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チンパンジーに学ぶ、日本の生き残り方とは?

「バルブの日」特別対談・技術継承とイノベーションに向けて
チンパンジーに学ぶ、日本の生き残り方とは?

京都大学霊長類研究所の屋上から松沢さんが声をかけるとアイが現れ、呼びかけに答える

 3月21日は日本バルブ工業会(中村善典会長=金子産業社長)が制定した「バルブの日」。バルブはインフラ設備や産業プラントなどで流体制御の要として高い品質、安全性が求められる重要機器だ。バルブ産業に限らず、多くの産業が厳しい国際競争にさらされている今、これまでに培ってきた技術を継承し、さらにはイノベーションを起こせる技術者の育成が急がれている。これにはさまざまな視点からのアプローチが必要とされる。今回の「バルブの日」特別対談では霊長類研究の第一人者である松沢哲郎京都大学高等研究院特別教授を訪ね、バルブ産業と技術者教育のあり方を描くための手掛かりを探った。

京都大学高等研究院特別教授
京都大学霊長類研究所兼任教授
松沢 哲郎氏(まつざわ・てつろう)
 1950年生まれ。チンパンジーの心や生態の研究を通じ、人間の心や行動の進化的起源を探り、「比較認知科学」を開拓。2013年文化功労者。著書「想像するちから」(岩波書店刊)など多数。

日本バルブ工業会広報副委員長
奥津 良之氏(おくつ・りょうじ)
 1957年生まれ。アズビル・アカデミー技師長。日本工学会フェロー。計測自動制御学会フェロー。国際電気標準会議ではTC65/SC65B/JWG17で議長を務める。

伝統や自然-日本の「よさ」に着目


奥津 平成も終盤を迎え、工業製品は安い輸入品が増えました。バルブ業界も閉塞感を感じることがあります。産業全体に共通しますが、デジタル化・標準化の進展で製品間の違いが価格差だけとなってきています。
 今や競合国との間に技術の差はありません。次を担う技術者にイノベーション、新しい技術を育んでほしいのですが、技術者教育に取り組んでもすぐには成果は出てきません。どう活路を見いだせばよいのか、そのヒントを探しています。
松沢 次はアフリカが世界をけん引する時代になると思っていますが、すぐではありません。アフリカでは刻苦勉励はいけないことです。35度を超える日中に働くことはよくない。朝しっかり働き、お昼はゆっくり休む。そして夕方ちょっと働くのです。
 チンパンジーもそういう生活です。6時に起きて動きだして食事する。お昼は2時間ぐらい休みがあって、午後はまた移動する。夕方6時になると毎日ベッドを作って、12時間寝ます。
 人間本来は日が沈んだら寝て、朝日とともに起きるという暮らし方。日本人がイメージする働き方はアジア諸国にみられる刻苦勉励する働き方です。
奥津 怠けてはいけないという儒教的な働き方かもしれません。
松沢 背景にある文化、価値、伝統といったものがすごく大切で、日本人が持っている良い部分にもう一度目を向けてみることが必要です。匠の技、こだわりといったことはすごいと思います。
奥津 伝統を大切にし、勤勉な気質が影響しているのでしょう。
松沢 欧米にはサルがいません。霊長類学は北米・欧州主導ではなく、日本が世界に向けて発信してきた学問です。日本の持っている自然、文化の背景をうまく使えば、日本からの発信は可能性があると思います。

