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売上高は20年間で半分程度に…「NECはどこへ行くのか」の答え

ターンアラウンド改革に着手
売上高は20年間で半分程度に…「NECはどこへ行くのか」の答え

NECの看板商品だったパソコン「9800シリーズ」。中国のレノボに売却した

NECは7月に創業120周年を迎える。平成時代の30年間は、ちょうど最後の4分の1に当たる。この間、トップ交代は6度あり、経営は時計の振り子のように大きく揺れた。連結売上高は2001年3月期にピークを迎えたが、ITバブルの崩壊や韓国、台湾などとの競争激化により、おおむね20年間で半分程度に縮小した。「NECはどこへ行くのか」とも言われ、迷走する中で、13年ころにターンアラウンド(方向転換)に着手。戦う場所と戦い方を変え、社会価値創造を目指す企業へと変貌を遂げている。

6度のトップ交代


 平成が始まった1989年、NECは80年以降の拡大路線のさなかにあり、ハイテク産業の雄として、バブル経済の波にも乗っていた。この成長をけん引してきたのは中興の祖でもある関本忠弘氏(当時社長)で、94年に経営を金子尚志氏に引き継いだ後も、会長として影響力を持ち続けた。

 だが、成長の階段を一気に駆け上がってきた反動は大きかった。連結売上高は01年3月期に5兆4097億円と、過去最高を記録したものの、急成長に伴う歪みが経営を圧迫していた。日米半導体摩擦や00年のITバブルの崩壊、半導体投資のリスク拡大などにより、バランスシートの毀損(きそん)が広がった。

          

 看板商品だったパソコン「PC9800シリーズ」の牙城も、世界規格の「DOS―V」の上陸や「ウィンドウズ95」の登場によって、きしみが生じ、さらに米デルによるBTO(受注生産方式)でのユーザーと直接結びつくビジネスモデルとの戦いも厳しかった。

拡大路線にブレーキ


 拡大路線にブレーキを掛けたのは99年にトップ(社長)に立った西垣浩司氏。赤字だった米国のパソコン事業や家電からの撤退、02年の半導体事業の分社化などの経営改革を相次ぎ断行し、業績を立て直した。

 ただ、改革に伴う社内での軋轢(あつれき)も大きく、改革半ばで西垣氏は03年に一線を退き、西垣氏と同じくITソリューション出身の金杉明信氏にバトンタッチした。金杉氏はIT・ネットワークの統合時代に向けて経営のかじを切った。“双子の赤字”と言われた半導体と携帯電話の両事業の再編でも奮闘していたが、病に倒れ、無念の降板となった。

 急きょ登板となったのは、ネットワーク出身の矢野薫氏。IT・ネットワーク統合のコンセプトを「次世代ネットワーク(NGN)」へと進化させ、新たな方向性を示した。

 だが矢野時代も激動だった。08年にリーマン・ショックに見舞われる一方で、子会社の不正会計を受けたガバナンス(企業統治)強化や、米ナスダック上場の廃止、半導体事業の切り出しなどに奔走した。

 大規模な構造改革を経て、経営を託されたのが遠藤信博氏(現会長)。遠藤氏は選択と集中を徹底し、NECのかつての顔でもあったパソコン事業や、インターネットサービスプロバイダー(ISP)の「ビッグローブ」事業を売却、スマートフォンからも撤退した。

 代わって、全社方針として13年に打ち出したのが「社会ソリューション事業」。技術・製品軸で分けていたビジネスユニット(BU)体制を業種軸を中心に再編し、情報通信技術(ICT)を活用して社会課題を解決する企業へのシフトを進めた。

 この路線を遠藤氏とともに推し進めてきたのが、16年に就任した新野隆社長。「NECの文化を変える」ことを掲げ、新成長へのギアチェンジに力を注ぐ。

日本産業界の縮図


 NECの経営改革の変遷は、日本のハイテク産業の栄枯盛衰の縮図と言える。80―90年代前半までは量産型のボリュームビジネスの全盛期。半導体がその象徴であり、設備投資の規模や市場シェアの占有率が勝負の決め手だった。

 だが、半導体投資のリスクは1社では負いきれないほどに膨らんだ。さらに韓国、台湾、中国勢の追い上げが年々激しくなり、半導体、パソコン、携帯電話と、いずれもトップを走っていたNECへのダメージは大きかった。

 選択と集中で問われたのは、競争が厳しく利幅の薄いハードウエア事業の存続問題。NECは粘り腰で相次ぐ難題を切り抜けてきた。結果として残ったのは、原点の「コンピューター&コミュニケーション(C&C)」に他ならない。その力を社会ソリューション領域に適用することは、国連の持続可能な開発目標(SDGs)や日本が掲げる「ソサエティ5・0」の方向性とも合致している。令和時代に飛躍するための発射台は整いつつある。

 「海外事業の権限と責任を一元化し、収益構造の立て直しを急ぐ」(新野社長)。海外事業はここ数年、営業赤字が続いている。ここにメスを入れるため、海外中心の事業を「グローバルBU」の傘下に束ね、一つの会社と見立てることで収益を明確化した。

 海外では「第2NEC」をつくる覚悟。このためGEジャパン(東京都港区)前社長の熊谷昭彦氏を副社長に迎え入れ、18年にグローバルBUのトップに据えた。

 熊谷副社長は「トップライン(売上高)よりも利益率だ。健全な利益率が出るのは、お客さまが付加価値を認めてくれていること。ソリューションカンパニーに生まれ変わるとは、まさにそういうことだ」と語る。第2NECはM&A(合併・買収)も含め、新しい血をいかに活用するかが問われている。
(日刊工業新聞・斉藤実)
                     
日刊工業新聞2019年5月2日

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