産学連携で成功してきた化学研究たちの舞台裏
研究姿勢から連携のあり方を探る
工学などの役に立つ技術を志向する実用研究が岐路にある。国は産学連携の大型化や組織化を推進する。大学などが技術を開発してからユーザーを探すのではなく、産業界と技術課題を整理してから技術を戦略的に開発していくことで成功率を上げる。技術マーケティングの機能強化が求められている。化学では産学連携で成功してきた研究者が少なくない。その研究姿勢から連携のあり方を探る。(文=小寺貴之)
「企業との研究は“悪”だといわれていた時期があった。そのため産学連携について公では話していなかった」と名古屋大学の岡本佳男特別招聘(しょうへい)教授は1970―80年代を振り返る。岡本教授はダイセルと、右手と左手のような鏡像異性体(キラル分子)を分ける技術を開発した。この技術はキラル分子の純度を測るために欠かせない技術になった。ダイセルはキラル分離カラムの市場を独占。東京大学の野崎京子教授は「有機合成の研究室には必ずキラルカラムがある。化学研究の必需品」と説明する。
キラルカラムを使ったキラル分子の合成研究からいくつもノーベル賞や受賞候補とされる研究が生まれた。野崎教授は「合成研究は分離技術があるから成立している。なぜ合成研究より先に評価されていないのか不思議なくらい」と評価する。
岡本教授とダイセルの連携は完全な分業型といえる。大学の役割はキラル分離用の高分子を作るまでに留め、企業の製品化には口を出さない。岡本教授は「技術を売るのは難しい。ビジネスの邪魔にならないように事業には注文を付けなかった」と振り返る。
ダイセルだけでなく製薬会社などのキラル分離カラムのユーザーとも研究したが目的は聞かなかった。「製品開発は大学とは桁違いの資金が必要。ビジネスは企業に任せて触れないからこそ、基礎研究では自由に情報交換ができた」という。古きよき日本式の連携で成功した。知財契約などは曖昧だが、ダイセルは岡本教授を継続的に支援してきた。
大学の研究が実用化される場合、産と学で分業することが多かった。ただうまくいった例は少ない。大学研究者が自身の好奇心に任せて新しい技術を開発し、特許にしてからユーザーを探す例が多い。
中部大学分子性触媒研究センターの山本尚センター長・教授は「技術を開発して後から用途を考えるアプローチはうまくいかない」と指摘する。山本教授はルイス酸触媒の反応体系を確立した。医薬品や化成品など幅広い化学プロセスに用いられている。
山本教授は課題追求型の研究と純粋研究の双方で成功した研究者だ。課題追求型は初めに技術課題を整理し、解決法を定めてから必要な技術を研究する。民間企業の課題に限らず、人類の存続に関わる国連の持続可能な開発目標(SDGs)などもテーマになる。課題を解くためには化学に限らず「生物や物理などの幅広い知見が必要になる。すり合わせも求められるため日本の強みが生きる」と説明する。
対して純粋研究は研究者の好奇心や自由な発想で進められる。純粋研究は何を研究するかが最も難しい。「研究テーマを考えることに10年かけてもいい。解決にはさらに10年かける意義がある」という。基礎研究は問題を解くことだけでなく、問題を作ることが重要だ。「絶海の孤島に灯台を建てるような仕事だ。光が当たれば、そこが漁場になり、研究者が参入してくる」と説明する。
課題追求型でも純粋研究でもない中途半端な研究は技術移転などの効率を下げる。山本教授は製薬や化学、自動車などのコンサルティングで民間企業とのつながりを築いてきた。現在も8社のコンサルを務める。コンサルは「企業の技術者が現場で何を考えているか勉強になる」という。
例えば製薬会社のコンサルでは原薬合成や製剤化のプロセスにどんな問題があるか情報が集まる。触媒研究には単純に純度や収率を競うだけでなく、プロセス条件に適した触媒という切り口が見つかる。自動車メーカーのコンサルは20年間務めた。自動車メーカーは化学会社を呼んで課題を与えて技術開発を競わせる。塗料や樹脂、冷媒などさまざまな材料がコンペになった。
「試行錯誤の上澄みを聞けた。私は最も民間のニーズを聞いてきた化学研究者だと思う。これが研究を支えてきた」と振り返る。
岡本教授のキラル高分子、山本教授のルイス酸触媒は、いずれも本人の好奇心が発端だ。優れた技術や知見をもつ研究者には民間の課題が集まる。現在の産学連携の組織化は、現場課題と大学研究者を結び付ける役割がある。学術界の先人が見つけた未解決問題に挑む研究も意義はあるが、産業界の課題を解きながら未解決問題を探し、その先鞭(せんべん)をつけることにも意義がある。
現場には基本原理まで立ち返らないと現象を理解できない課題が残っている。民間の技術者は目標性能に追われて原理解明まで注力できないこともあり課題には困らない。大学と企業が組織的に連携すると課題追求型研究や純粋研究に新しい視点が導入される。
物質・材料研究機構の橋本和仁理事長はこの組織連携を業界単位に広げる。業界の共通課題になる基礎研究や研究手法の開発を複数の企業と物材機構が連携して進める。さらに橋本理事長は「国際的に日本への期待が増している」と指摘する。中国の急伸で欧州や米国の研究者はアジアでは日本よりも中国を相手にしていた。
ただ中国が大国として振る舞うようになると、先進国は大国に振り回されないようにパートナーシップを組んでいく必要がある。「ここ1―2年で認識が大きく変わった。日本は国際連携を戦略的に進める好機にある」という。橋本理事長自身も東大で光触媒の産学連携を成功させてきた。
