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福島・浪江町、人口ゼロからの再出発。まちづくり会社の挑戦

福島・浪江町、人口ゼロからの再出発。まちづくり会社の挑戦

ゼロからの街づくりに挑む菅野さん(左)と菅家さん

 東日本大震災で被災した福島県浪江町で、民間の力を活用した「まちづくり会社」が本格始動し、新しい挑戦を始める。震災までは人口2万人を超える町だったが、その後約6年間は避難により人口ゼロ。1年前に2割の地域で避難が解除され、現在は約500人が暮らす。大幅に人の減った町で、まちづくり会社に出向している町役場職員の菅野孝明さんは、「浪江だからこそのチャンスがあるはずだ」と断言する。

 1月に設立された一般社団法人「まちづくりなみえ」は、町民を雇用して公共施設を管理するほか、地域づくり、視察・語り部育成、観光ツアー、イベントなどの事業育成に取り組む。

 コーディネーターとなる人材を募集し、町民の声を拾い上げて形にする。菅野さんは「役場は本来、地域自治のサポートが役割。コーディネーターが住民と役場の中間的な立場に立ち、住民の力を引き出したい」と、民間の機関とした狙いを語る。

コーディネーターには全国から予想を上回る応募があり、一緒に活動できる人をしっかり選んでいく。ゼロから町をつくり直すのは世界に類がない。最先端の町づくりに関わりたい人が多いようだ。

 外から来る人もいるが、地域再生の主役は地元の人。菅野さんは「町民はこの町で『どうもうけてやろうか』と前向きに考えている」と話す。足りないものや困難を数えればきりがなく、つらい思いを持つ人もいる。

 だが、今の町民はそれを承知で、浪江が好きで帰ってきた。菅野さんと一緒に働く菅家清進(かんけ・せいしん)さんは「浪江は震災前から、創意工夫で稼いできた商人の町だった」と話す。

 菅家さん自身もその一人。震災前は板金業を営みながら、地域グルメのなみえ焼きそばの立ち上げに携わった。震災後は、秋田県で赤字だった3カ所の道の駅を立て直した。

 菅野さんは「事業を興せるチャンスも眠っていると思う」と話す。困難な場所も視点を変えれば他にない特徴となりうる。例えば、沿岸の防災林の内側は、宿泊施設はできず、工場は保険料が高くなる。別の場所は優良な田んぼだったが、兼業農家が多くて、復活が進まない。だが、広い土地はある。

 動きだした人たちもいる。NPO法人Jinは、浪江を日本一の花の町にしようと奮闘している。Jinのトルコギキョウは市場で評価が高く、高単価で取引されているという。

 町自体も視察資源になる。強制的に放置された町はどうなるのか。浪江は福島第一原子力発電所(福島県大熊町・双葉町)からの風向き一つで、運命が変わった。他の町でも起きうる。「自分のこととして、ありのままを見てほしい。興味を持ってくれる企業や人とつながりたい」と菅野さんは意欲を語る。

 浪江復興のキーワードは“楽しさ”だ。これまでも逆転の発想で、型破りな取り組みを実施してきた。主要な通りの街灯と少しの家の明かりしかない町は真っ暗。そこで町の真ん中でキャンプを行い、約40人が集まった。まちづくり会社は、このような「浪江でやりたいこと」も支援する。まず自分たちが楽しめば浪江に来る人や戻る人が増え、活動が広がる。季節のお祭りなどを通じて地域をにぎやかにし、他の町で暮らす人と再会する場にもする。2020年にオープンを予定する道の駅は大きな節目となる。

 町が積み上げてきたものをなくすのは一瞬で、再構築には長い時間がかかる。菅家さんは「こんな地域は浪江で最後にしてほしい」と話す。菅野さんは「世の中には物があふれ、大切な物を見失いがちだ。本当に必要なものを考えるチャンスがある」と、じっくりと復興に向き合う。
(文=梶原洵子)
日刊工業新聞2018年3月14日
梶原洵子
梶原洵子 Kajiwara Junko 編集局第二産業部 記者
地に足の付いた活動は始まったばかり。浪江の可能性を信じて行動する人たちから学べることは多い。

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