トヨタがスポーツを大切にする理由
創業者の豊田喜一郎氏は会社設立とともに運動部をつくった
トヨタ自動車の豊田章男社長は自らを「キャプテン」と表現する。年間販売台数1000万台超、従業員数約37万人の巨大組織「チームトヨタ」を引っ張る立場をスポーツに例えている。それは、トヨタがスポーツを大切にしている姿に重なる。創業者の豊田喜一郎氏は会社設立の1937年に陸上部もつくった。トヨタがスポーツに関わってきた歴史は長い。
「『トヨタらしさ』について考えるとき、忘れてはならないものがもう一つあります。それは、運動部です」。4月2日、愛知県豊田市のトヨタ自動車の本社で開いた入社式で豊田章男社長は、トヨタ生産方式(TPS)と原価低減を「トヨタらしさ」と説明した後、こう付け加えた。
豊田喜一郎氏は1933年、豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)に自動車部を立ち上げ、37年に分離独立してトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)を創立した。国産自動車の夢を抱き、知恵と情熱で苦しい時代を切りひらきながらTPSを生みだし、原価低減に磨きをかけた。
その喜一郎氏がなぜ会社設立とともに運動部をつくったのか。孫でもある豊田社長の解説が続く。「運動部の戦う姿に、クルマづくりに格闘する自分たちの姿、何より『トヨタらしさ』を重ね合わせていたのではないでしょうか」。
現在、トヨタの企業スポーツには強化運動部に7競技が指定されており、一般部も30部近くある。16年に都市対抗野球大会で初優勝した硬式野球、全日本実業団対抗駅伝競走大会(ニューイヤー駅伝)で15年と16年に2連覇した陸上長距離などが強化運動部。そのほかもラグビー、女子バスケットボール、女子ソフトボール、スケート(ショートトラック)、ビーチバレーボールと強豪ぞろいだ。
豊田社長と運動部には象徴的なエピソードがある。11年11月、タイで発生した大洪水への対応で現地入りしていた豊田社長のもとに、日本リーグの2連覇をかけて戦っていた女子ソフトボール部の試合経過の連絡が届く。その内容はゼロ対ゼロで延長戦となり、2点を失ったというものだった。
「負けたかな」「どんな言葉をかけようか」と豊田社長は考えはじめていたが、結果はその裏に3点を返して劇的なサヨナラ勝ち。この年は東日本大震災、タイの大洪水と経営を揺るがす大規模災害が続いていただけに、「会社が闘っている時だったからこそ、決してあきらめない姿に勇気づけられた」と振り返る。
7月には自動変速機(AT)などを生産する衣浦工場(愛知県碧南市)敷地内に、ビーチバレーボール部の新施設も完成した。同部は15年に設立したばかりで、国内初の企業チームでもある。国内トップクラスの7選手が所属し、ゼネラルマネージャー(GM)兼監督には日本ビーチバレーボール連盟会長でもある川合俊一氏を迎えた。
新施設は国内最大の全天候型インドアコート2面と、アウトドアコート2面を備えている。河合満副社長は「日本全体の企業スポーツの盛り上げと、地域振興への積極的な協力、そして社内および衣浦工場の一体感の向上に努めていく」と強調する。
世界的な人気種目のビーチバレーは20年に開かれる東京五輪の競技の一つ。川合GM兼監督は「20年には世界で戦える選手を輩出し、その4年後はメダルを取れる選手をこの場所から輩出するのが目標。着々と準備をしている」と言い切る。
トヨタ社員の名刺には五輪とパラリンピック、そしてスペシャルオリンピックスのロゴマークが印刷してある。五輪とパラリンピックでは15年にそれぞれ最高位スポンサーの契約を結び、17年には知的障害のある人たちのスポーツ大会などを主催するスペシャルオリンピックス国際本部(SO国際本部)と「グローバルゴールドパートナー」などを契約した。
豊田社長は学生時代にホッケーの日本代表にも選ばれた実力の持ち主。国際オリンピック委員会(IOC)とのスポンサー契約の際には「人生に豊かさをもたらすスポーツの力の偉大さを信じる者の一人だ」と語っている。さらに「20年の東京五輪は(スポンサー契約)10年間の活動の中心となる。未来へのショーケースとして、世界中の人々にモビリティーの可能性を伝えたい」と力を込める。
また、パラリンピックのスポンサーとなり、選手らとの接点が増える中でトヨタは自動運転の可能性を再認識した。「かっこいいスポーツカーに乗りたい」「私の未来を奪ったのは交通事故だったけど、未来を一緒につくってくれるのも自動車ですね」。そんな言葉に触れ、豊田社長は「すべての人に移動の自由をというときに、自動運転は大きな援助になる」と痛感した。