工学系の研究者にとって海外を含めて連携の幅が広がっている。組織連携で現場の課題を収集したり、分業して信頼できる企業に実用化を任せたりと選択肢は増えている。産業競争力につなげることが期待される。
かつては“悪”
「企業との研究は“悪”だといわれていた時期があった。そのため産学連携について公では話していなかった」と名古屋大学の岡本佳男特別招聘(しょうへい)教授は1970―80年代を振り返る。岡本教授はダイセルと、右手と左手のような鏡像異性体(キラル分子)を分ける技術を開発した。この技術はキラル分子の純度を測るために欠かせない技術になった。ダイセルはキラル分離カラムの市場を独占。東京大学の野崎京子教授は「有機合成の研究室には必ずキラルカラムがある。化学研究の必需品」と説明する。
キラルカラムを使ったキラル分子の合成研究からいくつもノーベル賞や受賞候補とされる研究が生まれた。野崎教授は「合成研究は分離技術があるから成立している。なぜ合成研究より先に評価されていないのか不思議なくらい」と評価する。
岡本教授とダイセルの連携は完全な分業型といえる。大学の役割はキラル分離用の高分子を作るまでに留め、企業の製品化には口を出さない。岡本教授は「技術を売るのは難しい。ビジネスの邪魔にならないように事業には注文を付けなかった」と振り返る。
ダイセルだけでなく製薬会社などのキラル分離カラムのユーザーとも研究したが目的は聞かなかった。「製品開発は大学とは桁違いの資金が必要。ビジネスは企業に任せて触れないからこそ、基礎研究では自由に情報交換ができた」という。古きよき日本式の連携で成功した。知財契約などは曖昧だが、ダイセルは岡本教授を継続的に支援してきた。
大学の研究が実用化される場合、産と学で分業することが多かった。ただうまくいった例は少ない。大学研究者が自身の好奇心に任せて新しい技術を開発し、特許にしてからユーザーを探す例が多い。
課題追求・純粋研究を両立
中部大学分子性触媒研究センターの山本尚センター長・教授は「技術を開発して後から用途を考えるアプローチはうまくいかない」と指摘する。山本教授はルイス酸触媒の反応体系を確立した。医薬品や化成品など幅広い化学プロセスに用いられている。
山本教授は課題追求型の研究と純粋研究の双方で成功した研究者だ。課題追求型は初めに技術課題を整理し、解決法を定めてから必要な技術を研究する。民間企業の課題に限らず、人類の存続に関わる国連の持続可能な開発目標(SDGs)などもテーマになる。課題を解くためには化学に限らず「生物や物理などの幅広い知見が必要になる。すり合わせも求められるため日本の強みが生きる」と説明する。
対して純粋研究は研究者の好奇心や自由な発想で進められる。純粋研究は何を研究するかが最も難しい。「研究テーマを考えることに10年かけてもいい。解決にはさらに10年かける意義がある」という。基礎研究は問題を解くことだけでなく、問題を作ることが重要だ。「絶海の孤島に灯台を建てるような仕事だ。光が当たれば、そこが漁場になり、研究者が参入してくる」と説明する。
課題追求型でも純粋研究でもない中途半端な研究は技術移転などの効率を下げる。山本教授は製薬や化学、自動車などのコンサルティングで民間企業とのつながりを築いてきた。現在も8社のコンサルを務める。コンサルは「企業の技術者が現場で何を考えているか勉強になる」という。
例えば製薬会社のコンサルでは原薬合成や製剤化のプロセスにどんな問題があるか情報が集まる。触媒研究には単純に純度や収率を競うだけでなく、プロセス条件に適した触媒という切り口が見つかる。自動車メーカーのコンサルは20年間務めた。自動車メーカーは化学会社を呼んで課題を与えて技術開発を競わせる。塗料や樹脂、冷媒などさまざまな材料がコンペになった。
「試行錯誤の上澄みを聞けた。私は最も民間のニーズを聞いてきた化学研究者だと思う。これが研究を支えてきた」と振り返る。
岡本教授のキラル高分子、山本教授のルイス酸触媒は、いずれも本人の好奇心が発端だ。優れた技術や知見をもつ研究者には民間の課題が集まる。現在の産学連携の組織化は、現場課題と大学研究者を結び付ける役割がある。学術界の先人が見つけた未解決問題に挑む研究も意義はあるが、産業界の課題を解きながら未解決問題を探し、その先鞭(せんべん)をつけることにも意義がある。
国際連携 戦略的に推進を
現場には基本原理まで立ち返らないと現象を理解できない課題が残っている。民間の技術者は目標性能に追われて原理解明まで注力できないこともあり課題には困らない。大学と企業が組織的に連携すると課題追求型研究や純粋研究に新しい視点が導入される。
物質・材料研究機構の橋本和仁理事長はこの組織連携を業界単位に広げる。業界の共通課題になる基礎研究や研究手法の開発を複数の企業と物材機構が連携して進める。さらに橋本理事長は「国際的に日本への期待が増している」と指摘する。中国の急伸で欧州や米国の研究者はアジアでは日本よりも中国を相手にしていた。
ただ中国が大国として振る舞うようになると、先進国は大国に振り回されないようにパートナーシップを組んでいく必要がある。「ここ1―2年で認識が大きく変わった。日本は国際連携を戦略的に進める好機にある」という。橋本理事長自身も東大で光触媒の産学連携を成功させてきた。
工学系の研究者にとって海外を含めて連携の幅が広がっている。組織連携で現場の課題を収集したり、分業して信頼できる企業に実用化を任せたりと選択肢は増えている。産業競争力につなげることが期待される。
日刊工業新聞2019年5月15日