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アルツハイマー新薬「レカネマブ」は一合目、ただその一合目には大きな意味がある

アルツハイマー新薬「レカネマブ」は一合目、ただその一合目には大きな意味がある

下山進さん

エーザイと米バイオジェンが共同開発したアルツハイマー病治療薬「レカネマブ」の正式承認が近づいている。病気の進行を抑制する初めての薬として期待される一方、効果が限定的で高価なため保険適用に批判的な声もある。レカネマブの誕生秘話などを大幅に加筆した「アルツハイマー征服」文庫版をこのほど上梓したノンフィクション作家の下山進さんに、レカネマブの意義や課題などを聞いた。

-レカネマブが医療現場に与える影響をどのように見ていますか。
 レカネマブは軽度認知障害や軽症認知症という早期の段階から中等度への移行を約3年遅らせられる薬効があるとされており、その意味は非常に大きいと思います。本人や家族の負担、社会の介護費用の負担が軽減されるメリットがあります。ただ、これまで医者が診てきたアルツハイマー病の患者は中等度以上がほとんどで、そうした方には適用できません。今、診ている患者には使えないので、医療機関にとっては発想の転換が求められる薬と言えます。その点で、普及のハードルは高いでしょう。

-レカネマブは病状の進行を完全に止められるわけではありません。効果が限定的である点はどう考えるべきでしょうか。
 レカネマブによってまず〝1合目〟に来た、病気の進行に直接働きかける薬が初めてできたということが非常に大きいです。例えば、ガンの治療では本庶佑さんが見出した免疫チェックポイント阻害剤というそれまでの抗がん剤と作用機序の全く異なる薬剤が2010年代に承認されました。これと他の抗がん剤を合わせて投与することで、治療成績が大幅に伸びました。それと同じ事がアルツハイマー病の進行抑制でも期待されます。アルツハイマー病は、脳内に「アミロイドβ」というタンパク質がたまった後、神経細胞に「タウ」と呼ばれるタンパク質が固まり、神経原線維変化という病変が起きます。この神経原線維変化を抑えるタウの抗体薬と、アミロイドβを標的にするレカネマブを合わせて投与する治験がすでに始まっています。

また、アルツハイマー病に関わる創薬のポートフォリオを見ると5年前は75%がアミロイドβを標的にしていました。その薬はできましたが、進行を完全には止められず、27%遅らせられるという結果でした。つまりはアミロイドβだけが原因ではないということで、現在は他のアプローチに基づく創薬が全体の75%くらいを占めています。まず、アミロイドβを標的とした薬ができたことで、次の段階に進んでいると捉えられます。

-承認済みの米国では年間2万6500ドル(約385万円)に設定されている高価な薬価も課題とされます。効果が限定的で高価な薬を保険診療でカバーすることに批判的な声もあります。
 日本での薬価がいくらになるかはわかりませんが、エーザイは日本におけるレカネマブの使用者数を約1万人と見込んでいます。それによって保険財政がパンクするようなことはないでしょう。また、進行の抑制により、介護費用などの外部費用を軽減できることも考慮しなければなりません。

-治験では投与を受けた人の12.6%に脳の腫れ、17.3%に微少出血という副作用が報告されています。
 投与時にはMRIを頻繁に撮る必要があります。MRI自体は広く普及しているので、それを適切に使っていくということでしょう。

-今後、レカネマブを適切に利用していく上での課題は。
 第一にメディアが正確な情報を発信することです。直近でも不十分な情報や誤った情報を基にした不適切な批判が散見されています。そうした批判によって、レカネマブ自体の価値が否定されるのは避けなくてはいけません。

第二は検査体制です。レカネマブを投与する際は、アミロイドβが溜まっているかどうかを確かめなくてはいけません。ただ、(脳内に蓄積したアミロイドβを可視化する画像検査装置である)「アミロイドPET」は設置している医療機関が非常に少なく、その装置が使えない場合は腰椎穿刺によって脳脊髄液を採取する必要があり、患者の負担が非常に重いです。現在、血液のバイオマーカーで一定程度スクリーニングできる製品の開発が進んでおり、それができれば負担はかなり軽減されるでしょう。

