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ジョブズも孫正義も憧れたシャープ伝説のエンジニア死す

佐々木正さん「知恩・報恩が90―100歳における私の哲学だ」
ジョブズも孫正義も憧れたシャープ伝説のエンジニア死す

99歳当時の佐々木さん

―数えで100歳の節目の年。著書『生きる力 活かす力』には「100歳現役」とあります。
 「100歳万歳でゴールと思っていたが、やりたい仕事が片づかない。人は60歳の還暦が一つの周期で、次は120歳。あと20年ある。だが幸い2020年は東京オリンピックが開かれる。これを見てからという目標ができた。生きる力とあるが、私は社会に助けてもらい、活(い)かさせてもらっているという観念が強くなった。これを社会の恩とし、この恩をよく知れば恩に報いて暮らすことができる。知恩・報恩が90―100歳における私の哲学だ」

 ―価値観が違うから価値があるとし、複数で新たな価値を生む思想「共創」を説いています。
 「人間は結婚し、はじめて一人前。結婚生活は相手をよく理解することが必要。人類が長生きするための一番大切な共創で、家庭という同じ場で互いが理解し合い、次の世代につなぐ。共創の観点では科学は進歩の途中。成功している人は大抵、共創がある。一人でやっているということはなかなかない」

 ―共創の対義として独創や、オンリーワンという言葉がありますね。
 「理研の論文問題。あれは共創者がいない。日本全体が今、非常に悪い方向。直さないといけないと思っている。今、英語の学位論文は最後に『アクノレッジメント(謝辞)』がなかったり、あっても言葉が少ない。自分で独創しているだけで、上の人に感謝がない。感謝する人の目を通していれば、あのようなものは出てこなかった。シャープの論文なんかみても『コンクルージョン(結論)』になっている。恩に報ずる気持ちがあればと思う」

 ―活力の源は。
 「腹八分目が長生きの秘訣(ひけつ)。腹いっぱいだと欲が無くなり、消化に時間がかかる。仕事も一緒。人類のために解決したいことが二つ残っている。高齢者が避けられないがんをなくすことと、車イスに乗らずに済む足になるための方法を発明したい」
(聞き手=大阪・松中康雄)

日刊工業新聞2014年5月26日


【プロフィル】
38年(昭13)京大工卒。神戸工業(現富士通)取締役を経て、シャープ副社長、同顧問、ソフトバンク相談役などを歴任。11年新共創産業技術支援機構理事長。電卓の生みの親。液晶や太陽電池などの開発に関わり、半導体産業の礎を築く。島根県出身。

『ロケット・ササキ』


 エレクトロニクス分野において高度成長を牽引した日本人の“偉人”といえば、誰を思い浮かべるだろうか? 松下幸之助、井深大、盛田昭夫といった名前はすぐに出てくるはず。しかし、一般的な知名度はそれほど高くないが、電子立国日本の礎を築いた「伝説のエンジニア」と称される人物がいる。佐々木正さんだ。

 佐々木さんは、主にシャープの技術担当専務として活躍。同社副社長に就いた後、ソフトバンク顧問などを務めた。1915年生まれで現在101歳。「電卓の父」「電子工学の父」などと称される。『ロケット・ササキ』(新潮社)は、元日経記者のジャーナリストが、その佐々木さんの足跡をたどる評伝だ。

 「ロケット・ササキ」というのは、佐々木さんの次から次へとスピーディに湧き出る着想力に、当時小型電卓用LSIを共同開発していた米国人エンジニアが「戦闘機のスピードでは追いつけない」としてつけたあだ名。1960~70年代、電卓の小型軽量化、高性能化は日本メーカーの独壇場であり、中でもシャープとカシオの2社がしのぎを削っていた。佐々木さんはMOS-LSI、液晶、太陽電池といった新技術をきわめてゆく。そして当初はテーブルを占領していた電卓をポケットに入るサイズにまで小さくし、シャープを日本を代表する電機メーカーの一つに押し上げた。

 だが、佐々木さんの真の偉大さは、そのロケット並みの着想力や、電卓やその関連技術の開発だけにあったわけではないようだ。彼の生涯のモットーは「共創」。シャープ(当時は早川電機)に入社早々、佐々木さんは部下に対し次のように諭している。
「いいかい、君たち。分からなければ聞けばいい。持っていないなら借りればいい。逆に聞かれたら教えるべきだし、持っているものは与えるべきだ。人間、一人でできることなど高が知れている。技術の世界はみんなで共に創る『共創』が肝心だ」

