「IBMと日本IBM」、両者の関係は時代とともにどう変遷してきたか
元社長・椎名武雄氏が証言する日米対峙から導き出した決意
**トップ交代、グローバル企業への回帰踏襲
日本IBMは、米IBMゼネラル・マネージャーのエリー・キーナン氏(52)が4月1日付で社長に就任する。ポール与那嶺社長(59)は同日付で特別顧問に就き、6月末に退社する。社長交代は2年3カ月ぶり。キーナン氏は経営幹部として世界を渡り歩いてきた実力者。直近は米本社のデジタル変革担当として活躍した。その経験を生かし、日本でクラウドサービスや人工知能(AI)を活用したデジタル変革を展開する。
1月に新会計年度がスタートしたばかりであり、突然の人事にも思える。しかし、与那嶺社長は17年に60歳を迎え、さらに在任2年を回ったことを節目に退任の意向を米本社に伝えていた。
キーナン氏はイスラエル出身で、イスラエル国籍と米国籍を持つ。IBMにはプログラマーとして入社。米マイアミ大で経営学修士(MBA)を取得し、00年にアジア太平洋地域バイス・プレジデントに就任した。
欧州のほか、アジア、中東、アフリカ、南米などの新興国を担当。居住経験も米国、ブラジル、中国、フランス、イスラエル、日本、シンガポール、南アフリカ、スイスと幅広い。日本駐在は2回。08年には日本IBM副社長として東京に約1年間駐在した。グローバル企業を体現するような経歴を歩み、“たたき上げ”の逸材として重責を担ってきた人物だ。
約半世紀前―。日本政府はコンピューターの国産化を旗印に、“巨人IBM”と対峙(たいじ)した。当時、司令塔となったのは通商産業省。米IBMが持つ特許の使用権や輸入規制などを巡り、侃々諤々(かんかんがくがく)の論議が繰り広げられた。その後も日米間での綱引きが続く中で、奔走したのが1975年に45歳の若さで日本IBM社長に就任した椎名武雄氏だ。当時を振り返り、舞台裏を語ってもらった。
60年代に通産省はコンピューターの将来性を見抜き、国産化して基幹産業に育てようとした。そのような先見性を持った政府は当時、どこにもなかった。
今でも思い出すのは、IBMとの交渉で先頭に立っていた通産省の平松守彦氏(当時、重工業局電子工業課課長補佐)との折衝だ。当時、新聞各紙では外資系の悪口ばかり。そんな中で日本政府とIBMとの交渉が取り沙汰されていた。
私は生産担当役員として平松氏に何度も呼びつけられて、手かせ、足かせとも言える厳しい要求を突きつけられた。すべてを受け入れると、こちらがつぶれてしまうため、体を張って議論した。
一方で「日本にコンピューター産業を根付かせ、育成したい」という平松氏の思いと努力は、日本人として理解していた。私は愛社精神を持っていたが、決して心まで売ったつもりはない。
平松氏とは人間らしいつきあいをした。昼に激論となっても、夜は一杯飲み屋で語り合った。平松氏は芋焼酎の水割り。私は酒が飲めないので、お茶を飲み、紙製のレコードを伴奏に平松氏が歌う流行歌を聴いていた。
以降、通産省の幹部らとは人間的なつきあいをした。美空ひばりの歌を覚えて披露したところ、「1曲ではだめだ」と言われ、そのうち一晩中歌うようになった(笑)。
当時の日本は外国人に強い違和感を抱いていた。日本は島国。良いこともあるが、異国人には慣れておらず、国際化については扱いにくい。メンタル面で鎖国がなくなったのもごく最近だと思う。
一方、米国は移民の国。欧州は隣国と地続き。いずれも子供のころから国籍や肌の色が違う人たちと遊んだり、けんかしたりしながら育っている。国際化という観点では自然な姿といえる。
日本の国際化には外資として、常に向き合ってきた。「セルIBMイン・ジャパン、セル・ジャパン・インIBM(IBMを日本に売り込み、日本をIBMに売り込む)」というスローガンは社長になり立てのころ、米国出張中に考えた。
当時、管理者向け教育の講師として、米本社に招かれ、時差ボケで眠れずにホテルで白い天井を見つめながら思いついた。それをテーマに講義で2時間くらい話をした。
帰りの飛行機で「待てよ、社長の仕事はこれじゃないか」とひらめいた。外資でもいい会社があることを日本に伝え、逆に日本のすばらしさを米本社に分からせようと心に決めた。このスローガンは立場を変えれば、海外展開する日系企業にも通じるのではないかと思う。
※内容、肩書は当時のもの