相対化してニッチ(生態学的地位)を認識


奥津 工業製品の世界は非常に厳しい状況です。さらに最近はデータのねつ造や規格外検査など、産業界からも残念な事件が続いてしまいました。
松沢 アフリカや欧州の人が日本に来て何がいちばん印象に残ると思いますか。
奥津 電車の定時運行などですか。
松沢 それ以上に、人々が列を作ってきれいに並んでいることに驚くのです。
奥津 それは日本のモラル、教育ですね。
松沢 街にゴミが落ちていない。列を作り、時間を守る。それらが日本人のとてもいいところで、そこに光を当てて、育成していく。そこでのモラルがしっかりあれば昨今のような不祥事はありえません。
 日本の文化的背景を相対化し、他国のこともよく知った上で自分の国のいいところはどこなのかを再認識することが大切です。これには広く世界を見る必要があります。進化の同胞であるチンパンジーの暮らしを見ると、我々との共通祖先は本来どういう暮らしだったのかが分かります。人間とは何か。日本人とは何か。その理解がとても大切です。
奥津 動物の中の人間ということですか。
松沢 人間だけが特別に進化したのではなく、生き物全てが38億年、つないできた命です。自然界の中で人間がどういう位置を占めているのか。ほかの命と相対化して自分のニッチ(生態学的地位)を理解することが大切です。霊長類は本来樹上がニッチです。
 バルブ産業についても同様で、相対化して、ほかの産業と比較してどういう位置を占めているのか、他国と日本はどうなのか。そもそも日本とはどういうものなのか。
奥津 広く見るということは重要です。以前の対談で中北徹東洋大学教授も比較して見ることの重要性をおっしゃっていました。
 バルブは宇宙ロケット、コンビナート、インフラ配管などいろいろなところに使われています。目立ちませんが重大事故を起こしかねない重要な機械なので、安全性の高い、品質の良いモノでなければなりません。縁の下の仕事をこつこつやる。そこでの後継者育成にはこれまでとは違った視点が必要です。

思考は「カメレオンの目」で


松沢 こつこつやるというのは私の琴線に触れます。
 今やヒトゲノム30億の塩基対を全部読むことができます。京都大学霊長類研究所のアイ(メスのチンパンジー)、息子のアユム、その父親のアキラのゲノムも全て読みました。人間とチンパンジーがどこまで似ていて、どう違うのか、ゲノムという形での理解はできましたが、ゲノムを調べれば人間が分かるというものでもありません。ゲノムで見ても、縄文人と奥津さんと私はほとんど一緒です。
 縄文人の暮らし、さらにさかのぼって狩猟時代の暮らしをもう一度思い出してみる必要があります。本来人間とはどういう生き物だったのか、何度も繰り返し考える。そこまで引いて広く見ると、あらためて見えてくるものがあるでしょう。
奥津 壮大な気分になるお話です。
松沢 カメレオンの目は左右が独立に動きます。人間の思考を目にたとえていうと、心の目が左右独立に動かせるとしたら、片方の目は対象を深く深く見つめて、もう片方の目は広く広く見るのです。物事を判断しようとするときに必要なことだと思います。
奥津 いわば大きな複眼で、世界空間軸や進化・歴史という時間軸を深く考察し、我々のニッチを捜してみます。

(右から)京都大学松沢哲郎教授、日本バルブ工業会奥津良之氏

式年遷宮の知恵


松沢 日本はコンゴ盆地、アマゾン、ボルネオ島と同じだというと驚かれますか。熱帯にはいろいろな動植物がいます。とりわけたくさんの動植物がいるところが生物多様性ホットスポット。日本もホットスポットなのです。例えばニホンザル、ニホンジカ。普通にいるけど固有種です。
奥津 でも、誰も意識していません。
松沢 もう一つ、地球表面を覆う十数枚のプレートのうち、日本では四つのプレートがせめぎ合っています。
奥津 だから地震も火山も多い。
松沢 こんな土地が大陸の端にあるから台風が来る。この自然災害と日々、毎年、長年にわたりどう付き合っていくのか。
奥津 大変な労力をかけてきました。
松沢 その試練がとても大切で、そこで発揮される知恵があるのです。伊勢神宮の式年遷宮はご存じですか。
奥津 不思議な伝統だと思います。
松沢 人生60年とすると、二十歳のときに見習いして、40歳で中核を担い、60歳で差配する。木造なのでいつかは建て替えが必要になるのですが、そのサイクルを20年と決めることで、2回経験した人の知恵や経験が次の世代の人に受け継がれるのです。人間も建物も寿命があることを前提とした、先人が作ってきたシステムです。
奥津 日本は100年を超える長寿企業が飛びぬけて多い理由にもつながりそうです。
 バルブの世界にライフサイクルメンテナンスという仕事があります。納入、運転、メンテで次のサイクルへ。この管理はITの活用なしでは困難です。AIに任せればよいと考える人もいますが、そのシステムを管理するのは人間です。そこに日本企業の強みはあると思います。その人材教育が大切です。