 終戦直後にGHQの要請で米国に渡り、一線の技術者に教えを乞うて技術を学ぶとともに人脈を築き、「共創」の精神を身につけた佐々木さん。1964年に懇願されてシャープに入社した頃には、国内外に信じられないほど豊かな人脈と見識を有していたという。部下が何か課題について相談すると、「それなら○○社の誰それに聞けばいい」と言いながらその場で電話をかける。まさにロケット級のスピードだ。

 また佐々木さんはソフトバンク孫正義社長の「大恩人」としても知られる。創業資金調達に困っていた孫さんを銀行に紹介し融資の手引きをしたのだ。まだどこの馬の骨ともしれない若者に、大銀行が「佐々木さんが言うなら」と異例の1億円の融資を行った。

 スティーブ・ジョブズとのエピソードも強烈だ。アップルを追われたジョブズはすぐに「シャープのササキ」に会うために来日。佐々木さんに「次に何をするか」を相談し、そこで後のiPod、iTunes、iPhoneのアイデアを話した。さらに、佐々木さんのアドバイスで、天敵だったビル・ゲイツとの「共創」(アップル復帰後にマイクロソフトと提携)が実現したというのだ。

ロボホンに目を細める


 佐々木さんの言う「共創」は、1998年にエリック・レイモンドらが提唱し確立した「オープンソース」にも通じる。企業間の壁を取り払い、業界全体での技術の進歩をめざす。佐々木さんは、ライバルの松下電器(現パナソニック)に出向き同社の社員向けの講演をしたこともある。サムスンに求められて技術提携をした時には「国賊」呼ばわりもされた。だが佐々木さんは「サムスンが日本に追いつくのなら、日本はその先へ行けばいい」と、まったく後悔しなかったという。

 こうした、常に前を向き、業界や日本、そして世界の産業全体を俯瞰する「共創」のDNAは、佐々木さんが一線を退いた後のシャープにはほとんど残されなかったようだ。“ササキ後”のシャープは、液晶事業のみに注力し、技術を社内に囲い込む「ブラックボックス戦略」をとった。「共創」とは真逆の方向性だ。

 佐々木さんが活躍した当時のシャープには「スパイラル戦略」があった。一つの製品や技術のヒットに安住せず、その技術を他に応用して新市場を開拓していく、というものだ。同社では電卓の開発にともない手に入れた液晶の技術を、ビデオカメラのファインダーに応用して「液晶ビューカム」のヒットにつなげた。その後、さらにパソコンやスマホに応用することで「液晶のシャープ」を謳歌するようになるのだ。

 しかし、シャープはそこで止まってしまい、「オンリーワン」と称して液晶技術のみを追求するようになる。佐々木さんのように、常に前向きにロケットのように着想していく姿勢はほとんど見られなくなった。その後のシャープの凋落ぶりは誰もが知る通りだ。

 佐々木さんの「共創」の精神は、シャープ以外に受け継がれたようだ。孫社長を見出し、後に顧問を務めたソフトバンク、ゲームにシャープの液晶技術を提供したことで成功への足がかりをつかんだ任天堂などには、ロケット・ササキのDNAが残されているのではないか。

 また、直接のつながりはなくとも、最近になって社会全体に「共創」への機運が高まっていると感じる。2016年2月には、リコーオムロン、SMBCベンチャーキャピタルの3社による、大企業とベンチャーの「共創」を支援する合同会社「テックアクセルベンチャーズ」が設立されている。

 『ロケット・ササキ』末尾のエピソードは感動的だ。シャープの現役技術者である景井美帆さんが、ある試作品を携えて佐々木さんのマンションを訪問。その試作品とは小型のヒト型ロボット「ロボホン」だ。今、シャープ起死回生の新商品として期待が集まるロボホンの愛らしい動きに佐々木さんは目を細める。ロボホンに使われているLSI、背中の液晶、電子翻訳ソフトなどは、すべて佐々木さんが主導して開発したものだ。そう、この小さなロボットには佐々木さんのこれまでの足跡が刻み込まれており、彼のDNAを次世代につなげる可能性を秘めたものだったのだ。
(文=情報工場「SERENDIP」編集部)

ニュースイッチ2016年06月27日


                 
明豊
明豊 Ake Yutaka 取締役デジタルメディア事業担当
液晶や小型電卓など数々の開発を導いてきた元シャープ副社長の佐々木正さんが1月31日に亡くなった。102歳だった。日刊工業新聞では4年前、99歳の時に著者登場のインタビューに応じてもらった。またニュースイッチでも話題になった「ロケット・ササキ」の書評も紹介している。鴻海傘下になり数字上は再建が軌道に乗りつつあるシャープの現状をどう思ってらっしゃったのだろうか。

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