化成品ビジネスの要「触媒」、基本体系を作った日本人の正体
中部大学分子性触媒研究センターの山本尚センター長・教授、ルイス酸触媒の反応を確立
触媒化学は日本が強い研究分野だ。触媒一つで化学反応の効率やコスト競争力が大幅に向上する。機能性材料や新薬の開発を支える存在だ。化成品の商売が成り立つかどうかは良い触媒があるかどうか、といっても過言ではない。数多くの触媒が研究されてきたが、その基本体系の一つを作った日本人がいる。中部大学分子性触媒研究センターの山本尚センター長・教授はルイス酸触媒の反応を確立した。電子の授受を巧みに設計し、精密な有機合成を実現した。現在はペプチド合成やフロー精密合成の研究に力を注ぐ。どちらも産業構造を大きく変えうる技術と期待される。(小寺貴之)
「世の中のほぼすべての物質が酸か塩基でできている」と山本教授は説明する。一般に酸とは水に溶かすと水素イオンのプロトンを出す物質を指す。ただプロトンを使う反応は一部に過ぎない。化学では酸と塩基の概念をより広く捉えて、電子対を受け取る物質を「ルイス酸」、電子対を与える物質を「ルイス塩基」と定義する。山本教授はルイス酸を使った化学反応を次々に開発した。
アルミニウムイオンに複数の有機化合物を配位させて、その立体障害を利用し目的の化学反応だけを起こす。右手と左手のように構造は違うが性質が似ていて分離できない化合物を正確に作り分けた。カギとなったのは活性化と立体選択を同時に実現した点だ。ルイス酸で電子対を引き抜いて目的の炭素を反応しやすい状態に活性化し、配位子の立体障害を利用して特定の位置関係でしか化合物同士が反応しないようにする。山本教授は「好奇心に任せて新しい反応に挑戦していった。アルミニウム以外にも50元素は試した。一つひとつ個性があり面白かった」と振り返る。ディールス・アルダー反応やアルドール反応、アリル化反応など、次々と化学反応を実現してルイス酸触媒の基本体系を構築した。
この触媒化学の知見を基盤として、現在はペプチドの高効率合成の研究を進めている。ペプチドはアミノ酸がつながった中分子だ。化合物を用いた低分子医薬品と生物の抗体を利用した抗体医薬品の次の創薬ターゲットとして注目されている。
低分子薬は生産の場がインドなどの新興国に移った。安価なジェネリック薬を集中生産して、世界に供給する仕組みができてしまった。抗体薬は培養細胞によって作られ、英国や韓国、日本などが生産投資を進めてきた。だが抗体やたんぱく質の機能は全体の数%のアミノ酸配列で決まる。この肝となる部分をペプチドで再現できてしまうと、薬の設計や生産方法のパラダイムが大きく変わる。
そして日本の触媒研究の強みが生きる。例えば低分子薬の合成では、化合物ごとにさまざまな合成経路が設計され、多数の反応と触媒を組み合わせる。強力な触媒の特許を一つ持っていても、他の合成経路を採れば回避されてしまう。だがペプチドは基本的にアミド結合の繰り返しだ。人間は20種のアミノ酸しか使っていない。つまり一つの触媒の価値が大きく、有限の組み合わせを抑えれば強固な特許網を作れる。
山本教授は世界で初めて一般性のあるペプチド連結反応を実現した。収率や立体選択性は99%以上だ。現在50アミノ酸がつながったペプチドは1グラム1億円とされる。山本教授は「1グラム1万円になれば新しい地平線が見えてくる。新技術で材料費は現行の100分の1になる。精製費も圧倒的に抑えられる」と自信を見せる。
価格が下がればペプチドが医薬品として成立するため新薬開発が一斉に始まる。数ペプチドのライブラリーは簡単に構築でき、医学研究者が抱える標的たんぱく質との相互作用解析が第一歩になる。公的研究機関が主体となれば、民間主体では採算のとれなかった希少疾患に治療薬を届けられるかもしれない。科学技術振興機構(JST)はペプチド創薬で大型プロジェクトの立ち上げを目指す。
もう一つ力を注ぐテーマがフロー精密合成だ。多くのファインケミカル(精密合成)は反応を一段階ずつ進めるバッチ式で設計されてきた。一つの反応容器で原料と触媒、溶媒を混ぜて確実に反応を完了させる。これを連続生産可能なフロー式に転換する。固体触媒をカラムに詰め、原料を流すと生成物が出てくる。2015年に東京大学の小林修教授が抗炎症薬「ロリプラム」の完全フロー合成を実現し世界から注目された。端的にいえば蛇口をひねれば薬が出てくる。新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の山下勝主任研究員は「廃棄物を10分の1から100分の1に削減できる」と試算する。
医薬品製造は徹底した品質管理が求められ、合成コストより管理コストがはるかに大きい。バッチ式は反応ごとに管理が必要だが、フロー式は原料と生成物の管理に絞れる可能性がある。NEDOは19年度にフロー精密合成の大型プロジェクトを始める。NEDOの石塚博昭理事長(元三菱化学社長)は「実現すればファインケミカルの産業構造を大きく変える」と期待する。
山本教授はペプチド合成とフロー精密合成を組み合わせる計画だ。触媒が溶けない溶媒を選び、触媒の大部分が固体として存在するカラムをつくる。ごくわずかに溶け出す触媒が反応を起こし、すぐ固体に戻る。山本教授は「フロー式の開発は化学者だけでは難しい。機械工学など幅広い研究者と組む必要がある」と指摘する。