日本IBMは、米IBMゼネラル・マネージャーのエリー・キーナン氏(52)が4月1日付で社長に就任する。ポール与那嶺社長(59)は同日付で特別顧問に就き、6月末に退社する。社長交代は2年3カ月ぶり。キーナン氏は経営幹部として世界を渡り歩いてきた実力者。直近は米本社のデジタル変革担当として活躍した。その経験を生かし、日本でクラウドサービスや人工知能(AI)を活用したデジタル変革を展開する。
1月に新会計年度がスタートしたばかりであり、突然の人事にも思える。しかし、与那嶺社長は17年に60歳を迎え、さらに在任2年を回ったことを節目に退任の意向を米本社に伝えていた。
キーナン氏はイスラエル出身で、イスラエル国籍と米国籍を持つ。IBMにはプログラマーとして入社。米マイアミ大で経営学修士(MBA)を取得し、00年にアジア太平洋地域バイス・プレジデントに就任した。
欧州のほか、アジア、中東、アフリカ、南米などの新興国を担当。居住経験も米国、ブラジル、中国、フランス、イスラエル、日本、シンガポール、南アフリカ、スイスと幅広い。日本駐在は2回。08年には日本IBM副社長として東京に約1年間駐在した。グローバル企業を体現するような経歴を歩み、“たたき上げ”の逸材として重責を担ってきた人物だ。
日刊工業新聞2017年3月2日
「日本の国際化に外資として常に向き合ってきた」
約半世紀前―。日本政府はコンピューターの国産化を旗印に、“巨人IBM”と対峙(たいじ)した。当時、司令塔となったのは通商産業省。米IBMが持つ特許の使用権や輸入規制などを巡り、侃々諤々(かんかんがくがく)の論議が繰り広げられた。その後も日米間での綱引きが続く中で、奔走したのが1975年に45歳の若さで日本IBM社長に就任した椎名武雄氏だ。当時を振り返り、舞台裏を語ってもらった。
60年代に通産省はコンピューターの将来性を見抜き、国産化して基幹産業に育てようとした。そのような先見性を持った政府は当時、どこにもなかった。
今でも思い出すのは、IBMとの交渉で先頭に立っていた通産省の平松守彦氏(当時、重工業局電子工業課課長補佐)との折衝だ。当時、新聞各紙では外資系の悪口ばかり。そんな中で日本政府とIBMとの交渉が取り沙汰されていた。
私は生産担当役員として平松氏に何度も呼びつけられて、手かせ、足かせとも言える厳しい要求を突きつけられた。すべてを受け入れると、こちらがつぶれてしまうため、体を張って議論した。
一方で「日本にコンピューター産業を根付かせ、育成したい」という平松氏の思いと努力は、日本人として理解していた。私は愛社精神を持っていたが、決して心まで売ったつもりはない。
平松氏とは人間らしいつきあいをした。昼に激論となっても、夜は一杯飲み屋で語り合った。平松氏は芋焼酎の水割り。私は酒が飲めないので、お茶を飲み、紙製のレコードを伴奏に平松氏が歌う流行歌を聴いていた。
以降、通産省の幹部らとは人間的なつきあいをした。美空ひばりの歌を覚えて披露したところ、「1曲ではだめだ」と言われ、そのうち一晩中歌うようになった(笑)。
当時の日本は外国人に強い違和感を抱いていた。日本は島国。良いこともあるが、異国人には慣れておらず、国際化については扱いにくい。メンタル面で鎖国がなくなったのもごく最近だと思う。
一方、米国は移民の国。欧州は隣国と地続き。いずれも子供のころから国籍や肌の色が違う人たちと遊んだり、けんかしたりしながら育っている。国際化という観点では自然な姿といえる。
IBMを日本に売り込み、日本をIBMに売り込む
日本の国際化には外資として、常に向き合ってきた。「セルIBMイン・ジャパン、セル・ジャパン・インIBM(IBMを日本に売り込み、日本をIBMに売り込む)」というスローガンは社長になり立てのころ、米国出張中に考えた。
当時、管理者向け教育の講師として、米本社に招かれ、時差ボケで眠れずにホテルで白い天井を見つめながら思いついた。それをテーマに講義で2時間くらい話をした。
帰りの飛行機で「待てよ、社長の仕事はこれじゃないか」とひらめいた。外資でもいい会社があることを日本に伝え、逆に日本のすばらしさを米本社に分からせようと心に決めた。このスローガンは立場を変えれば、海外展開する日系企業にも通じるのではないかと思う。
【略歴】75年に日本IBM社長。89―93年に米IBM副社長を兼務、93年に会長兼経営諮問委員会議長。政府の規制緩和小委員会座長としても活躍し、99年に最高顧問、07年に相談役。80歳を区切りに一線を退き、10年に名誉相談役となる。岐阜県出身。
※内容、肩書は当時のもの
日刊工業新聞2015年11月30日