グーグルが「教育界」に仕掛ける“焼き畑”戦略の行方
AI処理「独占」「開放」攻防
プラットフォーマーと呼ばれる巨大IT企業が教育界を動かしている。米グーグルはディープラーニング(深層学習)向けの計算資源を研究者向けに無償提供し、エッジ(現場)で使う深層学習用の小型ボードコンピューターも150ドル(約1万7000円)以下での提供を始めた。国内のITや組み込み業界への影響は計り知れないが、教育界にとっては優れた技術が安く手に入る。教育カリキュラムの再考が始まっている。
「新しい教育課程が始まってまだ1年たっていないが、研究環境が大きく変わる。早速カリキュラムのブラッシュアップを議論し始めている」と京都産業大学の平井重行准教授はうれしい悲鳴を上げる。京産大は2018年4月にコンピューター理工学部を情報理工学部に改組し、人工知能(AI)技術などを取り入れた新課程を始めたばかりだ。だが米グーグルの研究プログラム「グーグル・コラボラトリー」で深層学習用のスーパーコンピューターが実質的に使い放題になった。従来は学生一人ひとりに画像処理半導体(GPU)を積んだパソコンやサーバーを用意する必要があった。これが登録一つで12時間相当の計算時間を無償で使える。気軽に深層学習を授業の宿題として出せる環境になった。
東京大学の暦本純一教授は「コラボラトリーにつなぎ直せばまた使える。現状は、実質的に無限に計算資源が使える」と指摘する。暦本教授も授業で利用する予定だ。演習や宿題などで、実際に手を動かしながら深層学習を学べる。
東京通信大学の斉藤典明教授は「卒業研究の自由度が広がる」と期待する。同大は18年4月に開設した。通学はせず、働きながら講義を受ける大学だ。4年生は卒業研究を遠隔指導で取り組むため、個々の環境整備が課題だった。斉藤教授は「農業や漁業など、自身の仕事へAI導入を試し、新しいビジネスモデルを作るきっかけにしたい」という。暦本教授は「高校の授業で使うと効果的だ。学ぶより先に慣れる。Gメールでメールサービスが無償になったのと同様に、AIも当たり前に使われるようになる」と指摘する。
グーグルはコラボラトリーでクラウドの計算資源提供と並行し、エッジにも攻勢をかける。小型ボードコンピューター「Coral(コーラル)」のベータ版の提供を始めた。グーグルの深層学習「テンソルフロー」に特化した演算素子を載せた。注目はその価格だ。開発用ボードは約150ドル、入出力などが限られたUSBアクセラレーターは約75ドルで提供する。暦本教授は「普通の会社は競争できない価格だ。FPGA(プログラミングすることができるLSI)や組み込み業界が大きく揺れている」と指摘する。
プラットフォーマーが無償サービスや低価格デバイスで、市場を作りながら独占していく戦略は“焼き畑”に例えられる。利益を度外視したような戦略に対し、市場を奪い合う消耗戦を続けられる相手は少なく、多くの企業は戦うよりも連携を模索する。グーグルはGメールで人類が使う言葉のインデックスを手に入れ、コラボラトリーで膨大なデータやAIにデータを学習させた識別器へのアクセスを手に入れるとされる。識別器のライブラリーやストアを握れれば、幅広いサービスや業務システムに展開できる。コラボラトリーとコーラルでクラウドとエッジの両方でAI開発環境がそろい、テンソルフローの利用が増えると期待される。
大学はプラットフォーマーが整備する環境にあやかるだけではなく、いざという時の対抗勢力としての役割も期待される。市場を独占した後にプラットフォーマーのルールが実質的に業界や社会のルールになるリスクがある。ただプラットフォーマーによる焼き畑には、同じ規模のプラットフォーマーかオープンなプラットフォームしか対抗できなかった。オープンプラットフォームは短期的に投資を回収できなくても、大学や企業の有志が継続的に開発を続ける。
例えば米カリフォルニア大学バークレー校などが開発するオープンなコンピューターアーキテクチャー「RISC―V(リスクファイブ)」は、英アームなどによる独占や市場支配に対抗する目的がある。グーグルのコーラルと競合する小型ボードコンピューター「ラズベリーパイ」はリスクファイブをサポートした。
また組み込み業界は依然として装置メーカーが強い力をもっている。エッジをめぐって独占とオープン化が今後どう変遷するか予測し難い。
平井准教授は「グーグルは寡占リスクが叫ばれても、優れたプラットフォームをオープンに開いていればエンジニアは自然と寄り添うという信念がある」と指摘する。
日本はAIの開発競争ではエッジに勝機を見いだしている。17年にまとめた「人工知能技術戦略」で、日本からプラットフォーマーを育てるよりも、すでにある現場の強みを生かすことに重きを置いた。AI用演算素子など、ハードの開発プロジェクトの多くがエッジでの利用を想定している。
そのエッジもプラットフォーマーたちの主戦場になり、少なくとも焼き畑の火は付いた。エッジに置くデバイスを守るのか、データやサービスを守るのか、炎が燃え広がる前に戦略を見直す必要性が出てきている。
技術戦略や計画を作る際、国という単位はすでにそぐわなくなっているのかもしれない。平井准教授は「いずれにせよキーテクノロジーはソフトに移った。その上でハードをデザインできている会社がどの程度あるのか」と懸念する。プラットフォームをしたたかに利用し、状況に応じて対抗勢力にもなる大学研究者らを通して、プラットフォーム競争の後の世界を生きる術を探す必要がある。
