいという保守政治家らしい願望があったようにみえる。加えて、テレビメディアを中心とする世論の押しがあった。タレントの石田純一さんや脚本家の宮藤官九郎さんなどが相次いで、アビガンが効いたという趣旨の体験談を公表。これをテレビがお茶の間に垂れ流したことから「早くアビガンを承認しろ」「国民全員に配れ」といった“アビガン救世論”が一気に高まり、その風を政権浮揚につなげようとした。
「極めて高い有効性」は示されず
ところが今度は、官邸が描いた想定の歯車が狂い始める。政府部内では、富士フイルム富山化学が3月末から開始した新型コロナ患者を対象とした企業治験と、藤田医科大学が3月上旬からスタートさせた特定臨床研究を文字通り、両にらみでウォッチし、特に藤田医科大の中間解析で「極めて高い有効性が示されれば」(加藤勝信厚生労働相)薬事承認に踏み切ろうとしていた。
しかし現実は、官邸にはつれなかった。富士フイルム富山化学の企業治験は、偽薬(プラセボ)が投与される可能性がある試験プログラムへの参加を拒む患者が少なくなく、当初から難航。藤田医科大学の特定臨床研究も中間解析の段階で官邸が期待した「極めて高い有効性」は示されなかった。
政府部内も、一枚岩ではなかった。アビガンの推進に比較的前向きな経済産業省に対し、薬事行政の責任を担う厚生労働省は終始、消極的であった。アビガンが「劇的に効いた」という症例が一向に集まらない一方で、副作用の催奇形性を念頭に、戦後、最も深刻な薬害をもたらし、映画『典子は、今』でも知られるサリドマイド禍の再来を強く懸念したためだ。
さらにこの間、自民党の有力支持団体である日本医師会からも異論が出される。日医の有識者会議が「有事だからエビデンスが不十分でもいいということには断じてならない」と、官邸の動きに釘を刺したうえで、薬事承認にはあくまで「ランダム化比較試験」が必要であり、「『科学』を軽視した判断は最終的に国民の健康にとって害悪となり、汚点として医学史に刻まれる」と強い言葉で警鐘を鳴らした。
いずれにせよ、このような想定外の流れを受けた官邸は、アビガンに託そうとした政治的な夢を断念した。6月以降、安倍首相の口からは、血税を投入したにもかかわらず、アビガンという言葉が発せられなくなった。無論、経緯の説明すらされていない。何とも無責任な姿勢だ。
因みに、新型コロナに対する特効薬づくりという科学的な夢という面でも、藤田医科大が7月10日、特定臨床研究の最終報告において「ウイルスの消失や解熱に至りやすい傾向が見られたものの、統計的有意差には達しませんでした」と結論付けたことで、とりあえず、ピリオドが打たれた。
明らかになっていない力が?
現在、富士フイルム富山化学では、新型コロナ患者を対象とした企業治験を海外で別途実施し、アビガンの適応拡大の道をなお探ろうとしている。抗血栓薬「フサン」とアビガンを重症患者に併用投与する国内研究で、9割の患者で症状が軽快したとの報告も出ている。アビガンにもしかしたら、まだ明らかになっていない力が発見されるかも知れない。
実際、“悪魔のクスリ”とさえ呼ばれたサリドマイドもその後の研究の結果、血管新生阻害作用があることが分かり、08年から国内でも多発性骨髄腫の治療薬として厳格な流通管理のもと販売されている。このように、クスリの世界は奥深い。だからこそ、クスリという知の結晶を毒へとおとしめず、その正しい価値を決めるのは、科学に徹頭徹尾、正対する道しかないということを、関係者は今回、改めて胸に刻むべきだろう。
(文=ジャーナリスト・井上正広)