ルーツは家康の「三河木綿の保護」、愛知の繊維産業のこれまでとこれから
家康の施策、三つ目は「三河木綿の保護」である。
室町後期(15世紀末)、日本の気候に合った綿種が明(中国)から輸入されると、三河にも早々に伝わり、綿作と白木綿(白無地の綿布)の生産が始まった。奈良・興福寺大乗院の『永正年中記』の永正7年(室町後期。16世紀初頭)の条には、税として「三川木綿」を徴収したことが記されており、これが文献上にみる最古の国産綿織物とされている。
合戦の続いたこの時代、木綿には高級布地のほか、軍用品(火縄、幔幕、旗指物など)の素材という役割があった。こうしたこともあって、永禄年間(室町末期)に三河を平定した家康(当時松平氏)は、地域の木綿業を保護したという。また、家臣に対して「妻を迎えるにあたり、よく木綿を織る者を求めよ」と命じていたとの伝承も残る。その後天正18年(織豊時代)に豊臣秀吉から関東移封を命じられた。この際、後に江戸で木綿問屋を開業する“三河商人”をともない下向するなど、故郷の木綿業との関係を維持している。
そして家康に代わり岡崎城主となった田中吉政の治政下、現在の岡崎市板屋町に木綿の市がたち、板屋木綿として取り引きされていたという。産業振興に長けた吉政の功績に違いないが、彼の岡崎治政は10年と短く、この間に一人で木綿業を育てあげたとするには少し無理がある。そこには家康時代からの継続性があったとみるのが自然だろう。
江戸時代になると三河の木綿業は、農家の副業として岡崎、安城、西尾、蒲郡などで展開されるようになり、三河木綿や三白木綿といったブランド名で大市場・江戸へと送られた。同時に、県下の木綿業の発展にも大きく関わった。江戸初頭、知多半島では、三河の綿種を取り寄せて木綿業が成立し、後に知多晒<さらし>が発展。同じ頃、尾張西部でも綿作が始まっており、繰綿の状態で三河方面へと供給された(後に絹綿交織の尾西縞が発展した)。知多郡有松(現在の名古屋市緑区)では、三河木綿に絞り染めを施した有松絞も誕生している。
このように木綿専業だった愛知の糸の技は、明治時代を迎え、多彩な素材を扱う技へと進化をとげる。紡績分野では明治初期より、西三河を中心に綿紡績(ガラ紡績や洋式機械紡績)が、尾張北部や東三河を中心に製糸業(生糸)が盛んになった。名古屋では大正時代に羊毛、昭和初期にはレーヨンの紡績が始まった。また、織布分野では、 伝統の三河木綿、知多晒、尾西縞に加え、明治初期に絹綿交織の三河縞、同中期には尾西毛織の生産が始まった。その結果、愛知は国内屈指の繊維産地化して繊維王国と呼ばれるようになる。
さらに戦後になると、化学繊維の実用化が進んで、糸の技の事業領域に室内装飾品や産業用資材が加わっていく。当時成長をとげていた自動車産業界においても、化学繊維が部品素材として積極的に採用されていった。例えば、綿紡績を祖業とする豊田紡織(現トヨタ紡織)は昭和40年代、化学繊維製の自動車内装品(シート・フロアカーペット・エアバッグほか)へと事業拡大を図った。あわせて、プラスチック製の外装品(バンパーほか)、ユニット部品(フィルター製品やエンジン部品ほか)なども事業化。近年では部品素材の繊維強化プラスチック(FRP)化やバイオプラスチック(ケナフ繊維+プラスチック)化も実現している。
家康が保護した三河木綿をルーツとする愛知の繊維産業だが、木綿や毛織の印象が強く、よくいえば伝統産業、悪くいえば衰退産業というのが一般的な見方であろう。しかし、機械部品の素材に適した化学繊維やFRPが実用化されたことで、今や機械産業には欠かせぬ存在となっている。先に紹介したファインセラミックスを実用化した陶磁器産業と同様といえるが、こうした進化した姿にもっと光を当て、愛知の繊維産業を再評価してもいいだろう。(文=堀部徹哉<富士精工内部監査室室長・郷土史家>)