ニュースイッチ

「昭和の羽田空港」は経済人の華やかな舞台だった!

日刊工業新聞 写真アーカイブス
「昭和の羽田空港」は経済人の華やかな舞台だった!

本田宗一郎氏(左奥)

 東京国際空港(羽田空港)は日本の、東京の玄関口。旅行、ビジネス、政府間交渉などで要人が往来する。1970年代以降、資本の自由化や日米貿易摩擦、日中国交回復といった国際案件が急増する。当時は、政財界の要人らが出国時や帰国時に羽田で記者会見することが多く、写真からは賑々(にぎにぎ)しい雰囲気が伝わってくる。

本田宗一郎


 71年2月4日、アメリカホンダのディーラー会議のため訪米していた本田宗一郎本田技研工業社長(左奥)が帰国し、空港で記者会見した。「10月までに全米に4輪車の販売網を整備し、月3000―4000台の対米輸出を狙いたい」などと述べた。

GM副会長


 米ゼネラル・モーターズ(GM)のジョージ・ラッセル副会長が70年3月13日に来日した。当時、同社の日本進出が取り沙汰されていたが、空港で取り巻いた記者団には、米国貿易緊急委員会の一員としての訪問であり、GM独自の問題では活動しないと語った。翌14日は大阪万博の開幕日だった。
             

フォード2世


 71年3月3日、自家用ジェット機で来日した米フォード・モーターのヘンリー・フォード2世会長。東洋工業(現マツダ)との提携交渉の途中での来日だった。空港特別室での会見では「提携交渉の実務は副社長に任せている」としながらも、近く合意の見通しを示唆した。
              

GM会長


 71年4月13日、米GMのJ・M・ローチェ会長(左)が、いすゞ自動車との提携協議のため来日した。空港のそばにある羽田東急ホテルで会見し、「『35%出資』を目標に、政財界首脳と十分協議したい」と述べた。7月16日に34・2%の出資で資本提携が結ばれ、三菱−クライスラーに次ぐ日本進出となる。
                 

日本経済人訪中団


 日中国交回復を前に、民間経済外交の総仕上げとして「日本経済人訪中団」(稲山嘉寛団長=新日本製鉄社長)の一行13人が、72年8月22日に中国に向け出発。経由地の香港で「互恵平等の道を探りたい」と稲山団長は決意を述べた。写真は羽田のロビーで手を振る稲山団長(前列右から2人目)ら。翌9月に田中角栄首相が訪中した。
               

経団連訪イラン使節団


 72年8月25日、経団連の「訪イラン経済使節団」(植村甲午郎団長=経団連会長)が出発した。当時、日本の石油消費量の約4割を供給する同国と、“日イ資源同盟”の強化を図るのが目的の一つだった。
                   

北朝鮮経済視察団


 72年10月21日に、北朝鮮から経済視察団(金錫鎮団長)一行7人が来日した。大手商社などで構成する日朝貿易会の招き。約3週間滞在し、東京、大阪、名古屋の産業界と貿易拡大について協議したほか、工場を見学した。
                 

中国科学技術訪日団


 73年3月27日に中国科学技術訪日代表団(楊嘉●団長〈●はつちへんに犀〉)の11人が来日した。一行は、中国との国交回復後、初代の駐日大使となる陳楚氏らとともに訪れた。当時の中国大使館は東京・紀尾井町のホテル・ニューオータニ内の仮事務所だった。
                
日刊工業新聞2018年7月2日
明豊
明豊 Ake Yutaka 取締役デジタルメディア事業担当
当時の日刊工業新聞には海外に取材に出かけた記者が帰国した際、「●●記者、帰国しました」という記事が掲載されていた。それほど「世界に出る」ことはまだ貴重な体験だった。

編集部のおすすめ