モチベーションは教えられない


松沢 学習することの上で大事なことはモチベーションです。知識や技術は教えられますが、モチベーションは教えられない。ただ、モチベーションをどうやって高めるかは指導する側の問題です。
 日本人の特性であるモラルの高さ、物事を突き詰めていく姿勢を、学習によって育てていくということが受け継がれないといけません。IoTでもAIでも、それを支えるのは人間。人間がどうやってモチベーションを持ち続けるか、どの分野にも共通する本質的で大切な問題です。
奥津 これまで、製品のスペックや品質のための技術をどう伝授して、能力の高い技術者を育てるかということばかりを考えて、モチベーションにまで気が回らなかったように思いますね。
松沢 右肩上がりの時代はそんなことを考えなくても済んできたのです。今、若年人口が減ってきて、そうしたことに気づきはじめたのです。人間というものがどういう価値を持って生き続けていくのかを考え、配慮しないと、目の前の問題すら解決することはできません。
奥津 我々のバルブを用いた空調によって快適な室内環境をつくることで、人の体を弱めてしまっているのではないかと憂慮してしまうことがあります。
松沢 いろいろな側面がある中で、一面の真理です。実体には見えない側面もあります。月にも向こう側があります。チンパンジーは即物的だから「今・ここ・私」の世界ですが、「これは一面的な理解なんだ」と認識できることが人間です。
 複眼的思考といいますが、主観と客観の両方を持っていると、月が出ていると認識したときに、もう一つの目で月の裏側はどうなっているのか考えるようになります。
奥津 技術者はそうでなくてはいけないですね。
松沢 私は日本人のすごさに希望を持っています。超高齢化社会を迎えながらも落ちているわけではありません。1億人が生きていく暮らしのホメオスタシス(恒常性、定常状態)とはどういうものかを考える時期に来ています。バルブ業界としてどういう未来になるのか、日本という国のニッチがあるのかを考えてほしい。

実感するから納得



実際に野生のチンパンジーが使っていた石器

奥津 普段私は微分方程式などを扱う仕事なので、先生のおっしゃることは新鮮ですが、消化するのに時間がかかりそうです。
松沢 その時に大切なのが実感です。人間は実感することで初めて納得できるのです。
 野生のチンパンジーが石器を使ってナッツを割るのですが、ずっと使っているとへこみができます。ここに実物がありますのでぜひ持ってください。
 この石を持つ手はモノをつかむためにできたものです。樹上がニッチだから、枝をつかむために親指がほかの4本と対向しているのです。
奥津 微分方程式は知識が抽象化されたものとして学習することができます。野生のチンパンジーは石器の使い方をどのように学ぶのでしょうか。
松沢 簡単に言えば「教えない教育・見習う学習」です。親やほかの大人を見て、4、5歳になると使えるようになります。
奥津 先生は以前、講演でチンパンジーに学習させるときのこつについて「おだてること」とおっしゃっていましたが、それは人間でも同じですね。
松沢 モチベーションの話につながります。チンパンジーのタッチパネルを使った実験も叱ってうまくいったことはありません。うまくできたときにいっぱいほめるのです。もう一つ大事なことはその気になるまで待つことです。
 おだてるのは、いいことをしたその時でないとだめ。「昨日はよくできたね」と言っても意味がないのです。
奥津 私たちは数学や物理など抽象的知識を駆使して多くの機械を作ってきました。しかし今、根本的な原理に立ち戻り、「人間とは何か」を突き詰めないと「低次元のデジタル機械」作りから脱却できないだろうと気づくことができました。
 本日はどうもありがとうございました。
日刊工業新聞2018年3月20日広告特集
昆梓紗
昆梓紗 Kon Azusa デジタルメディア局DX編集部 記者
バルブ業界と霊長類学という異色の専門家対談ですが、ビジネスに生かせることがいくつも見えてきます。

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