一方、初期段階の患者さんの中には症状を自覚されても、確定診断を受けたくない方がいらっしゃいます。それは個人の人生観によるものなので、(検査を受けるよう積極的に推奨はできない)難しさがあります。

-アデュカヌマブやバピネツマブなどアミロイドβを標的とした多くの薬が失敗に終わる中で、同じくアミロイドβを標的としたレカネマブが成功した要因はどこにあったのでしょうか。
 治験の設計は大きなポイントでした。過去の薬の治験では、アルツハイマー病以外の認知症の患者が入っていたり、副作用がよくわかっておらず投与量を増やすことができなかったりして治験が不完全でした。レカネマブはそうした過去の失敗に学び、フェーズ3で(偽薬を投与する)プラセボ群と10mg隔週投与群の1対1の関係でその薬効を検証する治験が設計できたため、誰も否定できない統計的に有意な数字として効果を示せたのです。

-2021年1月に単行本を発刊されてから文庫版を出されるまでの2年半、アルツハイマー病の薬を巡る動きは激動でしたね。アデュカヌマブが米国において条件付きで承認された後に批判を浴びて保険適用されずにバイオジェンが商業化の努力を中止することになった一方で、レカネマブはフェーズ3の結果が出て米国で承認されます。
 (アデュカヌマブが失敗に終わったことで、)メディアの多くは、アミロイドβを標的にすること自体が誤りではないかと考えていたようです。静かでしたから。しかし私は、レカネマブの治験設計は、これまでの薬の失敗をとりいれて、言い訳のきかない設計になっていたので、その結果を注目していました。だから、フェーズ3の結果が出る前から、その元々の開発者でスウェーデンの研究者であるラース・ランフェルトにインタビューをしていますし、エーザイの重要人物にも取材を申し込んでいました。いずれにしても、結果を含めてその経緯をつぶさに考察すれば、何らかの形で書けるとは思っていました。もし、レカネマブがうまくいかなければ、これはこの20年間のアルツハイマー病創薬の基本となっていたアミロイド・カスケード仮説が誤っていたことになるので、それはそれで大きなストーリーだと思って準備していたのです。

-文庫版ではアルツハイマー病の薬の開発に関わり、自らその病に罹患してしまうラエ・リン・バークさんがお亡くなりになるシーンが掲載されており、胸に迫るものがあります。
 本人にお会いできなかったことが残念です。コロナがなければ、サンフランシスコの彼女が生活をしていた施設に旦那さんと一緒に伺う予定だったので。本書で紹介していますが、友人で研究者のリサ・マッコンローグは弔辞で『14年前、私たちはどのようにアミロイドβを標的としたこのアプローチを成功させたらよいのかわかっていませんでした』『ラエ・リンが開発に参加した薬のアプローチは、先週の金曜日にFDAが承認した薬(レカネマブ)のものとなったものでした』と語っています。薬はいろいろな失敗を積み重ねて実用化されるということです。レカネマブを批判している人たちにはそれをまずわかる必要があると思います。

-下山さんにとってアルツハイマー病はどのようなテーマだったでしょうか。
 前作の『2050年のメディア』は土地勘があるテーマだったので、取り組みやすさがありました。一方、本作は脳科学や遺伝学、分子生物学など多岐にわたる知識が必要となります。一次資料にあたるという意味から、ネイチャーやサイエンスなどの論文には必ず目を通しましたが、とても大変で時間がかかりました。ただ、それをやり遂げたからこそ、自信をもって発言できます。

【略歴】ノンフィクション作家。1986年(昭61)早大政経卒、同年文藝春秋入社。長くノンフィクションの編集を務めた後、独立。93年コロンビア大学ジャーナリズム・スクール国際報道上級課程修了。著書に「勝負の分かれ目」「2050年のメディア」など。
日刊工業新聞 2023年09月15日記事に加筆

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