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家康の「矢作新川の開削」を遠因に三河地域で成立した二つの産業

家康、愛知ものづくり産業の端緒を開く #4農林水産業と鋳物産業

家康の施策、四つ目は「矢作新川の開削」である。

西三河平野を横断する矢作川だが、八ツ面山(西尾市)にさえぎられて川の流れが大きくカーブする下流域(現在の矢作古川の川筋周辺)では、古くから大雨に伴う洪水が頻発して住民を悩ませていた。

江戸時代になって、その対策を講じたのがほかでもない家康だった。慶長8年(江戸初頭)、家康は幕府の代官・米津清右衛門を奉行とする新川の普請をおこした。それは、現在、矢作古川の分流点となっている安城市木戸町から西方向にあたる西尾市米津町(当時は海岸線だった)に向けて、台地上に新たな川筋(全長1300メートル×幅30数メートル)を開削し、流水を内湾へと注がせるというものだった。早くもその翌年には、普請が竣工して現在の矢作川の川筋が完成し、当初のもくろみどおりに下流域の水害は改善されている。

矢作新川の開削区間と干拓地(筆者作成)

これと同時に、西三河南部域の風景が変化をみせはじめた。新川開削後、激しい水流によって上流から流出した大量の川砂と、新川の両岸が侵食されて生じた大量の土砂が、新たな河口(米津)を通じて、内湾(現在の西尾市西部から碧南市東部にいたる一帯)へと流れ込むようになる。その結果、新川の川幅はみるみるうちに拡大、内湾は数十年間で埋めつくされて浅瀬となり、これを遠因とする二つの産業が成立した。

その一つが農水産業である。

浅瀬の干拓(新田開発)は江戸時代を通じて行われたが、三河という地域(国)は幕府領・大名領・旗本領の入り混じる複雑な支配関係にあったことから、幕府や特定の領主ではなく町人主導で進められた。そのため、平七新田(江戸初期、稲生平七郎による)、伏見屋新田(同、伏見屋又兵衛による)、新実新田(江戸中期、新実惣右衛門による)、小栗新田(江戸後期、小栗半七による)などといったように、多くの新田には開発を請け負った町人の名がつけられている。

こうして開拓された新田は米作や綿作に活用された。とれた米は三河酒や知多酒の原料として使われ、綿花は三河木綿や知多木綿の紡糸に加工された。また、古くから三河湾沿岸で発展してきた製塩業の施設(入浜式塩田)としても新田は活用されている。

もう一つは鋳物業である。

寛文11年(江戸初期)、西尾藩の招きに応じた近江の鋳物師・太田庄兵衛が、現在の西尾市平坂<へいさか>町で鋳物業を開始した。これが「平坂鋳物」で、内湾に堆積した川砂が鋳物砂に適していたことや、港に近い立地が背景にあった。その5年後の延宝4年には、同じく近江の鋳物師・国松十兵衛も、矢作新川の河口付近で交通の要衝だった現在の碧南市松江町で鋳造業を開始している。これが「碧南鋳物」で国松家は、燃料用の木炭は矢作川上流から、鋳物砂は知多河和方面から調達した。近江由来のこれらの技は、銅製の梵鐘や鉄製の鍋・釜などを鋳造しながら、西三河固有の技として地域に定着していった。

西三河に育った鋳造の技「第六代国松十兵衛作の喚鐘」(碧南市西松江区所蔵)

しかし明治時代を迎えると、鋳物師による伝統的な製品づくりは近代化のあおりを受けて衰退。その一方、愛知にも機械産業が成立したことで、西三河の鋳造の技はこの周辺地域で創業した機械各社へと引き継がれた。その代表例が碧南市の平岩鉄工所であろう。文化5年(江戸後期)に創業し、農機具などを手がけた「かじ幸」をルーツとする同社は、明治中期にはガスエンジン、大正時代には毛織機を手がけるようになり、昭和50年代以降は自動車部品の生産を大きく伸ばした。

なお、西三河南部の干拓事業は江戸から明治へと時代が移っても継続され、現在の海岸線ができあがったのは明治末期のことである。もし家康が矢作新川の普請をおこしていなければ、同地域の多くはいまだ海の底か、百年単位で開発が遅れていたか、いずれかであろう。とすれば、現在同地域がものづくり活動で創出しているアウトプット(令和元年、西尾市と碧南市の製造出荷額は計2.8兆円)も、相当部分が吹き飛んでしまうはずである。(文=堀部徹哉<富士精工内部監査室室長・郷土史家>)

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