ESG情報開示の礎を築いた起業家を支えたモノ
8月28日夜、JR飯田橋駅(東京都新宿区など)に近い外堀上空に花火が上がった。近くの店舗から外に出て花火を観覧する60人ほどの姿があった。
ESG(環境・社会・企業統治)関連のコンサルティングサービスを提供するクレアン(東京都港区)の創業35周年と、会長である薗田綾子さんの還暦祝いを兼ねたパーティーだ。上場企業の会長や社長、NPO関係者、九州地方の自治体職員の姿もあり、薗田さんの親交の広さがうかがえた。花火は有志からのプレゼントだった。
大阪から駆けつけたパナソニックホールディングス(HD)の環境経営担当の荒井喜章さんも、付き合いの長い一人だ。1990年代後半、パナソニックHD(当時は松下電器産業)は、環境報告書の制作をクレアンに依頼する方針だった。しかしある日の夕方、荒井さんは大阪・梅田のクレアン事務所を訪ね、断った。
当時は環境報告書の黎明(れいめい)期。薗田さんは「世界一の報告書にしようと話していたので、『他に世界一の報告書を作れる会社があるのか』と荒井さんを押し返した」と懐かしむ。荒井さんも「上司を説得して来なさいと言われた」と苦笑いする。結果的にクレアンが支援した環境報告書は、2000年度の環境庁長官賞に輝いた。
薗田さんは「パナソニックが報告書を出すことで、世の中が変わると確信していた」と述懐する。その予感が的中し、受賞が評判となって01年、17社の制作を担当。さらに依頼が殺到し、02年に東京へ進出した。その後、環境関連の情報開示が一般的となり、クレアンは統合報告書なども含め累計800冊の制作に携わった。
大手コンサルも参入したが、従業員40人の同社は35年の歳月を刻むことができた。薗田さんにはESGコンサルの草分けとして「ビジネスモデルを顧客と一緒に作ってきた」という自負がある。
パーティーの終盤、薗田さんは8月4日付で社長を退任したと報告した。どよめく会場で、亡き母への感謝を何度も口にした。最愛の母の存在が、ESG情報開示の礎を築いた起業家を支えた。
日本の課題解決に挑む
クレアン(東京都港区)会長の薗田綾子さんは1963年、兵庫県西宮市で生まれた。人生に影響を与えた母は、甲子園球場の近所で雑貨店を営んでいた。「野球ファンから『トランプないか』と言われると、さっとトランプを出すような、なんでも売っている店だった。お客さんの声をよく聞いていたのだと思う」と感心する。
薗田さんが大学卒業後に入社した広告代理店は“男社会”だった。転職先では働きづめで、突発性急性難聴を発症。生活を変えようと25歳で独立を決意。生計のために22歳で雑貨店を開業した母が背中を押してくれた。
88年に創業したクレアンは女性従業員のみで、当初は女性誌の企画を担う会社だった。今では当たり前となった在宅勤務や時短、副業を導入した。92年にブラジルで開催された「国連環境開発会議(地球サミット)」の報告を聞き、地球温暖化問題を伝えるべきだと直感。環境先進国のスウェーデンへ取材に行き、環境関連の書籍や電子媒体を手がけるようになった。2000年以降、企業が発刊する環境報告書の制作支援が本格化すると“レポーティングのクレアン”と呼ばれるようになった。
薗田さんは報告書制作やコンサルティングを担当する企業の経営者インタビューを重視する。「お客さんの声をよく聞いた母譲り」だという。国の審議会委員、企業の社外取締役、起業家支援と活動の幅も広がった。
ESG(環境・社会・企業統治)が潮流となり、クレアンの経営も順風となった14年、母が他界した。「人に迷惑をかけなさんな」「人のお役に立ちなさい」が口癖だった母は最後、「もっと社会貢献をしたかった」と言い残した。その遺志を引き継ぎ、薗田さんはジェンダー平等と地方創生を支援する公益財団法人「みらいRITA」を設立。活動の軸足を移すため23年8月、クレアンの社長を40代の冨田洋史さんに譲った。
行動力と人脈、そして母の言葉を胸に抱き、日本にとって大きな社会の課題解決に挑む。同社創業35年周年パーティーで夜空に舞った花火のように、次の挑戦でも大輪の花を咲かせる。
【略歴】そのだ・あやこ 88年、25歳の時に大阪でクレアンを起業。創業35周年の23年8月、会長に就任。60歳。「動く禅」という言葉にひかれ7年前に始めた合気道は初段。