ゴーンを日本に連れてきた男、塙氏死去「エピソード・アライアンス」
日産社長がルノーと提携に踏み切った“決断”とは
元日産自動車会長・社長の塙義一(はなわ・よしかず)氏が18日に亡くなった。81歳だった。96年に社長に就任。99年、経営危機が表面化した日産を仏ルノーが救済。ルノーのルイ・シュバイツァー(当時会長兼CEO)とルノー日産連合を実現した。05年名誉会長となり08年に退任した。
ルノーとの提携にはどんな苦悩や決断があったのか。2006年、塙氏は日刊工業新聞の連載で当時のことを冷静に振り返っている。
日産自動車と仏ルノーが99年3月に発表した提携は、当時「負け組連合」と揶揄(やゆ)された。日産は本命のダイムラー・クライスラーに見捨てられた―。人々はそう思っていた。しかし、その交渉の先頭に立っていた塙氏(当時社長)は、早い段階でルノーを本命に据えていたという。いま我々は、その判断が正しかったことを知っている。両社の提携成功の要因はカルロス・ゴーン氏の活躍だけではない。日産とルノーの相性の良さの背景には、提携交渉の過程ではぐくまれた信頼関係がある。
私が社長に就任したのは96年6月です。前任の辻義文社長はバブル経済がはじけた後の大変な時期に、地道な改善で4期ぶりの営業黒字(96年3月期)までやっと持ってきた。それでもまだ安堵(あんど)できる状況ではありませんでしたが、日産の社員には危機感がなかった。これだけ大きい会社が急になくなることはないだろう、という期待がどこかにあって改革の妨げになっていました。
本当に会社がなくなる可能性もあるけれど、それを強調しすぎて社員が落ち込んでしまうのはまずい。社員には「やるぞ」という意気込みを持ってもらいたい。そこで98年春から3年間の中期経営計画では、ターゲットとして「シェア25%」という数字を掲げました。工場閉鎖と人員削減では縮小再生産になるだけです。私の課題は、開発から始まる会社のマネジメント全体をいかに変えていくかでした。
まず改革が必要だったのは関連会社とのもたれ合いです。5というプライスの部品を3で調達したいのだけれど、情にひきずられて3・5とか4になってしまう。コストだけでなく、品質面でももう一歩突っ込んだ努力が行われていませんでした。系列取引の見直しだけでなく、年功序列とか終身雇用とか、日本の高度経済成長を支えてきた仕組みを見直す作業だったとも言えるでしょう。
ところが、シェア25%だと言うと社内に「数字を出せばいいんだろう」という傾向が出てきてしまった。足元の改革を怠って、安易な策で数字を上げようとする。後に大きな問題となる米国でのリース販売拡大もその一例です。そこで改革を実行する具体的な「手だて」として「グローバル事業革新策」を98年5月20日に発表しました。
この時の施策は車種の削減、プラットフォームの集約、販売店の2チャンネル化、資産売却による有利子負債圧縮、総コストの4000億円削減―など、項目は後の日産リバイバルプランとよく似ています。
ゴーンが立派なのは、それを実行したことなのです。
ダイムラーとクライスラーの合併は、報道で知って驚きました。98年のゴールデンウイーク中でしたね。考えてもみなかった組み合わせです。このころ業界では『400万台クラブ』と言われ、それ以上の生産台数がないと生き残れないという噂(うわさ)が流れていました。日産はまさにボーダーライン。ダイムラー・クライスラーのニュースを聞いて、我々も提携相手の模索を始めます。恐らく世界中のすべての自動車メーカーがいろいろ動いていたと思いますよ。
このころからマスコミは、日産とダイムラーの包括提携の可能性を報道しはじめました。ダイムラーとは半年ほど前、97年末ごろから日産ディーゼル工業の株式を売却する交渉をしていました。しかし、これは基本的に(経営不振の)日産ディーゼルをどう立て直すかという、トラック事業の話です。日産本体がダイムラーと組む話をしたことは、当時はありませんでした。
日産本体の提携相手探しでは、こちらから声をかけた会社も、向こうからかけてきた会社も、いろいろあります。日本の自動車メーカーもアイデアとしては浮かびましたが、行動には移していません。私は米国赴任中に米国の『個の強さ』と日本の『集団の強さ』を合成して良い企業文化が生まれることを経験しました。だから日産の提携相手も文化の異なる海外メーカーがいいと思っていました。
ルノーは向こうから声をかけてきてくれた会社の一社です。まず、98年7月にルイ・シュバイツァー会長と東京で会いました。下から上がってきた話ではなく、いきなりトップ同士で話を始めています。当時私はルノーという会社をよく知らなかったのですが、この会談でとてもいい印象を受け、話を進めることになりました。ただし、ルノーはまだ提携候補のワンオブゼムです。
相手探しを続けながら、私は「合併」ではなく「対等な提携関係」が良いと考えていました。合併では両方の良さを生かすのが難しく、どちらかが引っ込む形になります。またこの時点では、双方にとって重荷になる『資本』の話はしていません。
私はもし資本関係を持つにしても、相互持ち合いのまったく対等な提携がよいと考えていました。しかし98年の末に向けて、日産が置かれた状況は大きく変わっていきます。