(文=小寺貴之)
グーグル、深層学習向け無償提供 研究開発「当たり前に」
「新しい教育課程が始まってまだ1年たっていないが、研究環境が大きく変わる。早速カリキュラムのブラッシュアップを議論し始めている」と京都産業大学の平井重行准教授はうれしい悲鳴を上げる。京産大は2018年4月にコンピューター理工学部を情報理工学部に改組し、人工知能(AI)技術などを取り入れた新課程を始めたばかりだ。だが米グーグルの研究プログラム「グーグル・コラボラトリー」で深層学習用のスーパーコンピューターが実質的に使い放題になった。従来は学生一人ひとりに画像処理半導体(GPU)を積んだパソコンやサーバーを用意する必要があった。これが登録一つで12時間相当の計算時間を無償で使える。気軽に深層学習を授業の宿題として出せる環境になった。
東京大学の暦本純一教授は「コラボラトリーにつなぎ直せばまた使える。現状は、実質的に無限に計算資源が使える」と指摘する。暦本教授も授業で利用する予定だ。演習や宿題などで、実際に手を動かしながら深層学習を学べる。
東京通信大学の斉藤典明教授は「卒業研究の自由度が広がる」と期待する。同大は18年4月に開設した。通学はせず、働きながら講義を受ける大学だ。4年生は卒業研究を遠隔指導で取り組むため、個々の環境整備が課題だった。斉藤教授は「農業や漁業など、自身の仕事へAI導入を試し、新しいビジネスモデルを作るきっかけにしたい」という。暦本教授は「高校の授業で使うと効果的だ。学ぶより先に慣れる。Gメールでメールサービスが無償になったのと同様に、AIも当たり前に使われるようになる」と指摘する。
グーグルはコラボラトリーでクラウドの計算資源提供と並行し、エッジにも攻勢をかける。小型ボードコンピューター「Coral(コーラル)」のベータ版の提供を始めた。グーグルの深層学習「テンソルフロー」に特化した演算素子を載せた。注目はその価格だ。開発用ボードは約150ドル、入出力などが限られたUSBアクセラレーターは約75ドルで提供する。暦本教授は「普通の会社は競争できない価格だ。FPGA(プログラミングすることができるLSI)や組み込み業界が大きく揺れている」と指摘する。
プラットフォーマーが無償サービスや低価格デバイスで、市場を作りながら独占していく戦略は“焼き畑”に例えられる。利益を度外視したような戦略に対し、市場を奪い合う消耗戦を続けられる相手は少なく、多くの企業は戦うよりも連携を模索する。グーグルはGメールで人類が使う言葉のインデックスを手に入れ、コラボラトリーで膨大なデータやAIにデータを学習させた識別器へのアクセスを手に入れるとされる。識別器のライブラリーやストアを握れれば、幅広いサービスや業務システムに展開できる。コラボラトリーとコーラルでクラウドとエッジの両方でAI開発環境がそろい、テンソルフローの利用が増えると期待される。
大学、対抗勢力の役割 ルール・市場支配防ぐ
大学はプラットフォーマーが整備する環境にあやかるだけではなく、いざという時の対抗勢力としての役割も期待される。市場を独占した後にプラットフォーマーのルールが実質的に業界や社会のルールになるリスクがある。ただプラットフォーマーによる焼き畑には、同じ規模のプラットフォーマーかオープンなプラットフォームしか対抗できなかった。オープンプラットフォームは短期的に投資を回収できなくても、大学や企業の有志が継続的に開発を続ける。
例えば米カリフォルニア大学バークレー校などが開発するオープンなコンピューターアーキテクチャー「RISC―V(リスクファイブ)」は、英アームなどによる独占や市場支配に対抗する目的がある。グーグルのコーラルと競合する小型ボードコンピューター「ラズベリーパイ」はリスクファイブをサポートした。
また組み込み業界は依然として装置メーカーが強い力をもっている。エッジをめぐって独占とオープン化が今後どう変遷するか予測し難い。
平井准教授は「グーグルは寡占リスクが叫ばれても、優れたプラットフォームをオープンに開いていればエンジニアは自然と寄り添うという信念がある」と指摘する。
日本はAIの開発競争ではエッジに勝機を見いだしている。17年にまとめた「人工知能技術戦略」で、日本からプラットフォーマーを育てるよりも、すでにある現場の強みを生かすことに重きを置いた。AI用演算素子など、ハードの開発プロジェクトの多くがエッジでの利用を想定している。
そのエッジもプラットフォーマーたちの主戦場になり、少なくとも焼き畑の火は付いた。エッジに置くデバイスを守るのか、データやサービスを守るのか、炎が燃え広がる前に戦略を見直す必要性が出てきている。
技術戦略や計画を作る際、国という単位はすでにそぐわなくなっているのかもしれない。平井准教授は「いずれにせよキーテクノロジーはソフトに移った。その上でハードをデザインできている会社がどの程度あるのか」と懸念する。プラットフォームをしたたかに利用し、状況に応じて対抗勢力にもなる大学研究者らを通して、プラットフォーム競争の後の世界を生きる術を探す必要がある。
(文=小寺貴之)
日刊工業新聞2019年4月4日