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幻の航空兵器(上)国産初のジェット戦闘機「橘花」

幻の航空兵器(上)国産初のジェット戦闘機「橘花」

終戦間際に初飛行したジェット戦闘機「橘花」(富士重工業提供)


 1944年7月の「第4次遣独潜水艦作戦」では、日本はMe262の資料や本連載後半で紹介するロケットエンジンの資料を取り寄せた。同作戦で潜水艦はフランスの港からシンガポールまでは何とかたどり着いたものの、フィリピン沖で米軍の潜水艦に撃沈されてしまう。このため、事前にシンガポールで輸送機に乗り換えた海軍中佐が持ち帰った資料をのぞき、ほとんどが海の藻屑と消えた。

国産ジェット機、完成も・・・


 海軍中佐が持ち帰った資料は、エンジンの断面図などわずかしかなかったが、これをもとに中島飛行機が機体を、石川島重工業(現IHI) がエンジンを設計した。日本全土で敵機の空襲が本格化する中、工場を焼かれては設計室を移しながら、わずか1年弱で開発した。石川島のジェットエンジンは「ネ20」(ネは燃焼噴射推進装置の頭文字)。以前、陸軍や海軍が独自開発しようとしていたジェットエンジンに近いものがあった。

 そして1945年8月7日。木更津の地で、海軍のパイロットを乗せたジェット戦闘機「橘花」は飛んだ。といっても、当時は軍用の燃料でさえ払底していたため、「松根油を十六分間ぶんだけ満たした『橘花』は、(中略)操縦特性やエンジンの状態など、事前に決められたチェックを手早く済ませると、十二分間の飛行を終えて帰還した」(杉浦一機「ものがたり 日本の航空技術」より)。
 初飛行から5日後の12日には再び飛行試験に臨んだが、滑走路をオーバーランして脚部を破損。機体の修理中に終戦となった。

 実戦配備には間に合わなかった戦闘機「橘花」とジェットエンジン「ネ20」。この時期の日本の航空機産業に対して米国は、一定の評価を下している。45年の米海軍の報告書は、こう締めくくっている。「ネ―20はなかなか良い。BMW003Aは小型のターボジェットで最良のものだろうが、ネ―20を搭載した日本の飛行杭は軽量構造ゆえに、003Aエンジンを搭載したドイツのMe262と同等の性能をもつことに注目されねばならない」(前間孝則『ジェットエンジンに取り憑かれた男』)。
 戦後、米国やソ連は、ドイツからジェット戦闘機の技術を採り入れ、航空大国の地位を確立していく。

(「幻の航空兵器「下」は2日に掲載します)
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日刊工業新聞記者
日刊工業新聞記者
人も物資もお金も不足する中、日本の技術者はなおも最先端の航空機開発にチャレンジしました。終戦でこうした技術の系譜はいったん途切れてしまいますが、戦前の技術の蓄積は航空機以外の分野、例えば自動車や新幹線に展開されていったようです。

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