<次のページはゴーンに対する印象>
ルノーとの提携にはどんな苦悩や決断があったのか。2006年、塙氏は日刊工業新聞の連載で当時のことを冷静に振り返っている。
「合併」ではなく「対等な提携関係」を
日刊工業新聞2006年1月11日12日13日付「決断・そのときわたしは」より
日産自動車と仏ルノーが99年3月に発表した提携は、当時「負け組連合」と揶揄(やゆ)された。日産は本命のダイムラー・クライスラーに見捨てられた―。人々はそう思っていた。しかし、その交渉の先頭に立っていた塙氏(当時社長)は、早い段階でルノーを本命に据えていたという。いま我々は、その判断が正しかったことを知っている。両社の提携成功の要因はカルロス・ゴーン氏の活躍だけではない。日産とルノーの相性の良さの背景には、提携交渉の過程ではぐくまれた信頼関係がある。
「エピソード・日産1996」
私が社長に就任したのは96年6月です。前任の辻義文社長はバブル経済がはじけた後の大変な時期に、地道な改善で4期ぶりの営業黒字(96年3月期)までやっと持ってきた。それでもまだ安堵(あんど)できる状況ではありませんでしたが、日産の社員には危機感がなかった。これだけ大きい会社が急になくなることはないだろう、という期待がどこかにあって改革の妨げになっていました。
本当に会社がなくなる可能性もあるけれど、それを強調しすぎて社員が落ち込んでしまうのはまずい。社員には「やるぞ」という意気込みを持ってもらいたい。そこで98年春から3年間の中期経営計画では、ターゲットとして「シェア25%」という数字を掲げました。工場閉鎖と人員削減では縮小再生産になるだけです。私の課題は、開発から始まる会社のマネジメント全体をいかに変えていくかでした。
まず改革が必要だったのは関連会社とのもたれ合いです。5というプライスの部品を3で調達したいのだけれど、情にひきずられて3・5とか4になってしまう。コストだけでなく、品質面でももう一歩突っ込んだ努力が行われていませんでした。系列取引の見直しだけでなく、年功序列とか終身雇用とか、日本の高度経済成長を支えてきた仕組みを見直す作業だったとも言えるでしょう。
ところが、シェア25%だと言うと社内に「数字を出せばいいんだろう」という傾向が出てきてしまった。足元の改革を怠って、安易な策で数字を上げようとする。後に大きな問題となる米国でのリース販売拡大もその一例です。そこで改革を実行する具体的な「手だて」として「グローバル事業革新策」を98年5月20日に発表しました。
この時の施策は車種の削減、プラットフォームの集約、販売店の2チャンネル化、資産売却による有利子負債圧縮、総コストの4000億円削減―など、項目は後の日産リバイバルプランとよく似ています。
ゴーンが立派なのは、それを実行したことなのです。
「エピソード・ダイムラー&ルノー」
ダイムラーとクライスラーの合併は、報道で知って驚きました。98年のゴールデンウイーク中でしたね。考えてもみなかった組み合わせです。このころ業界では『400万台クラブ』と言われ、それ以上の生産台数がないと生き残れないという噂(うわさ)が流れていました。日産はまさにボーダーライン。ダイムラー・クライスラーのニュースを聞いて、我々も提携相手の模索を始めます。恐らく世界中のすべての自動車メーカーがいろいろ動いていたと思いますよ。
このころからマスコミは、日産とダイムラーの包括提携の可能性を報道しはじめました。ダイムラーとは半年ほど前、97年末ごろから日産ディーゼル工業の株式を売却する交渉をしていました。しかし、これは基本的に(経営不振の)日産ディーゼルをどう立て直すかという、トラック事業の話です。日産本体がダイムラーと組む話をしたことは、当時はありませんでした。
日産本体の提携相手探しでは、こちらから声をかけた会社も、向こうからかけてきた会社も、いろいろあります。日本の自動車メーカーもアイデアとしては浮かびましたが、行動には移していません。私は米国赴任中に米国の『個の強さ』と日本の『集団の強さ』を合成して良い企業文化が生まれることを経験しました。だから日産の提携相手も文化の異なる海外メーカーがいいと思っていました。
ルノーは向こうから声をかけてきてくれた会社の一社です。まず、98年7月にルイ・シュバイツァー会長と東京で会いました。下から上がってきた話ではなく、いきなりトップ同士で話を始めています。当時私はルノーという会社をよく知らなかったのですが、この会談でとてもいい印象を受け、話を進めることになりました。ただし、ルノーはまだ提携候補のワンオブゼムです。
相手探しを続けながら、私は「合併」ではなく「対等な提携関係」が良いと考えていました。合併では両方の良さを生かすのが難しく、どちらかが引っ込む形になります。またこの時点では、双方にとって重荷になる『資本』の話はしていません。
私はもし資本関係を持つにしても、相互持ち合いのまったく対等な提携がよいと考えていました。しかし98年の末に向けて、日産が置かれた状況は大きく変わっていきます。
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