ルイス酸触媒を基礎として、ペプチド医薬品とその製造技術の開発が進む。JSTとNEDOの挑戦がものになれば、新薬の開発から生産プロセスまで日本で囲い込める可能性がある。勝負はこの3年だ。フロー合成は米国防高等研究計画局(DARPA)が年間1000万ドルを投資し、マサチューセッツ工科大学(MIT)が試作に成功した。欧州では15―20年で5800万ユーロが投資され、産学を挙げた研究が進む。日本の技術優位性を産業競争力に昇華できるか試される。
すべて酸か塩基
「世の中のほぼすべての物質が酸か塩基でできている」と山本教授は説明する。一般に酸とは水に溶かすと水素イオンのプロトンを出す物質を指す。ただプロトンを使う反応は一部に過ぎない。化学では酸と塩基の概念をより広く捉えて、電子対を受け取る物質を「ルイス酸」、電子対を与える物質を「ルイス塩基」と定義する。山本教授はルイス酸を使った化学反応を次々に開発した。
アルミニウムイオンに複数の有機化合物を配位させて、その立体障害を利用し目的の化学反応だけを起こす。右手と左手のように構造は違うが性質が似ていて分離できない化合物を正確に作り分けた。カギとなったのは活性化と立体選択を同時に実現した点だ。ルイス酸で電子対を引き抜いて目的の炭素を反応しやすい状態に活性化し、配位子の立体障害を利用して特定の位置関係でしか化合物同士が反応しないようにする。山本教授は「好奇心に任せて新しい反応に挑戦していった。アルミニウム以外にも50元素は試した。一つひとつ個性があり面白かった」と振り返る。ディールス・アルダー反応やアルドール反応、アリル化反応など、次々と化学反応を実現してルイス酸触媒の基本体系を構築した。
注目集める
この触媒化学の知見を基盤として、現在はペプチドの高効率合成の研究を進めている。ペプチドはアミノ酸がつながった中分子だ。化合物を用いた低分子医薬品と生物の抗体を利用した抗体医薬品の次の創薬ターゲットとして注目されている。
低分子薬は生産の場がインドなどの新興国に移った。安価なジェネリック薬を集中生産して、世界に供給する仕組みができてしまった。抗体薬は培養細胞によって作られ、英国や韓国、日本などが生産投資を進めてきた。だが抗体やたんぱく質の機能は全体の数%のアミノ酸配列で決まる。この肝となる部分をペプチドで再現できてしまうと、薬の設計や生産方法のパラダイムが大きく変わる。
そして日本の触媒研究の強みが生きる。例えば低分子薬の合成では、化合物ごとにさまざまな合成経路が設計され、多数の反応と触媒を組み合わせる。強力な触媒の特許を一つ持っていても、他の合成経路を採れば回避されてしまう。だがペプチドは基本的にアミド結合の繰り返しだ。人間は20種のアミノ酸しか使っていない。つまり一つの触媒の価値が大きく、有限の組み合わせを抑えれば強固な特許網を作れる。
山本教授は世界で初めて一般性のあるペプチド連結反応を実現した。収率や立体選択性は99%以上だ。現在50アミノ酸がつながったペプチドは1グラム1億円とされる。山本教授は「1グラム1万円になれば新しい地平線が見えてくる。新技術で材料費は現行の100分の1になる。精製費も圧倒的に抑えられる」と自信を見せる。
価格が下がればペプチドが医薬品として成立するため新薬開発が一斉に始まる。数ペプチドのライブラリーは簡単に構築でき、医学研究者が抱える標的たんぱく質との相互作用解析が第一歩になる。公的研究機関が主体となれば、民間主体では採算のとれなかった希少疾患に治療薬を届けられるかもしれない。科学技術振興機構(JST)はペプチド創薬で大型プロジェクトの立ち上げを目指す。
新薬実現へ低コスト化期待
もう一つ力を注ぐテーマがフロー精密合成だ。多くのファインケミカル(精密合成)は反応を一段階ずつ進めるバッチ式で設計されてきた。一つの反応容器で原料と触媒、溶媒を混ぜて確実に反応を完了させる。これを連続生産可能なフロー式に転換する。固体触媒をカラムに詰め、原料を流すと生成物が出てくる。2015年に東京大学の小林修教授が抗炎症薬「ロリプラム」の完全フロー合成を実現し世界から注目された。端的にいえば蛇口をひねれば薬が出てくる。新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の山下勝主任研究員は「廃棄物を10分の1から100分の1に削減できる」と試算する。
医薬品製造は徹底した品質管理が求められ、合成コストより管理コストがはるかに大きい。バッチ式は反応ごとに管理が必要だが、フロー式は原料と生成物の管理に絞れる可能性がある。NEDOは19年度にフロー精密合成の大型プロジェクトを始める。NEDOの石塚博昭理事長(元三菱化学社長)は「実現すればファインケミカルの産業構造を大きく変える」と期待する。
機械工学と連携
山本教授はペプチド合成とフロー精密合成を組み合わせる計画だ。触媒が溶けない溶媒を選び、触媒の大部分が固体として存在するカラムをつくる。ごくわずかに溶け出す触媒が反応を起こし、すぐ固体に戻る。山本教授は「フロー式の開発は化学者だけでは難しい。機械工学など幅広い研究者と組む必要がある」と指摘する。
ルイス酸触媒を基礎として、ペプチド医薬品とその製造技術の開発が進む。JSTとNEDOの挑戦がものになれば、新薬の開発から生産プロセスまで日本で囲い込める可能性がある。勝負はこの3年だ。フロー合成は米国防高等研究計画局(DARPA)が年間1000万ドルを投資し、マサチューセッツ工科大学(MIT)が試作に成功した。欧州では15―20年で5800万ユーロが投資され、産学を挙げた研究が進む。日本の技術優位性を産業競争力に昇華できるか試される。
日刊工業新聞2019年5月1日