6月には元車いすバスケットボールの選手で、スポンサー契約時に国際パラリンピック委員会の会長だったフィリップ・クレイヴァン氏を社外取締役に迎え、その知見と経験を経営に生かしてもらっている。
「『トヨタらしさ』について考えるとき、忘れてはならないものがもう一つあります。それは、運動部です」。4月2日、愛知県豊田市のトヨタ自動車の本社で開いた入社式で豊田章男社長は、トヨタ生産方式(TPS)と原価低減を「トヨタらしさ」と説明した後、こう付け加えた。
豊田喜一郎氏は1933年、豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)に自動車部を立ち上げ、37年に分離独立してトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)を創立した。国産自動車の夢を抱き、知恵と情熱で苦しい時代を切りひらきながらTPSを生みだし、原価低減に磨きをかけた。
その喜一郎氏がなぜ会社設立とともに運動部をつくったのか。孫でもある豊田社長の解説が続く。「運動部の戦う姿に、クルマづくりに格闘する自分たちの姿、何より『トヨタらしさ』を重ね合わせていたのではないでしょうか」。
現在、トヨタの企業スポーツには強化運動部に7競技が指定されており、一般部も30部近くある。16年に都市対抗野球大会で初優勝した硬式野球、全日本実業団対抗駅伝競走大会(ニューイヤー駅伝)で15年と16年に2連覇した陸上長距離などが強化運動部。そのほかもラグビー、女子バスケットボール、女子ソフトボール、スケート(ショートトラック)、ビーチバレーボールと強豪ぞろいだ。
豊田社長と運動部には象徴的なエピソードがある。11年11月、タイで発生した大洪水への対応で現地入りしていた豊田社長のもとに、日本リーグの2連覇をかけて戦っていた女子ソフトボール部の試合経過の連絡が届く。その内容はゼロ対ゼロで延長戦となり、2点を失ったというものだった。
「負けたかな」「どんな言葉をかけようか」と豊田社長は考えはじめていたが、結果はその裏に3点を返して劇的なサヨナラ勝ち。この年は東日本大震災、タイの大洪水と経営を揺るがす大規模災害が続いていただけに、「会社が闘っている時だったからこそ、決してあきらめない姿に勇気づけられた」と振り返る。
7月には自動変速機(AT)などを生産する衣浦工場(愛知県碧南市)敷地内に、ビーチバレーボール部の新施設も完成した。同部は15年に設立したばかりで、国内初の企業チームでもある。国内トップクラスの7選手が所属し、ゼネラルマネージャー(GM)兼監督には日本ビーチバレーボール連盟会長でもある川合俊一氏を迎えた。
新施設は国内最大の全天候型インドアコート2面と、アウトドアコート2面を備えている。河合満副社長は「日本全体の企業スポーツの盛り上げと、地域振興への積極的な協力、そして社内および衣浦工場の一体感の向上に努めていく」と強調する。
世界的な人気種目のビーチバレーは20年に開かれる東京五輪の競技の一つ。川合GM兼監督は「20年には世界で戦える選手を輩出し、その4年後はメダルを取れる選手をこの場所から輩出するのが目標。着々と準備をしている」と言い切る。
トヨタ社員の名刺には五輪とパラリンピック、そしてスペシャルオリンピックスのロゴマークが印刷してある。五輪とパラリンピックでは15年にそれぞれ最高位スポンサーの契約を結び、17年には知的障害のある人たちのスポーツ大会などを主催するスペシャルオリンピックス国際本部(SO国際本部)と「グローバルゴールドパートナー」などを契約した。
豊田社長は学生時代にホッケーの日本代表にも選ばれた実力の持ち主。国際オリンピック委員会(IOC)とのスポンサー契約の際には「人生に豊かさをもたらすスポーツの力の偉大さを信じる者の一人だ」と語っている。さらに「20年の東京五輪は(スポンサー契約)10年間の活動の中心となる。未来へのショーケースとして、世界中の人々にモビリティーの可能性を伝えたい」と力を込める。
国際パラリンピック委員会元会長、社外取締役に起用
また、パラリンピックのスポンサーとなり、選手らとの接点が増える中でトヨタは自動運転の可能性を再認識した。「かっこいいスポーツカーに乗りたい」「私の未来を奪ったのは交通事故だったけど、未来を一緒につくってくれるのも自動車ですね」。そんな言葉に触れ、豊田社長は「すべての人に移動の自由をというときに、自動運転は大きな援助になる」と痛感した。
6月には元車いすバスケットボールの選手で、スポンサー契約時に国際パラリンピック委員会の会長だったフィリップ・クレイヴァン氏を社外取締役に迎え、その知見と経験を経営に生かしてもらっている。
日刊工業新聞2018年8月17日