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〝車〟実用化へとつながる家康の施策「御時計師・津田助左衛門の登用」

家康、愛知ものづくり産業の端緒を開く #5機械産業

家康の施策、最後は「御時計師・津田助左衛門の登用」である。

そもそも機械式時計は、天文20年(室町後期)、キリスト教宣教師のフランシスコ・ザビエルによって欧州から日本にもたらされた。その後来日した宣教師たちが九州や京都に職業学校を設立し、ここで構造を学んだ鍛冶師らによって時計の国産化が始まったとされる。

こうしたうちの一人であろう京都の鍛冶師・初代津田助左衛門は慶長3年(織豊時代)、家康の所有する舶来の機械式時計が故障した際に、その修理に加えて複製品を製作したという(文献上にみる最古の国産機械式時計)。これをきっかけに助左衛門は家康に召し抱えられて駿府へと移り住む。その後清洲を経て名古屋に移り、尾張藩の御時計師に登用された。当時、欧州の先端技術の詰まった時計製作の技(からくりの技)を手中に収めることは領国の産業力強化へと直結する。助左衛門が召し抱えられたのも、こうした背景によるものだろう。以後津田家は代々藩の御時計師を世襲して、日本独自の時刻制度・不定時法のもとに時間を刻む和時計の製作に従事、名古屋にからくりの技を定着させていった。

また、享保15年(江戸中期)に第7代尾張藩主となった徳川宗春による積極財政策・文化奨励策のもと、藩内では神社の祭礼を飾る山車からくりが発展をとげる。これを支えたのが木偶<でく>師で、代表格の初代玉屋庄兵衛は、同19年に京都から名古屋に移り住んで山車からくり製作に従事した。後に庄兵衛の子孫たちは山車からくりのほか、時計の脱進機を転用した座敷からくりも手がけるなど、技の発展に貢献している。

津田助左衛門の工房が手がけた二挺天符式の和時計(江戸中期。写真提供=刈谷市教育委員会)

これらの技は明治時代を迎えると、起業家のアイデアのもと、県下の木や鉄の技ともども近代的な機械産業へと展開された。こうして明治中期には、和時計製作のノウハウと木曽ヒノキを使った時盛社の西洋時計、木曽ケヤキをボディーに使った日本車輛製造の鉄道車両、木綿業が盛んな地域性を背景とした発明家・豊田佐吉による動力織機などが誕生した。そして明治後期から昭和初期頃には、鉄材の普及に伴って製品開発が大きく進展。製麺機(大隈麺機商会、現オークマ)、自転車(岡本自転車自動車製作所)、石油ガスコンロ(林内商会、現リンナイ)、無停止杼換式自動織機(豊田佐吉―豊田自動織機製作所、現豊田自動織機)、ミシン(安井ミシン兄弟商会、現ブラザー工業)などが誕生している。

また同じ頃、政府が主導した民間重工業育成政策のもと、祖業の経験を生かした三つの製品が機械各社によって実用化された。一つ目は、大隈製麺機商会や山崎鉄工所(現ヤマザキマザック)による工作機械(旋盤やフライス盤)。二つ目は、愛知時計製造(現愛知時計電機)や三菱重工業名古屋航空機製作所(現名古屋航空宇宙システム製作所)によるプロペラ航空機。三つ目は、“車”。日本車輛製造による蒸気機関車、豊田自動織機製作所(後に自動車部門が独立してトヨタ自動車工業《現トヨタ自動車》発足)による量産型乗用車やトラックなどである。これらは戦後、土や糸の技も取りこみつつ進化をとげ、現在のハイブリッド車や燃料電池車(トヨタ自動車)、リニアモーターカー(日本車輛製造)、機械各社によるコンピューター数値制御(CNC)工作機械や産業用ロボット、パートナーロボットなどへと系譜をつないでいる。

モビリティ産業への参入も定まっていたシナリオだったのか(写真はトヨタ自動車による自動運転車「e-Palette」。トヨタ自動車WEBサイト)

過去から現在へと歴史には連続性(因果関係)があり、わけもなくポッと発生した事象など一つもない。「愛知ものづくり産業」もまたしかりで、家康の施策を“因”とすれば、近代の起業家の動き、現在の産業界の様相などは間違いなく“果”にあたる。もしかすると、愛知ものづくり産業界のここまでのあゆみも現在の取り組みも、家康が施策をうった時点で定まっていたシナリオだったのかもしれない。(おわり)(文=堀部徹哉<富士精工内部監査室室長・郷土史家>)

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